いつも通りでいいって言ったのに、母さんは僕の言葉を聞こうともせず寿司を頼んだ。それも松竹梅の松のやつ。いくら松だらけの家庭だからって、こんな特上の寿司を頼むのはきっと僕たちが産まれてから初めてのことではないのだろうか。いかにも高そうな箱で運ばれてきた寿司に、僕はなんとも言えない気持ちを抱きながらはにかんでいるとも微笑んでいるともいえない微妙な表情をすることしかできなかった。もともと祝われたり褒められたりするのは得意ではない。いつだって僕たちは六人全員で祝われたり褒められたりしていたから、いざ僕一人だけ祝福されたり称賛されたりすると、どうしたらいいか分からなくなってしまうのだ。だから僕は俯いて、他の四人が騒ぐドンチャン騒ぎに紛れてそっと視線を床に落としていた。
 一番喜んだのは母さんと父さんだ。まさか僕たち六人の中から進学者、それも学費の負担が限りなく少なくなる私立大学への特待生へとなる人物が出るだなんて思いもしなかったのだろう。それも、誰もが一度は聞いたことのある大学へ僕は受かってしまったのだ。そう、受かってしまった。その言葉に尽きる。教師がお前なら大丈夫だと肩をたたく励ましの言葉も、模試で堂々とA判定を刻むテスト結果も、何もかも、僕にとっては邪魔で鬱陶しいものでしかなかった。まるでお前は他の五人とは違う生き物なのだと嘲笑われているようで、僕はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。だったらテストで手を抜いたり、そもそも受験などしなければいい話なのだけれど、流されやすい僕はとうとう自分の意志を全く持たぬままこんなところまで来てしまった。笑えない話だ。
 カラ松はお前なら絶対大丈夫だと思っていたと笑って僕の頭を撫でた。同じくセンター試験を受けていたチョロ松兄さんはその時点でどの大学にも引っかからないことを教師に言い渡されていたから、どの科目も平均して八割以上をとっていた僕をなんとも言えない目で見つめていたが、それも一週間もすれば僕の分まで頑張ってくれと言うようになっていた。そして今日、チョロ松兄さんは涙目になりながらよくやったと僕を褒めてくれた。十四松は僕を胴上げし(一人で、だ。相変わらずとんでもない弟である)ばんざーい、ばんざーいと何度も笑っていた。トド松もそんな十四松に乗っかってばんざーい、だなんて言いながらスマフォで写真を撮っていた。自分の兄が名門私立に入学するとでも自慢するのだろうか。
 滅多にお目にかかれない寿司を前にみんな目を輝かせ、このネタは自分のだ、これは苦手だからお前にやる、だなんて大乱闘をして浮かれている。そんな空気から逃れるように視線をちらり、と移動させる。今日、いや、今日だけではない、僕が大学受験を無事完遂させてしまった時から、まるで人が変わったように無口になってしまった兄に、そっと目を向けた。視線は、合わなかった。
 おそ松兄さんは無言のままマグロに手を伸ばしていた。他の兄弟も最初は何か言いたげにおそ松兄さんを見ていたが、皆各々そんな長男の空気を誤魔化すように騒ぎ始めたので、そんな空気に溶け込むことも紛れ込むこともできない僕とおそ松兄さんは、まるで迷子になった子供のように所在なさげに肩を下げている。
 おそ松兄さんは僕の頭を撫でなかった。チョロ松兄さんのように僕を褒めなかった。十四松と一緒に胴上げなんてしなかった。トド松と一緒にばんざいなんて言わなかった。ただ無言で、僕をじっと見つめたあと、煙草を吸いに出て行ってしまった。少し前は僕もそれについて行って、お互い違う銘柄を吸いながらとりとめもない話をしていたというのに、僕はその背を黙って見つめることしかできなかった。伸ばそうとした手はぴくりとも動いてくれなかった。そんな僕の背を、カラ松が優しく撫でるもんだから、自分でも分からない何かが溢れそうになって必死に唇を噛んだ。今でも何が溢れそうになったのか、僕は全く分からなかった。ただ、涙でないことだけは確かだった。
 どんどん寿司の数は減っていく。六人も男子高校生がいればこんなもんだ。僕たちの食卓はいつだって戦争だ。弱い奴からおかずを食いそびれて行く。昔はよく自分の取り分を確保できない十四松に自分の分を分けてやっていたもんだが、今はそんなことも滅多になくなってしまった。むしろ、もっと食べなよ一松兄さん、と十四松が僕の皿におかずを乗せることの方が多かった。でも、今日はそんなことも起きない。僕はいそいそと、ぼそぼそと目の前の特上の寿司に手を伸ばした。食べた寿司は、値段にそぐわず全く味がしなかった。
 寿司を食べ終え、それが片付け終わると今度はケーキが出てきた。ワンホールの、まるで誕生日ケーキのような豪華なものだ。ブルーベリーが散りばめられたそれは、きっとトド松が選んだものなのだろう。視線を末弟に向ければ、悪戯っぽくウィンクを返されて少し笑ってしまった。一度として僕はブルーベリーが好きだなんて公言したことなどないのに、この目ざとい弟の前ではそれも意味をなさないらしい。切り分けたのは几帳面なチョロ松兄さんだった。一番大きく切り分けられたケーキを渡し、本当におめでとう、とチョロ松兄さんは僕に言った。僕はそれに曖昧に笑いながらありがとうと返すことしかできない。まるで血液の代わりにセメントが身体を廻っているかのように、身体がだるい。
 こうやってケーキやら何やらを切り分けた時、一番大きいのはだいたいおそ松兄さんのものになることが多かった。おそ松兄さんが一番大きいのは俺の! と言って騒ぎ立てて暴れるから、皆それに呆れつつも笑いながら一番大きな取り分を譲り渡すのだ。だというのに、今日はそれが僕に渡される。こんな間違いがあっていいのだろうか。
 間違い。誤り。疵瑕。あまりにも分かりやすいバッテンなのに、誰一人としてそれに触れない。当たり前のように、一番大きなケーキを僕に手渡す。おめでとうと笑いながら、よくやったと褒めながら、それを僕に与える。それにどうしようもない吐き気を覚えた。自分のことをこんなにも祝ってくれているというのに、褒めてくれているというのに、僕はそれに笑顔でありがとうと言えない。おいしそうとケーキを素直に受け取ることができない。
 そんな僕にも、そしておそ松兄さんにも皆気付いているのだろう。それでも、今日ばかりは、今日だけはと目を瞑る。知らんふりをする。明日から違う土地で全く異なる生活を送る兄弟にせめて笑顔でいて欲しいと、皆おそ松兄さんから、目をそらす。構ってちゃんで寂しがりやな長男から、目をそらす。
 きっと僕がいなくなってもこの四人は変わることなく自分の日常を回すことができるのだろう。もしかしたらこれをきっかけに、何の進路も決めていない四人が自分の未来を見据え始め、何か行動を起こすようになるのかもしれない。そうしたら、そうしたらその時、おそ松兄さんはどうなってしまうのだろう。誰が、おそ松兄さんを支えてくれるのだろう。知らず、拳に力がこもった。

「大丈夫だよ」

 俯く僕に、十四松が優しく告げる。そうっと顔を上げれば、十四松が、いや十四松だけじゃない、皆が笑顔で、それでも少し眉を下げながら、僕を見つめる。優しく、優しく僕を包み込む。
「大丈夫、僕たちも、一松兄さんも、大丈夫だよ」
 四対の目から、無言で自分のケーキをつつくおそ松兄さんに視線を移す。おそ松兄さんは僕を見ない。あの日、煙草を吸いに出て行ったあの日から、僕とおそ松兄さんは一言も言葉を交わしていなかった。それどころか、一度として視線が合うことがなかった。まるで僕が透明人間になってしまったかのように、おそ松兄さんの視界に存在しなくなってしまったように、僕はおそ松兄さんから認識されなくなってしまった。
 おそ松兄さん。そう呼びそうになった唇に、歯を突き立てる。ぷつりと音を立てて破けたそれは、真っ赤な血を流して口を汚した。カラ松が僕の肩を優しく叩く。チョロ松兄さんが僕の頭を優しく撫でる。十四松が僕を後ろから抱きしめる。トド松が僕の手を握る。大丈夫、大丈夫。何が大丈夫なんだろう。
 いつも一緒だった。何をするにも一緒だった。どこに行くにも一緒だった。何もかもがおんなじで、みんなが僕で僕がみんなだった。でも、それもどうやら許されなくなってしまったようだ。世間という、どうしようもない重圧によって、そんな子供遊びなルールは潰されてしまった。その最後の重りになったのは、僕だ。松野一松という、兄弟がいなきゃ何もできないクズ人間である僕だった。
「大丈夫だよ」
 大丈夫、僕は大丈夫。僕は、大丈夫。でも、おそ松兄さんは? おそ松兄さんは大丈夫なの? 六人が六人じゃなくなって。一人欠けて五人になっても、平気なの? 僕なんていてもいなくても一緒なの?
 僕が家を出る日は奇しくもゴミの日だ。ゴミが出て行くには丁度いい日。お似合い過ぎる。むしろ出来過ぎているといってもいい。
 僕に全く目を向けず、無言でケーキをつつくおそ松兄さんをまっすぐ見つめて、僕は言った。大丈夫だよ。僕は大丈夫。僕は大丈夫だから、皆、おそ松兄さんをどうにかしてあげてよ。この人はとんでもない構ってちゃんなんだ。どうしようもない寂しがりやなんだ。だから、だから僕なんかじゃなくて、この人の傍にいてあげてよ。この人の肩を叩いてやってよ。この人の頭を撫でてやってよ。この人の背中を抱きしめてやってよ。この人の手を握ってやってよ。
 それでも皆は僕から離れない。僕を優しく包み込んだまま、大丈夫、大丈夫と呟き続ける。うん、僕は大丈夫だよ、僕は大丈夫なんだ。でも、でも、おそ松兄さんは?
 おそ松兄さんはケーキを食べ終えると無言で居間を立ち去り、外に出て行った。きっと煙草でも吸いに行ったんだろう。僕もそれについて行きたい。同じように煙草をふかし、どうでもいいことで笑い合いたい。どうでもいいことを言い合いたい。なんでもない時間を、共有したい。
 でも、もうそれはできない。僕が壊してしまった。他でもない、僕自身が。
 血で滲んだ唇を舐める。煙草が吸いたくて吸いたくて仕方がなかった。


 おそ松兄さんはみんなが銭湯に行って寝ようという時間になっても帰ってこなかった。カラ松の眉が吊り上がる。チョロ松兄さんの三白眼が歪められる。十四松がそんな二人を見て困ったように笑う。トド松は無表情。何を考えているか分からなくて怖い。
「いいんだ」
 布団を敷きながら、僕は静かに言った。この布団で寝るのも今日で最後だ。いや、きっと僕が実家に帰ってくればこうして六人、昔と同じように眠るのだろうけれど、でも、それだって一時的なものでしかない。当たり前のようにこの布団に入り夢の国へと旅立つのは、今日で最後。それが五人になってしまったのは寂しいことだけれど、自業自得なのだから仕方がない。
 僕の言葉に、カラ松がでも、と声を荒げる。それを静かに制す。いいんだ、いいんだこれで。ゴミでクズな僕にはお似合いだ。この六人という環境を壊した僕にとって、当然の報いだ。瘡蓋にすらなっていない唇に、また歯を立てる。もうこの血の味も慣れてしまった。
「寝よう」
 振り返って言う。これで、これで最後なんだ。でも、それでいい。あの人がいなくたっていい。それで、いいんだよ。
 皆はしぶしぶ、といった様子で布団に入り、電気を消した。しばらく誰も眠る気配を見せなかったが、一時間もすれば一人、また一人とその瞼を落としていった。それに、僕はほっと胸を撫で下ろした。
「一松」
 隣にいるカラ松が、僕を呼ぶ。安心させるように頭を撫でながら、僕に笑いかける。長男がいない今、一番の兄になってしまっている次男が、僕を優しく包み込む。
「おそ松のことは、俺たちに任せておけ」
 だから、大丈夫だ。そう言って、カラ松は眠った。僕は、眠れなかった。いつまで経っても、時計の短針が三を示しても、僕は眠れなかった。ただ何年間も見続けた天井をぼうっと眺めていた。
 不意にからり、と襖が開いた。その音に身じろぎそうになって、身体を固める。音はそのまま自分の定位置に収まると、すとんと布団に入りこんだ。僕は天井を眺めながら、その音に言った。
「おそ松兄さん」
 僕は大学を合格してから初めて、長男の名前を呼んだ。それでも返事はない。それでいい。それでいい。返事なんていらない。だってこれは、僕の独り言なんだから。返し文句なんていらない、ただの独り言なんだから。
「ごめんね」
 大きな独り言をつぶやいて、僕は目を閉じた。ごめんね。いったい何に対して謝っているというのだろう。この箱庭を壊してしまって? この環境を作ってしまって? 六人を、五人にしてしまって? 僕自身、何に対して謝っているのか分からなかった。
 でも、その言葉を口にして初めて、僕は涙を零しそうになった。それを、唇を噛んで防ぐ。泣くな、泣くな。僕が悪いんだ。僕が全部悪いんだ。だから、泣くのは僕じゃない。泣いていいのは、おそ松兄さんなんだ。
 おそ松兄さんは何も言わない。何も返さない。嗚咽も零さない。時計の秒針と唇から流れ出る血だけが、時間が経過していることを僕たちに教えてくれていた。
 いっそのこと、止まってくれていたらよかったのに。みんながみんな、おんなじだったあの時のまま。


 誰も起きていない早朝、僕は玄関に立った。皆に送られての門出だなんてゾッとしない。僕みたいなゴミは、誰に見送られるでもなく一人で出て行くのがお似合いだと思った。両親にはもう話は付けてある。何か言いたげな顔ではあったが、最終的には僕の我儘に付き合ってくれた。だから今この家で起きているのは、僕だけ。僕一人だけ。
 煙草に火を付ける。もう荷物はアパートに届けてある。だから、僕一人が出て行けば済む話なのだ。僕一人が、この家から出て行けば全ておしまい。このしんみりした空気も、虚しい騒々しさも、終わり。きっと三日もすればみんな、僕がいない日常に慣れて行くはずだ。それを少しさみしいと思ってしまうのは、それこそ僕の我儘だろう。サンダルでなく、スニーカーをちゃんと履いて、玄関の扉を開ける。早朝の冷たい空気が、僕の肌を打った。
 ポケットに入っていた煙草を手に取り、くわえる。僕の銘柄じゃない。僕の吸っている煙草のパッケージは、こんな赤と白を基調としたものじゃない。もっとわけのわからないどこの国のか分からないような文字が書いてある、外国製のまずい煙草だ。
 火を付け、紫煙を吸いこむ。喉を焼くそれを感じながら、僕は玄関から一歩、外に出た。
「一松」
 出た、のに、ぐん、と手首を掴まれた。その拍子に、煙草が口から零れ落ちる。アスファルトに落ちても消えなかった火種はゆらゆらと紫煙を漂わせたまま、静かに赤く光っている。
 振り向かなくても分かる。見なくても分かる。手首を掴むこの手が、誰のものであるのか。
 だって、だって僕が十八年間、焦がれて焦がれて仕方がなかった、あの赤色のものなのだから。

「行くなよ、一松」

 腕を引き寄せられ、身体を抱きしめられる。いつの間に着替えたのか、パジャマではなく赤いパーカーに僕は包まれた。その背に、手を回す。
「うん、ここにいる」
 ようやく出ることが叶った涙でパーカーを濡らしながら、僕はおそ松兄さんに縋りついた。とくんとくんと伝わる鼓動が心地いい。じんわりと広がるぬくもりが愛おしい。
「ここに、いる」
 ぎゅう、と抱きしめる腕に力を込める。僕の涙が落ちて、アスファルトの上の煙草の火を消した。じゅ、って。



BGM:花瓶に触れたbyバルーン
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