※浮遊松もどき



 ふよふよと漂うそれに僕が卒倒しなかったのは、それが十四松のものであるという確信があったからだった。十四松のもの、いや家族以外のものだったのならば、僕は目の前の現象に悲鳴を上げ過呼吸になりながら警察に電話をしていたのだろう。電話口の相手の返すものが苦笑であるのか怒声であるのかは神のみぞ知るところである。
 僕は天井付近に浮遊しているそれをジャンプして掴もうとして、そんなことをしてしまったら握り潰してしまうかもしれないという可能性に辿り着き、黙って安っぽい椅子を物置からのそのそと持ち出してそれに乗った。他の兄弟が見たら自殺しようとしているとでも勘違いされそうな構図だな。もっとも僕の首を吊る縄は勿論なく、僕もそんな気はさらさらないのだからそんな思想は杞憂にすらなれない何かなのだろうけれど。だいたい、今浮遊しているものを見てそんな考えに陥る人間は、僕たち兄弟の中でまずいない。あのクソ松ですら、あのイタイタしさ全開な科白で「困ったボーイだな、十四松は」とバーンと頭を撃ち抜く仕草をしてみせるのだ。できれば仕草だけでなく、実弾でその脳天をぶち抜いて欲しい。まじで。
 そうっと、その天井から吊られるでもなく床から何かで支えられているわけでもなく浮遊しているそれを包み込む。持ち主の肉体からどんな方法で抜け出してしまったのかは知らないが(考えたことがないわけではないが、その答えに辿り着いた瞬間発狂する自信があったので僕はそこで思考をやめた。誰だって自分が廃人になる姿なんて想像もしたくないだろう)、どうやら今日も今日とてこの手の中にあるものは十四松の身体から逃げだしてしまったようだった。クソ松が主人ともなればその思考回路に首がもげるほど首肯し、熱い抱擁を交わすのだが、これは十四松のものであって、あのクソのものではない。だから僕は首肯するでもなく抱擁を交わすでもなく、そうっとそれを包み込むのだった。とくんとくんと鼓動を刻むそれに、いったいどんなシステムなんだとまたもや廃人への第一歩を踏み出しそうになってしまったので、僕はあわてて椅子から降りた。
 それを大事に抱えながら階段を下りれば、居間にいたチョロ松兄さんと目が合った。僕がまるで初めて見る昆虫を捕まえた子供のようにそれを大事に大事に掌で覆っているのを見て、呆れたようにその三白眼が細められる。

「またなの」
「うん」

 はあ、と一つ溜息。勿論チョロ松兄さんのものだ。確かに溜息を吐きたくなるような状況であることは理解できる。誰だって自分と同じ顔をした弟の中身を抱える人間なんて(それも抱える人間すら同じ顔なのだから笑えない冗談だ)見たくもないのだろう。発狂していないところは流石松野家の六つ子の一端といったところか。
 確かに僕たち六つ子はみんなどっかしらおかしい。頭の螺子が緩んでいたり足りなかったり、数は合っているはずなのに構築が間違っていたりする。じゃなきゃこの歳でニート生活なんて送っていない。人体自然発火もしなければ触れたものを燃やすこともない。平和な世界線だ。
 チョロ松兄さんは僕に手をひらひらと振ることもなく、無言で手にある本に目を落とした。タイトルは「自意識との正しい付き合い方」。まだ男女の正しいお付き合いの仕方という本を読んでいる方が健全である。あんたは一生あの発光ダイオード並みの光力を持つ自意識とは付き合えねーよ。僕たちの誰かがトト子ちゃんと結婚するくらいありえない。
 サンダルを足に突っかけて外に出る。頬を舐める生ぬるい風は、今が夏や冬なんかとは違う、よく言えば過ごしやすい、悪く言えば中途半端な季節であることを雄弁に語っていた。今はまだぬくさを持った空気も、日が落ちればすぐにそのなりをしのばせて冷たく僕の身体を苛むのだろう。それは御免被りたい。別に僕は特段寒さに弱いわけではないし、むしろ強い方だという自負があるけれど、僕のすぐ下の弟は温度変化、というか五感というか、そういう人間の本能的な部分が強いせいか、寒さに異常なほど弱かった。
 絞められた際の首の感触を思い出して、少し瞬く。あのときはマジで死ぬかと思った。死ぬかと思いながら脳内で三回ほどクソ松を殺しておいた。そもそもとして、チョロ松兄さんがまっすぐガソリンスタンドに行かず飲み明け暮れていたことが全ての元凶なのだろうけれど、どういうわけか僕の不満や不快感というのは全てあの次男に向けられてしまうことが多かった。おお、さすが六つ子の一端。やっぱり僕も頭の螺子がどこかしら緩んでいたり足りなかったり、構築を誤ったりしているらしい。

 さすがに人目に出るということで、掌に収めていたそれをパーカーのポケットにしまう。母さんが毎日柔軟剤を入れ洗濯し日光のもとに干してくれているおかげで、僕たちのパーカーはいつだってふかふかだ。だからこれに傷がつくことも、痛むようなこともない。松代さまさまだ。今も僕たちを養うためにあくせくと働いているであろう母さんに向かってそっと手を合わせておく。すれ違った寂れたサラリーマンに不審な目を向けられた。
 進める歩に迷いはない。十四松は突飛で突拍子もない奴ではあるが、日々行うことのレパートリーは意外と少ない。野球(本人はやきう、と発音する。なんのこだわりがあるんだろう)に行くか、パチンコ屋に行くか(こういう時はだいたい誰かを連れてそこに赴く。チョロ松兄さん以外の兄弟が各々の理由で外出している今、パチンコ屋にいる可能性は限りなく低いだろう)、ドブ川でバタフライをしにいくか。その三つのどれかなのである。まあ他の兄弟も似たり寄ったりなんだけど。行動範囲が異常に広い(といってもこれは僕たち兄弟の中での話なので、世間一般的に言えばトド松こそが正常なのかもしれない)のは、トド松だけだった。あいつを探すとなるとなかなか骨が折れる。もっともそんな苦労を、僕は産まれてこの方数える程度しか経験したことがないのだけれど。

 これが持ち主の身体を抜け出し呑気に浮遊しているのを見つけるたび、律儀にそれを持ち主に届けに行ってやる僕におそ松兄さんは「お前は真面目だねえ」と漫画をめくりながら言った。真面目なもんか。僕が真面目だったのは中学生までだ。あの頃は真面目だったのに、何をどうすればこんなクズに成り下がるのか。あの頃も自覚がなかっただけでクズではあったのだろうから、自覚がある今の方がいくらかマシなのだろう、自意識的意味で。
 結局、自分をちゃんと把握できてるか、正確に把握できないにしても、おおまかな形でもいいから自分を理解することこそが、自意識との向き合い方だと僕は思っている。だからチョロ松兄さんもそうして自分がクズであることやら何やらを認めればいいのに、あの三男は一向にそんな様子を見せない。現実から目をそらし、理想を語る自己啓発本ばかりに目を向ける。だからあの人の自意識はライジングしたまま持ち主の掌に収まろうとしないのだ。
 僕のパーカーの中でとくとくと脈打つこれならまだしも、チョロ松兄さんの自意識は僕じゃなくとも、あの何だかんだで頼りになるおそ松兄さんやクソ松を持ってしても、持ち主の元へ返すことは叶わないのだろう。その理由はきっと、チョロ松兄さんが自分の内部について全く考えていないからだ。外面ばかり気にして、自分の中身には全く視線を寄こさない。だからああやって、目を潰すほどの光線を持って持ち主の元から飛び出してしまうのだ。飛び出してしまうという事柄について言ってしまえば、今僕のパーカーのポケットの中にあるこれとやってることは変わらないのに、意味が全く正反対だ。十四松のこれは、自分の内部について考えて考えて、考えすぎた末に起きる現象だ。もっともそれは僕がそう思っているだけで、本当はもっと別の、もっと僕の考えの行きつかない行為の末に起きることなのかもしれないけれど、少なくとも、少なくとも僕はそう考えていた。内部について考えすぎてしまったゆえに起きる、そんな現象。

「十四松」

 河原でバッドを振りまわしていた弟に声をかける。今朝だって僕をくくりつけて素振りをしていたというのに、疲れた様子が全くない。こいつの体力はブラックホールか何かなのか。あながち間違っていない。
 僕の声に十四松はバッドを止め、その顔を僕に向けた。相変わらず目の焦点が合ってもいなければ、力を込める為に口を閉じて歯を食いしばってもいない。いたっていつもの、いたって普通の十四松だった。それに僕は安堵する。いくら今僕のポケットの内部にあるこれが鼓動を刻んでいたとしても、それがちゃんと機能を果たしているかどうかは十四松本人を見るまで分からないのだ。だから、もしもこの鼓動がただ単にとくんとくんと規則正しく動いているだけで、実際は血液も何も送っていないのではと考えて、僕はそれこそ心底恐ろしくなる。だから僕はなるべくそんなことを考えないようにして、まっすぐに十四松のもとに行く。このどこかおかしい、でも六つ子という枠組みで数えてしまえばいたって普通の、十四松のもとへと赴く。
「一松兄さん!」
 僕に駆け寄ってくる可愛い可愛い弟に、ポケットの内部に収めていたそれを差し出す。とくんとくんと鼓動を刻むそれは、持ち主を前にしてもその速度を速めることもしなければ遅めることもしなかった。ただただ、規則正しい脈を打つそれに、十四松はにぱっと笑う。
「また抜け出しちゃったんだね!」
「うん」
 十四松が僕の掌にあったそれを手に取れば、それはするすると溶けてあとかたもなく消えていった。十四松の胸に手を当てる。とくんとくんと、先ほどまで外部にいたそれは何事もなかったかのように鼓動を刻んでいた。それにほっと、心の内だけで息をつく。

 おそ松兄さんは僕が一番心配だという。だけれど僕から言わせてみれば、十四松が一番兄弟の中で心配だった。こうやって身体の中で脳みそと並んで必要なものを、大切なものをいとも簡単に浮遊させてしまうこいつの方が、よっぽど心配だった。

「帰ろうか」

 そう言って手を差し出せば、うん! と元気よく返事をして十四松は僕の掌を握った。いい大人が手をつなぎながら、夕暮れの街を歩く。道行く人が微笑ましそうに、おかしそうに、不思議そうに僕たちを見る。
 そうです、僕の弟はとても微笑ましくて、とてもおかしくて、とても不思議な奴なんです。
「ね」
「? うん!」
 僕の突拍子もない投げかけに、十四松はにぱっと笑った。握っている手は、とくんとくんと、規則正しい鼓動を僕の掌に伝えている。先ほどまで浮遊していたとは思えない普遍さで、十四松の心臓は、脈を打っていた。とくん、とくん、と。
 十四松の手首にそっと指を這わせながら、今日の晩御飯は手羽先がいいなあ、なんてどうでもいいことを思った。


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友達であるめめこがこの作品のイメージイラストを描いてくださいました!
イメージイラストはこちら
スペシャルサンクス、いやセクロス!




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