僕と一松が出会ったのは、僕が十七の頃であるからもう六十年以上も前の話になる。四人もいた僕と同じ顔をした兄弟たちも全て各々の理由で他界してしまったが、しかしそのどの兄弟にも、僕にとって唯一の弟である可愛い可愛いトド松にすらこのことを、一松のことを話したことはなかったし、おそらく一松の身の回りの世話をしていた人物たちも皆もうこの世にはいないであろうから、キットあの一松という不思議な青年のことを覚えているのは、この世で僕だけであるのだろう。その僕も、もう身体を癌に犯され、余命いくばくもない身の上となっている。妻も数年前に肺炎で他界してしまった。素晴らしい人生だったと思う。恵まれた人生だったと思う。それでもこの、順風満帆だと周りに羨まれそうな僕の人生にも一つだけ、後悔してもしきれないことがあった。それが、彼の一松という青年のことであった。僕は一度として、彼の話を他に話したことはなかった。それは自分の夢を口にしないのとよく似ている。口にした瞬間、あの青年は、一松は僕の架空の人物へとなってしまいそうで、僕はそれが怖くて怖くて一度も、あの兄弟たちにも、妻にも、そして子供たちにも伝えたことはなかった。しかしもうすぐ死ぬこととなった今、彼のことをこうして書き起こそうと思う。これを読むのは誰であろう。僕と妻の愛の結晶である、健やかに育ってくれた子供たちであろうか。それとも、僕に大層懐いてくれた可愛い孫たちであろうか。僕の病気を一から十まで世話をしてくれた医者や、看護師であろうか。そのことを僕が知る機会はきっとない。だからこそ、僕はこうして自由に、自分の思うままに筆を滑らせることができている。ああ、ああこれを読んでいる顔も分からない人物よ、どうか、どうか貴方だけでもいい。彼の、一松のことを覚えてやっていてはくれないか。墓もない、何もない、彼が生きていた証拠がどこにもないこの世界で、彼のことを、あの寂しがり屋で不器用な男のことを、覚えていてやってはくれないだろうか。


 前述したとおり、僕が一松と出会ったのは僕が十七の時のことであった。僕は当時野球部に所属していて、その練習の際の怪我で入院を余儀なくされていた。靭帯がどうの、骨がどうのとむつかしいことを周りはまくし立てていたが、当時の僕にとっては、夏の大会に間に合うかどうか、それだけが気がかりであった。とうとう我慢しきれず、身の回りの世話をする看護師に訊ねたこともあった。過労でやつれた頬を少しだけ困ったように緩ませ、彼女たちは私たちからはキチンとしたことは言えません、先生に聞いてやってください、とそんなことを言った。もうそれだけで、僕の足は捻挫やら打撲やら、そんな可愛げのある怪我ではないことが蛍光灯の下にさらされていたのだから、その時の僕の心中といったら言葉にできない。まだ若い、幼い少年の心に、どれだけの暗雲が立ち込めたことか、貴方に分かるだろうか。
 結局のところ、僕は一カ月という入院期間を言い渡された。その怪我の他に、何か腫瘍が見つかったらしい。悪性ではないからまだいいが、放っておくと切断を余儀なくされる。そんなようなことを言われたと思う。それでも僕は、そんなむつかしい先生からの言葉よりも、入院期間が一カ月ということに途方もない絶望を叩きつけられていた。僕が入院したのは七月の初めであった。だから、そんなに入院していたら、いや、一週間でも練習を抜けていたら、夏の大会のメンバーから外されることは明白だった。
 親や兄弟は、そんな僕の心境を慮って色々気を回していてくれたように思う。両親は来年があるといって僕を励まし、実の息子の身体にメスを入れられるという不安をひた隠しにしていた。兄弟たちは各々のやり方で僕を励まし、元気づけ、暇にならないように色々なものを持ってきてくれた。それでも、その中に野球に関連するものは一つもなかった。渡された雑誌や漫画類の中にすら一言も野球という単語がなかったところを見ると、皆が皆、それら全てを検分してくれていたのかもしれない。それでも、その時の僕に彼らの苦労を慮る余裕は全くなかった。
 僕は自分で言うのもなんだが、兄弟のうちで一番明るかったように思う。狂人のようだとすら言われたことがあった。しかし入院が決まったあとの僕は、まるで人が変わってしまったかのように物静かになってしまっていた。病院という、静寂を強制させる空気がはびこる場所であったことも助けていたのかもしれない。そんな僕に、兄弟たちは何事もなかったかのように、というと言い過ぎだが、そんなことには気づいていないかのように、普段通りの様子を見せてくれていた。僕が十七であったのだから他の皆も同じ歳であったのに、随分と酷なことを強いたと今なら言える。もしかしたら僕がいないところで、医師に怒鳴ったり、看護師に向かって無能だと唾を吐きつけていたのかもしれない。
 それでも彼らの日常というのは勿論ある。七月の初めと言えば、まだ僕たち高校生にとっては、あの退屈で仕方がない学校が長期休暇に入っていない時期であった。最初の頃こそ兄弟たちは休学するとでも言いそうな勢いで僕の病室に居座ろうとしたが、それを制したのは親でも医者でも教師でも何でもなく、他でもない僕であった。僕は、大丈夫だから。そう言った自分がちゃんと笑えていたのか、今でも分からない。
 兄弟たちはそんな僕を見て、しぶしぶとは言った様子であるが、各々の日常へと戻って行った。カラ松兄さんとトド松は部活動の中心にいる節があったし、チョロ松兄さんも生徒会の仕事があるのだから暇ではないのだろう。おそ松兄さんだって部活にこそ入っていなかったが、他の部活から助太刀を頼まれたり、友人からの誘いだってあったろう。だから僕は、大丈夫だと言って、夏休みになったら毎日来ていいよ、と言って、笑ってみせた。正直、そこには一人になりたいという意思もあった。他の人が、兄弟がいたら、自分ですら消化しきれない得体の知れない何かをぶつけてしまいそうで怖かった。
 だから僕は、両親も仕事で出払い、兄弟たちも面会に来ない平日の昼間は本当に一人きりであった。僕が宛がわれた部屋は四人部屋であったが、そこに入院しているのは僕一人だけだった。だから一人きりでその部屋を陣取っていた僕は、窓から見える中庭をぼんやりと見ながら、どこかからきゃらきゃらと聞こえる子供たちの声に耳を澄ませていた。
 手術は一週間後だと言い渡されていた。その日は日曜日だから、親も兄弟も皆、あの手術室の前に宛がわれたベンチの前で、まるでドラマか映画のような面持ちで待っているのだろうと思って、少し気が滅入った。皆には笑顔でいて欲しい。だけど僕ではなく、兄弟のうちの誰かが同じ状況になっていたとしたら、僕はとてもじゃないが笑顔でなんていれるわけもないのだろう。そう思ってまた、僕の気持ちは少しばかり沈むのだった。
 兄弟たちが持ってきてくれた本は全て読破してしまった。もともと読むのが早いというわけではなく、本当にやることがなく暇だったのである。期末試験はどうなるのだろうともちょっと思ったが、それはどうやら先生方が色々と工面してくれるらしかった。だから僕は試験勉強で頭を悩ませることも何もなく、本当に、ただぼうっと外を眺めていた。
 僕のベッドは窓際に位置されていた。その窓からは中庭がよく見え、色とりどりの花が咲いているのを見ることができた。だから僕はもっぱら、その花々を眺めていることが多かった。

 丁度その日も、もう何度も読み返してしまった本をぱらぱらと捲りながら活字を追うこともなく、ちらりと窓に視線をやっていた。そしてその時、僕は初めて、一松の姿を見たのである。
 最初、僕は兄弟の誰かが学校を抜け出して見舞いに来たのかと思った。そう勘違いしても仕方がないほど、僕たち兄弟と一松の姿は似通っていた。遠目だからそう見えたのではなく、近くで見ても、まるで生き別れの兄弟かと思うほど、僕たち兄弟と一松は瓜二つであった。
 しかしその時の僕がその人物が兄弟ではない別の人物だと思えるはずもなく、ああ仕方がないな、とでもいった風で苦笑したものだ。学校を抜け出すという悪行をしているとはいえ、兄弟が見舞いに来てくれるのはとても嬉しかった。だから僕は迎えに行ってやろうと、ベッドの横に置かれた松葉杖を手に取って病室から抜け出した。
 窓から見たその人物は一心に何かを見つめている風だったから、しばらくそこから動かないだろうという確信が僕の中にあった。だから僕は特に急いだ風もなく、階段で一階へと降りた。入院してから僕がエレベーターを使ったことは数える程度しかない。そんなものに頼っていては体力が落ちるのではないかと、なんとなく不安だったからだ。
 七月とはいえ、外は茹だるような暑さである。病室にいると夏の温度を忘れがちになるが、しかし外に出てみればその温度差に風邪をひいてしまいそうだと思った。僕は不格好な歩行をしながら、未だ一心に何かを眺め続けるその背中に近づいた。そこでようやく、僕はおやと思った。
 その背中は僕たち兄弟の誰よりも細く、薄く、やせっぽちなものであった。簡素なパジャマは大きなサイズなものであったが、その上からでも分かる細さはもはや病的とも言えた。その肌の色も、女性の健康的な白さなんかではなく、まるで一歩も部屋から出たことがないと言っても納得してもらえそうな、そんな不健康なものだった。
 僕たち兄弟は総じて皆健康体で、身体付きもそこそこいい。だからそこで、これは僕たち兄弟の誰でもないとようやく分かった。それでもここまで来てしまったのだ、僕はその人物に声をかけた。それが、僕と一松の最初のコンタクトであった。
「何見てるの?」
 声をかけられた人物は、すぐ近くまで迫ってきている僕に全く気がついていなかったらしい、びくりとその細い骨ばった肩を跳ねさせた。それに連動するように、がさごそと僕からは死角になっていた部分の草木が揺れ、猫が飛び出してきた。そしてその猫は一目散に僕の横を通り抜け、器用に病棟の隙間を縫ってどこかに行ってしまった。残されたのは僕と、僕によく似た男だけだった。
 僕は逃げ出した猫にではなく、その目の前の男から目が離せないでいた。目の前の男も、僕の顔を見て驚いているようだった。それもそうだろう、目の前に、自分とまったく同じ顔をした人間がいたら誰だってそんな顔をする。僕はまだ、一卵性の五つ子という稀有な環境にいるから慣れていたが、そんな僕でもそれなりに驚いていたのだ、彼の驚愕は計り知れないものだったに違いない。
 彼は色の悪い唇で「ドッペルゲンガー?」と小さく呟いた。そしてそれを言った直後、ポッとその白い頬に赤を差した。自分で言ったことのあまりの馬鹿馬鹿しさに羞恥を感じたのだろう。彼はふいと顔をそらした。
 そんな彼を、僕は不躾ながらまじまじと観察してしまった。
 彼は背面からでも分かるように、目に見えて不健康を具現化したかのような背恰好であった。パジャマから覗く鎖骨には血管が浮いて見えるほどであったし、その首には何度も注射を差された様な痕がいくつも紫色の痣となって残っていた。髪もぱさついていて、とてもじゃないが清潔感があるとは言い難い。髭こそ生えていなかったが、彼の顔は青白く、病的に痩せていた。
 しかしそれでも、僕と同じ顔をしていることは明白だった。僕が不健康になったらこうなるのだろう、という図を見せられたかのように、彼と僕は似通っていた。彼もそのことは分かり切っていたのだろう、だからこそ、ドッペルゲンガーなのかと僕に問うてきたのだ。問うてきたというより、もはや独り言に近かったが、そんなようなことを零してしまったのだ。
 僕はそんな彼ににっぱりと、まるで入院前のように笑って見せ、「僕十四松!」と元気よく名乗りあげた。そんな僕に毒気を抜かれたのだろう、彼の身体からするすると緊張が解れて行くのが分かった。
 彼はよろよろと立ちあがると僕の顔をまじまじと見つめた。彼が酷い猫背であるためか、僕の方が背が高いように思えた。しかしきっと、彼もしゃんと背を伸ばせば僕と同じくらいか、それ以上の立端であろうことが予想できた。
「俺は、一松」
 彼はそう言って、少しだけ笑って見せた。そうして、僕と一松は出会った。暑い暑い、夏の日の出来事だった。


 一松は産まれた時からずっとこの病院にいるのだと言う。身寄りはないが、死んだ両親が莫大な資産家であったために入院費に困るようなことはないらしい。それが嫌だと彼はよく零していた。病院の裏に抜け出しこそこそとどこから仕入れたのかよくわからない煙草を吸いながら、自嘲的に笑っていた。
 僕と一松はいい話し相手になっていた。二人して暇を持て余していたので、各々時間があればあの中庭の木陰で互いを待った。
 一松が何の病気であるのか、僕は知らない。今でも僕は、彼がどんな病に侵されていたのか知らないままであった。彼は潔癖なまでに自分のことについてはあまり話したがらなかった。だから自然、口を動かすのは僕の役目だった。彼は僕の荒唐無稽な話に文句も言わず、相槌を打ちながら、時々笑ってくれた。五つ子だというと彼は大層驚き、写真を渡すとその気だるげな目を見開いてみせた。
「おんなじ顔が六つもあるなんて、笑えるね」
 そう言って一松は笑った。口端を少しだけ上げて笑ってみせるのは一松の癖だった。一松は滅多なことでは大口を開けて笑わなかった。いつも何かを諦めたような、そんな目をして笑うことが多かった。僕はそんな一松をどうにかこうにかして笑わせてあげたくて、いつも馬鹿なことをしてみせた。松葉杖一本で逆立ち(と表現していいのかは定かではないけれど)をした時などは、彼は大層瞠目し、すごい、と感嘆の息を吐いていた。その後僕の重みに耐えられず松葉杖が折れた時の一松の慌て振りは今思うと笑ってしまうほど大袈裟で、まるで僕が崖から落ちてしまったかのように僕の身を案じてあたふたしていた。僕が大丈夫だと笑うと、ほっと息を吐いて、もうあんなことはするなときつく言われてしまった。
 一松はどうやら僕たちより少しだけ大人であるようだった。ちゃんとした年齢を本人から聞いたわけではないから定かではないが、そのどこか老成した雰囲気は、とてもじゃないが高校生の出すものではなかった。一度歳を訊ねたことがあったが、一松は「お前よりちょっとだけ大人だよ」としか言ってくれなかった。
「でもね、俺はお前より外の世界を知らないよ」
「そうかなあ。一松はきっと僕より頭がいいよ」
「そんなことあるもんか」
 そう言って、一松はいつも寂しそうに笑っていた。一松は一度も病院の外から出たことがないのだと言う。一度一松が親戚らしき人と話している場面を見かけたが、それはとてもじゃないが肉親同士が出す打ちとけた雰囲気だとは言えなかった。言葉少なに、業務的なことだけを告げる彼らを見る一松の目もまた、冷たく、まるでこの病院の空気のような重圧をもったものだった。
 僕が一松について知っているのは、一松が何か重たい病にかかっているということと、病院から一歩も外に出たことがないということ、そして猫が好きであるということだけだった。本当はあまり中庭に出ることもよく思われてはいないらしい。それでも一松は幾度となく病室を抜け出し、僕と中庭で話しこんだ。

「明日、手術なんだ」

 そう告げると、一松は少しだけその気だるげなまなこを瞬かせ、「そっか」と小さく呟いた。その視線と手は猫に注がれており、その頭を優しく撫でてやっていた。
 手術のことについては事細かに医者から説明されていた。術後のリハビリのことも。だから僕はそれを思って、少しだけ悲しくなったのだ。手術をしている間、そしてリハビリをしている間は、僕は一松と会えない。それがどうしようもなく悲しかった。
「怖いの」
 一松がそう、僕に訊ねた。僕はすぐに首を横に振った。もともと死ぬような手術ではないのだ。よっぽどのことがない限り、いや、よっぽどのことが起きたって失敗など有り得ない、そんな簡単な手術。だから僕のリハビリも、どちらかと言えば練習の際の怪我によるものの方が大きかった。
 それでも一松はそう僕に訊ねた。怖くないよと言えば、お前は強いねと一松は小さく笑った。
「俺は怖かったよ」
 一松の猫に触れられていない手は、自分の胸のあたりをぎゅっと掴んでいた。指によってぐしゃぐしゃにされたパジャマをそっと解きながら、「でも、三度目あたりからは怖くなくなったかな」と零した。それを聞いて初めて、一松が本当にとんでもないほどの病にその痩身を侵されているのだとまざまざと実感した。どうしたって、僕にとっての一松はニヒルに笑い、病人だというのに看護師から隠れて煙草を吸い、猫を可愛がる僕の友達でしかなかった。でも、一松の隣にはいつだって死という存在が付きまとっているのだ。付きまとって、つき纏って、その細い身体をぐしゃりと潰さんと躍起になっている。
「一松が退院したら、一松が知らない世界のことを俺が教えてあげる」
 そのことに気付いて、気付かされて、僕は咄嗟にそんな言葉を口にした。突然変わった僕の一人称に少しだけ目を丸くさせてから、一松は寂しそうに、でも嬉しそうに「うん、楽しみにしてる」と笑った。そして僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でまわし、「その前にお前が元気にならなきゃな」とその目を細めた。その様はまるで本当の兄のようで、僕は一松に一松兄さんと呼んでいいかと頼んでみた。一松はまた瞠目したが、すぐに笑って構わないと言った。身寄りがない一松にとって、その言葉がどれほどの重みを持っていたのか、僕には分からない。ただ一松が喜んでくれたという事実だけに、僕は浮足立った。
「僕、手術もリハビリも頑張るね、一松兄さん!」
「……ま、頑張るのは医者だけどな」
 そう言って、一松はニヒヒと笑って見せるのだった。


 僕の手術は滞りなく終わった。両親もほっと胸を撫で下ろし、兄弟たちは僕を胴上げせんばかりに喜んだ。涙もろいチョロ松兄さんやトド松は泣きながらよかったよかったと言い、おそ松兄さんとカラ松兄さんはこれからのリハビリも頑張れよと肩を叩いてくれた。
 僕はリハビリが許されるようになってから必死になってそれに打ちこんだ。そしてその合間合間に一松に会いに行き、今日は何があった、これができるようになったと報告した。その度に一松は笑ってよくやったと僕を褒め、頭を撫でてくれた。それが何より嬉しかった。
 医者も僕の回復力には驚いていて、これならすぐ退院できるだろうと言ってくれた。でも、僕はそれが少し寂しかった。せっかく大好きな野球ができるようになるというのに、この病院から離れることが悲しくて悲しくて仕方がなかった。

「明日、退院するんだ」

 退院する前日、僕はそう一松に言った。一松もなんとなくそんな気配は察していたのだろう、いつもとは違う、眉を下げて言う僕に、一松は困ったように笑ってみせた。「でも、夏休みだから毎日ここにこれるよ」「ばーか、学生は勉強しろっての」一松はそんなことを言って笑った。でもその顔にさみしさが乗せられていたのは、僕の勘違いなんかではなかったのだろう。一松はいつもより長く、いつもより優しく、僕の頭を撫でてから去っていった。その背中が寂しくて、悲しくて、僕はわんわんと泣き出してしまいたい気分になった。
 その日の夜は全然眠れなかった。兄弟がよかったなと言ってくれることに、うまく笑えていたか全く自信がない。退院できることは嬉しい。でも、一松と会えなくなるのは寂しかった。だから僕は、退院しても毎日一松に会いに来ようと、そんな決意をしてから瞼を下ろした。一松のあの冷たい手の感触が、まだ頭に残っている気がした。
 でも、僕の浅い睡眠もそんなに長くは続かなかった。まだ日も昇っていないような早朝に一松に揺り起こされたのだ。一松は眠気まなこの僕に、「外に連れて行って欲しい」と告げた。それだけで、僕は悟ってしまった。悟ってしまった上で、知ってしまった上で、僕はそれを笑顔で了承した。そんな僕に、一松はほっと胸を撫で下ろした。
 僕は素早く、兄弟たちが持ってきてくれていた服を取り出し、自分の分と一松の分をベッドに放り投げた。僕は黄色のパーカー。そして一松には、僕たち兄弟の誰が着るでもない紫のパーカーを手渡した。
「そんな格好じゃあ目立っちゃうからね!」
 そう言うと、一松は少しだけ恥ずかしそうに笑ってみせた。病院から出ることのない一松はきっと、一着も余所行きの服を持っていなかったのだろう。一松はパジャマを脱いで、そのパーカーを羽織った。下はジャージだ。僕はいつも通りの海パン。それを履いてみせたとき、一松は少しだけ目を瞬かせた(さすがに一松も世間一般の人々の私服が海パンでないことは知っているようだった)が、すぐにお前らしいと笑ってくれた。
 僕たちは巡回する看護師さんに見つからないようにそろり、そろりと廊下を歩きながら、非常口から外に出た。そして駐輪場に置いてある、誰のものだか分からない鍵の掛かっていない自転車に飛び乗った。一松が荷台に乗り、僕が漕ぐ。一松は初めての二人乗りに戦々恐々としていたが、すぐにその顔を打つ風の気持ちよさに目を細めていた。
「お前、ほんと運動神経いいんだね」
「ありが特大さよならホームラーン!」
 自分のバランス能力ではなく、僕が一松の分までバランスを取っていることを悟って、一松はそんなことを言った。それに僕は笑顔で返し、立ち漕ぎでまだ暗い空の下ぐんぐんと病院から逃げ出した。僕の大声が静かな早朝に響き渡る。それに一松はけらけらと笑い、小さくなっていく病院に向かってざまあみろと中指を立てた。
「どこ行く!? どこ行く!?」
「とりあえず、ラーメンってやつ食べたい」
 病院食にラーメンなんて不健康なものは存在しない。だから僕もちょうどラーメンを食したいと思っていたところだ。だから僕はこんな時間でもやっているラーメン屋を脳内で検索して、すぐにヒットした店に全力で向かった。走っていた車すら追い抜いた時は、一松は驚いたように「お前、やっぱ人間じゃねーわ」と笑っていた。それが何より嬉しかった。
 こんな早朝にラーメンを食べに来るやつなんて朝まで飲み明かしていた酔っ払いか酔狂なやつしかいない。そして僕らはその後者にあたる人間だった。暖簾をくぐった先の店内には人っ子一人いなくて、こんな時間にくる客に店員の方が目をぱちくりとさせていた。
「お邪魔しマッスル!」
 そう店内に入ると、一松も少し遅れて軽く頭を下げながら入店した。そしてカウンター席に座り、灰皿があることを確認すると一松はすぐに隠し持っていた煙草に火を付け、おいしそうにその紫煙を吸いこんだ。
「それ、おいしい?」
「病院食よりは」
 煙草を吸う大人びた仕草と、初めて入るラーメン屋という店の中をきょろきょろと見渡す子供っぽさがちぐはぐで、それがどうしようもなく可愛らしく、僕は思わず笑ってしまった。もともと口をぱっかり開けるのは僕の癖なのだけれど、それでも僕が笑っていることは一松にも分かったのだろう、少しぶすくれたように煙草の灰を落とした。
 一松にメニュー表を見せて、これがオススメ、これもおいしい、と勧めると、「お前はなんでも知ってるね」と一松は寂しそうに笑った。それがなんだか悲しくって、打ち消すように「あざーす!」と元気よく手を挙げてみた。店員は不審者を見るような目で僕たちを見ている。まあ病院を抜け出した時点で不審者なのだから、あながち間違ってはいない。
 一松は悩んだ末に、僕と一つのラーメンを分け合うことに決めた。二人分頼まなくていいのかと訊ねれば、そんなに食べられないと苦笑された。だから僕たちは醤油ラーメンと餃子を一つずつ頼んで、それが来るまでぱたぱたと足を振って遊んでいた。病院を抜け出すというのは学校を抜け出すのと同じような非日常感があって、それに一松もいるともなれば僕の心は浮足立った。それでも、着替える時にちらりと見えたゾッとするほど薄い一松の身体と、点滴を無理やり引っこ抜いたせいで点々とする血痕が、浮遊する僕の足をむんずりと掴んで現実に引き戻す。

 分かってる。これがどんな行為であることか。どんなものであることか。
 これは、一松の思い出作りなんだ。

 一松の煙草が一本吸い終わると同時に、ラーメンと餃子が運ばれてきた。初めて実物を見る一松の目は常の気だるさの中に好奇心を滲ませていて、ますます可愛らしい。僕は店員に取り皿を一つ持ってきてもらって、その小さな皿の中に一松の分のラーメンを入れてあげた。
「熱いから気を付けてね」
「子供じゃねーっつの」
 一松はなんとなく猫舌なイメージがあったけれど、実際その通りであるらしかった。何度も何度もラーメンに息を吹きかけ冷まし、恐る恐るといった感じでそれを口に入れた。そして病院食で味わうことができない味にキラキラと顔を輝かせ、「うんまー」と笑った。
「せやろせやろ」
 そんな一松を見て僕も笑いながら、丼ぶりを傾けてラーメンを口に流し込む。その様子に一松がまた目をまあるくさせる。「お前、箸の使い方って知ってる?」「ラーメンは飲み物でっせ兄さん!」そう言って笑えば、一松兄さんはまたおかしそうに腹を抱えて笑った。その拍子に汁が気管に入ったのか軽く咽っている。それに慌てるも、その目が嬉しそうに細められているのを見て僕はほっと胸を撫で下ろした。そして丼ぶりを置き、ちゃんと箸で食べ始めればよしよしとでも言うように頭を撫でられる。そんな僕たちの様子を、不審者を見る目から微笑ましいものを見る目に様変わりさせて、店員たちが見守っていた。きっと歳の離れたよく似た兄弟だとでも思われたのだろう。
 自分の分のラーメンを食べ終え、餃子をそのまま食べようとする一松に「こうするとうんまいよ!」と言って醤油と酢を混ぜたものを差し出す。一松は目を白黒させながらそれにちょんちょんと餃子を浸けさせ、口に放る。そしてまた、うんまーと言って目を細めた。その様が可愛くて可愛くて、僕はこんな時間が一生続けばいいのにと思った。
 一松は小さな取り皿に分けられたラーメンと、餃子一つを食べて箸を置いた。そして食後の一服として煙草に火を付ける。
「もういらないの?」
「腹いっぱい」
 そう言って、一松は寂しそうに笑った。そんな一松を見たくなくって、僕が餃子を皿ごと口に放り、皿を綺麗に洗ってからべ、と出すと、また一松は苦しそうに笑った。げほげほと、紫煙まじりの咳が店内に響き渡る。
 一松の煙草が吸い終わってから席を立ち、会計を、と思って財布を出そうとすると、「こういう時は大人に奢られておくもんだよ」と言って一松が樋口さんを一人出した。僕の一カ月分のお小遣いだと言えば、ヒヒ、と一松はやはり卑屈っぽく笑ってみせるのだった。
 店外に出て、再び自転車に乗りこむ。後ろに乗っている一松は、食後だというのに全く体重が変わっていない。まるで何も乗せていないかのような軽さに、少しゾッとする。あの薬くさい箱庭を逃げ出しても、一松を取り巻いてならないこれは一松を離してなどくれはしないのだと絶望した。その絶望を打ち消そうと、僕は必死にペダルを漕いだ。
 初めて来るゲームセンターの騒々しさに、一松は目を丸くさせていた。そして一人で太鼓の達人の二人奏をしてみせる僕に更に呆然としていた。「お前、腕何本あんの?」「二本に決まってまっせ兄さん!」どんどこどんどこ、二つの太鼓を叩いて見せる僕に、一松はまたおかしそうに煙草を吸いながら笑った。ノルマクリア成功どころかフルコンボを鬼で達成した僕に、一松はぱちぱちと拍手をした。
 一松がゲームセンターの騒々しさにやられてしまっているのは目に見えて分かっていたから、僕はもう一曲遊べるドン、というキャラの科白を無視して外に飛び出した。そして再びペダルを踏む。
「一松兄さんはさ、行きたいとことかないの?」
「んー」
 僕の身体に頭を預けうつらうつらし始める一松に問いかけてみると、しばらく思案したように唸った後、「うみ」と静かに告げた。

「海に、行きたい」

 その声音があまりにも透き通って、透き通りすぎていて、今にも一松が消えてしまうのではと怖くなって僕は後ろを振り返った。突然かち合った視線に、一松はぱちくりと目をしばたかせている。それににぱりと笑い、「がってんしょーちのすけ!」とペダルを強く漕いだ。
 早く、早く。遅く、遅く。そんな矛盾した気持ちを抱えながら、僕は自転車を漕いだ。きっとこれが最後の場所になる。そろそろ僕たちが抜け出してしまったことが病院側にばれる頃合いだ。そしたらやばいなあ。警察とか呼ばれちゃうかも。そう零したら、二人して豚箱入りだねと一松は笑った。一松となら悪くない。一松となら、牢屋だろうが豚小屋だろうが何でもいい、この軽くて軽くて、透き通って今にも消えてしまいそうな一松を連れて逃げだせる場所があるなら、どこだって構わないと思った。
 それでも、僕たちは海に着いてしまった。自転車を止め、砂浜に足を沈め隣に向くと、一松は煙草を吸うことなく、まっすぐ海を眺めていた。静かに、ただただまっすぐ凪いだ海を見つめていた。
「ねえ、十四松」
 ぱちゃぱちゃと、一松の骨ばった指が波を弄ぶ。僕はその隣に立ちながら、そんな一松を見下ろしていた。
「これが、海のにおいなんだね」
 様々な生物が産まれ、死んでいくにおい。そのにおいを浴びながら、死を背負った一松は薄く笑った。笑って、わらって、それが今にも消えて行ってしまいそうで、僕はたまらず一松を抱きしめた。ばしゃん、と二人して倒れた先の海が、悲鳴を上げるように水しぶきを立てる。
 背中を海につかしたまま、一松が静かに僕を見上げる。僕も、ただ黙って一松を見つめた。びいだまのように透き通った瞳に、僕がゆらゆらと映り込んでいる。その顔は、とてもじゃないが格好いいとは言えなかった。僕は今にも泣きだしそうな、ただの子供だった。
「そんな顔すんなよ」
 一松はそう苦笑して、海水で濡れた手を僕の頬に当てた。そしてゆっくり僕の顔を下ろさせ、優しく触れるだけのキスをした。一松とのキスは、海水の死の混じった、しおからい味だった。それがどうしようもなく悲しい。
 そっと唇を離して、一松は笑った。朝日に照らされる一松の顔はとても綺麗で、同じ顔だというのにここまで違いが出てしまうのかと驚いてしまった。それほどまでに、今の一松はとても綺麗で、とても儚げで、とても悲しかった。
「僕が死んだら、ここにまいて」
 そうしたら、お前がどこにいても、一緒にいれるから。そう言って、一松は笑った。僕はそんな一松を抱きしめて、抱きしめて、声を押し殺して泣いた。嗚咽を零す僕を、一松は優しく抱きとめて、ただただ静かに撫で続けた。それは、覚えてもいない胎盤を思わせる、そんな優しい、愛おしいものだった。先ほどのキスと同じ、死のにおいを感じさせる、そんなどうしようもないほどに、悲しいものだった。


 その日の夜、一松は静かに息を引き取った。満足げに微笑んで、苦しむこともなく逝ったと、馴染みの看護師から聞いた。


 その後の一松の葬式は、とても質素で侘しいものだった。一度だけ見たあの親族らしき人と僕しかいない葬式の中で、棺桶に横たわる一松はやっぱりその周りを彩るどの花より美しくて、儚かった。
 一松の遺灰を譲ってほしいと頭を下げれば、親族らしき人たちは一部だけではなく全ての遺骨と灰を僕に手渡した。本当に、一松とこの人たちの間には血以外の何も繋がっていなかったのだろう。僕は深く深く頭を下げて、随分と小さくなってしまった一松を受け取った。
 遺灰を海にまくというのはそれなりに手続きが必要で、それに一番時間がかかってしまった。だから結局、一松の望み通りにその灰があそこに、海にまけるようになったのは葬式から一カ月もしたあとのことになってしまった。誰にも言わず、黙々とそんな作業をする僕を兄弟たちは不思議そうに見ていたが、特にみんな、何を言うでもなく、何をするでもなく僕を見守っていてくれていた。
 一松にはきっと、自分を無条件で受け入れてくれる人間なんて一人もいなかったのだろう。あの白い箱の中に二十年間以上閉じ込められ、一人ぼっちで猫と戯れ、煙草を吸っていたに違いない。一松の人生を知った人々は、可哀想にと彼を憐れむことだろう。せめて来世では幸せに、とその生涯を悲しんだことだろう。
 僕はそうは思わない。確かに一松は二十数年、あの箱の中で暮らしていた。でも、最後の最後で、僕に出会えた。僕と、過ごせた。だからきっと、一松の人生はとても幸せであったはずなのだ。言葉で聞いたわけじゃない。手紙で書かれたわけでもない。だけど僕は、自信をもって、胸を張ってそう言える。一松の人生は、決して悲しく辛いだけのものではなかったと。

 病院を抜け出した日と同じような早朝に、僕はあの海へと一人で、いや、一人じゃない、だいぶ小さくなってしまった一松と二人で、赴いた。自転車を止め、一松を抱きかかえる。
「綺麗だね、一松兄さん」
 朝日を反射してきらめく海はとても綺麗で、それでいて死のにおいを充満させた、悲しいものだった。あの日の一松とおんなじだ。死を背負い、それでも美しいままだった一松と。
 ぱちゃん、と靴で波を蹴る。そしてあの日と、一松とキスをした時と同じように、僕は静かに一松が入った瓶の蓋を開け、それを掌に収めた。僕の片手で収まってしまうほどの量しかない一松の灰は、ひらひらと音もなく風に流され、そして空気に、海に溶けて行った。日の光を浴び、ようやく得た自由に歓喜しながら、一松は消えて行った。
 自分の胸に手を当てる。一松の骨は、時間をかけて僕が全て食べた。これで僕と一松はいつでも一緒だ。僕の中で、一松は生き続ける。一松と、共にあれる。

「好きだよ、一松」

 そう呟いて、僕は泣いた。わんわんと、子供のように泣いた。優しく撫でてくれる手はもうない。愛おしそうに抱きしめてくれる身体はもうない。それでも、それでも一松は僕の中で生き続け、空気となり海となり僕を見守っていてくれる。それでも僕は、寂しくて寂しくて、悲しくて悲しくて仕方がなかった。あの日触れた唇はもう二度と味わえない。あの、死を含んだ悲しい唇とは、寂しい唇とは、愛おしい唇とは、もう二度と。
 僕は永遠に一松を愛し続ける。あの一カ月しか時間を共にしなかった男に、恋をし続け、共に生き続ける。これを読んだ者は僕を罵倒するだろうか。軽蔑するだろうか。妻がある身で何をと、眉を潜めるだろうか。確かに僕は妻を愛した。子を愛した。孫を愛した。それでも、あの身を焦がすようなこの恋心だけは、覚えてもいない胎盤を思わせるこの愛だけは、あの寂しく悲しい男だけのものだった。
 僕が死ぬ時、一松も死ぬ。僕の血となり骨となり肉となった彼は、僕が死ぬと同時に消える。遺言書には遺灰の一部をあの海にまいて欲しいと記してある。
 そう、僕が死に、彼と同じように灰となり、あの海にまかれることでようやく、僕たちは結ばれるのだ。僕たちは、永遠になれるのだ。
 これを読んでいる者よ、どうか覚えておいてはくれないか、あの悲しい男のことを。そしてその男に恋した、哀れな男のことを。どうか覚えておいてはくれまいか。死によって完成される僕たちの愛を、どうか、どうか。


平成××年 ×月×日 松野十四松



title by へそ
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こちらの作品は友人の素敵イラストから書かせて頂きました!
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スペシャルサンクス、いやセクロス!!


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