「ほんっとにありえない! ありえないありえないありえない! 人間と契約を結ぶなんて!」

 僕に呼び出された(公衆電話というまるで人間のような呼び出し方をした。この大魔女はスマフォという現代の利器を持っているし、僕も僕で協会から提供された携帯電話があるのだけれどそれは今さっきトド松の電話番号を確認した後破壊してしまった)人気の全くない公園でトド松はそう怒鳴った。ぷんすこぷんすこ、そんな擬態語がぴったりな有り様である。怒鳴られている方はといえば呑気にぽりぽりと頬を掻いている。エセ神父に至っては初めて見る魔女に興味津々といった感じだ。魔女と言っても、長ったらしいローブや箒を持っているわけではない。いたって普通の、そこら辺にいそう(と称するとトド松はとてつもない剣幕で怒る。僕のお洒落が分からないのかと目くじらを立てるのだ。すまん、分からん)な人間じみた格好をしているトド松は、とてもじゃないが魔女には見えない。これでも不老不死の薬を使えるほどの大魔女なんだから、世の中ってのは本当に分からない。
 僕は未だに怒鳴り散らすトド松に向かってちょっとばかしの反論をする。「でも契約方法を教えたのはトド松じゃん」「まさか本当にやると思ってなかったんだよ!」だいたい何百年前の話してるんだよ! と怒鳴る姿は今でいうところのキレやすい若者というものを彷彿とさせてしまう。だがトド松は今時の人間でも(そんなことを本人に言ったら蛙にされる)若者でも(これも言ったら死ぬより酷い目に遭わされる)なければ、特にキレやすい男でもなかった。むしろ温厚、という言葉はいくらなんでも似つかわしくないが、滅多なことでは怒らない。怒るのが面倒だと思ってるのかもしれない。怒るのって疲れるしね。
 トド松はしこたま僕を怒鳴りつけてから隣でキラキラと目を輝かせながらリュックサックを背負っている神父服を着た男ことエセ神父に視線を向ける。その目には疲労の色がちらちらと覗いていて、ほんのばかし申し訳ない気持ちが産まれてくる。
 しかし、僕が今後こいつと逃亡するに当たって、トド松の存在は必要不可欠だ。この大魔女の力がなければ、僕は協会から逃げおおせることができない。
「ていうか何この人間。おかしすぎでしょ、一松兄さんが触れても魂を引き抜かれないなんて」
 このエセ神父は結界を張らずともその異常性を発揮するということはついさっき知った。とりあえずとこいつを連れて結界を解除させ、ローブでひとっ飛びしようとしたのに全くそれが効力をなさなかったのだ。試しにそこら辺に生えている草木に素肌で触れてみると、それらは魂が引き抜かれみるみる枯れ朽ちていった。おそるおそるエセ神父の手を握ってみるも、どうしたんだとばかりに瞬かれた。どうしたのかはこっちの科白だ。どうやらこいつは身体そのものが小さな結界のようなもので、その身に触れる魔族の特性やら何やらを全て帳消しにするらしい。異常だ。異常すぎる。でもその異常さのおかげで、僕は至福の時を手に入れることができたのだ。神の悪戯に感謝感激神霰だ。
 トド松は僕のことを兄さんと呼ぶ。勿論血は繋がっていない。しかし僕に命を救われたということと僕が年上であること、そして何より顔が同じということでこいつは僕を兄と呼ぶ。兄って性分でもないんだけどね。
 エセ神父はじっと自分を見つめるトド松に何を勘違いしたのか「フッ、俺に惚れると火傷するぜ」とわけのわからんことを決め顔でのたまった。このままいくと僕とトド松の肋がもたないのでとりあえず目潰しをしておいた。安心しろ、僕と契約したおかげで回復力も少しばかりよくなってるから。
 ベンチから転げ落ち悶え狂うエセ神父を放っておいて、「早速だけど」と話を切り出す。
 僕の雰囲気が変わったことを悟ったのだろう、不機嫌な表情を消さないまま、トド松が僕を見やる。

「僕の心臓の裏にある石、取ってくんない?」

 死神というのは協会からの管理が異常なまでに厳しい。生と死のバランサーである死神は、裏を返せばどれだけでもバランスを崩すことのできる存在なのだから当たり前と言ったら当たり前なのだけれど、その死神が今どこにいるか完全に把握してしまうのはいかがなものなのか。これでは優雅に休暇と決め込むこともできないし、こうして逃亡を企てても阻止され処刑されてしまう。プライバシーの侵害も甚だしい。
 個人個人の管理を行うために、産まれて間もない死神の心臓の裏に協会は石を付ける。今でいうところの発信機のようなものだ。それがある限り、どこに逃げても追手が来る。そんなドキドキハラハラな逃避行もやぶさかではないが、僕は本来不穏よりも平穏を望む男である。だいたいむごい処刑を罰ゲームにする鬼ごっこなんて死んでも御免だ。
 だから僕はトド松を呼んだ。この不老不死の薬すらをも作れる大魔女を呼んだ。僕たちが逃げる上で、それは必要不可欠だから。
 トド松はジッと僕の紫眼を見つめてから、「だと思ったよ」と大きく溜息を吐いて眉間に指を当てた。
 その死神がどこにいるのかを把握する石が心臓の裏にあるのは、暗にそれを取ったら死ぬように設計されているからだ。それを取り出そうとしても、死神に触れれば他の命ある者は人間であれ悪魔であれ天使であれ魔女であれ魂を抜き取られてしまう。だとしたら自分で取り出せるかといったら、それも無理な話なのである。死神を殺せるのは死神だけ。つまり死神である自分で心の臓になんて触れ、なおかつそれに付着している石を取り出すなんてスプラッタも真っ青なことをしでかせば確実に死ぬ。だからこれは、最善にして最高の方法だった。死神が規則違反をしないための、最善策。勿論皮肉である。
 死神を殺せるのは死神だけ。裏を返せば、死神以外は死神を殺せない。つまり僕の心臓の裏にある石を取り出すことができる。もっともゴム手袋や何やらをしていたところで、死神の素肌に触れてしまえば強制的に魂を引き抜かれてしまう。
 だから僕はこのエセ神父を連れてこの大魔女を呼び出した。いくらこの大魔女であろうと、こいつの結界内で能力を使える可能性は限りなくゼロに近い。いや、もしかしたら三百年(というと怒る。二百歳だと言い張っているのだ。本当は二百七十八歳なのに。鯖読みすぎだ)もの長い時を生き不老不死の薬を作れるこの大魔女ならば、エセ神父の結界内でも能力を使うことは可能なのかもしれない。
 しかし、それだってどうでもいいことだ。
 僕の、死神の素肌に触れても魂を引き抜かれない状況を作る。それがこの逃亡への下準備としての最低条件。
 死神は死神しか殺せない。だから、この大魔女が僕の心臓を握りつぶしたところで僕は死ねない。それこそが重要だった。
「おいエセ神父」
 未だに悶えているエセ神父の腹を蹴り飛ばし、気をこっちに向けさせる。涙目で僕を見上げる男があんな結界を張れるとんでもない人材なんて誰が思うだろうか。そこら辺の小学生にすら負けそうなヘタレなのに。
「とりあえずこの公園全体に結界張れ。人が入ってくるようなことも、内部が見えるようなことも、声が外に漏れるようなこともない、そんな結界を張れ」
 普通の術師ならば何をそんな難易度の高いものを、と目をひん剥くところだが、こいつは何事もなかったかのように立ち上がり、清々しい笑顔で「いいぞ! 任せておけ」とすたすた公園にあるたった一つだけの出入り口に向かって歩き出した。まさかこいつは、この後世にもおぞましい解体ショーが行われるだなんて思ってもいないはずだ。できればどこかで時間を潰してきて欲しいところだが、結界は術師がその内部にいてこそ本来の力を発揮する。僕としてはトド松が極悪非道の殺人鬼としてしょっぴかれることは避けたいので、少しでも結界の力を強くするためにこいつには結界内にいてもらわなければならなかった。事前に謝っておく。勿論心の内だけで。
 エセ神父は出入り口にたどり着くと、そこで静かに立ち尽くした。素人の僕から見たら何をしているか分からないが、呪文を唱えている風もない。普通、呪文やらなにやらを使うもんじゃないだろうか。気になってトド松の方に視線を向けてみるも、トド松も驚愕の表情でエセ神父の背中を凝視していた。なるほど、あいつがおかしいのか。納得。
 トド松も魔女なのだから結界の一つや二つ作れるのだろうが、それでも呪文やら何やらが必要だとその表情が雄弁に語っていた。この大魔女ですら必要な過程を、あいつはいとも簡単にすっ飛ばして強力な結界を張ってのける。ますます何者なんだ、あの男は。
 十秒ほどそこで立ち尽くしていたエセ神父がくるりと振り返る。その顔には満面の笑み。
「できたぞ一松!」
「オッケー、じゃあお前はそこから動くな」
 あと、できるだけ目と耳を塞いでおけ。僕のその勧めに、エセ神父は不思議そうな顔で首を傾げた。これから来る出来事を、何にも察せないでいるのだろう。うん、お前馬鹿そうだもんな。もっともどんな天才であっても、これから行うことを察することも、察したところで肯定する頭もないのだろうけれど。
 ジャケットを脱ぎ棄て、シャツのボタンを外しそれも地面に投げ捨てる。
「じゃ、頼むわトド松」
「……なるべく短時間ですむように頑張るよ」
 それはありがたい。僕は自分がエムであることこそ自覚しているが、しかしエムであれど好きな痛みと嫌いな痛みというものは存在する。今からするのは、嫌いな痛みの方である。
 大きく深呼吸する。若干冷や汗もかいているかもしれない。しょうがない、だって今から死ぬより痛い思いをさせられるのだから。だから僕はそれに逃亡以外の理由も附属させて、少しでもトド松が楽になれるように一つ、言っておく。「ごめん、百年前にお前が大事に取っておいたケーキ駄目にしたの俺なんだ」「遺言はそれだけか」やべえ、言う科白間違えた。殺されそう。
 それでも数百年の付き合いだ、僕が伝えようとしていることも、どうしてこんなことを言ったのかもトド松は分かっているのだろう。もともとこいつは相手の機微に鋭い。だからもう一度大きく溜息を吐いて、トド松はどこに隠し持っていたのか分からない鋭利なメスを取り出した。それに声を荒げたのはエセ神父だ。うるせえお前の役目はここまでだ黙ってろ。
「おい! 何をするつもりだ!」
「ちょっと黙ってて」
 トド松が立ちあがり、ベンチの横に膝をつく。僕はエセ神父とトド松がいなくなったことで空いたベンチに仰向けで寝転び、大きく深呼吸。

「初めてだから優しくしてね」
「アホか」

 ずぶり、とそのメスが僕の胸に突き刺さる。そんな光景なんて見た日にはせっかく食せるようになった人間の食べ物を口に入れることができなくなりそうなので、ぎゅっと目を瞑る。歯も食いしばる。必死に脳内に猫たちのあの可愛らしい姿を思い浮かべて痛みを紛らわ「ぎいい、あ」せるわけもなかった。クソ、クソクソクソクソ、なんだこれ超いってえ。今更になってそういえば麻酔はという考えに行きついたが、そもそも死神にそんなものが効くのか微妙なところだし後の祭り過ぎた。
「心臓の裏、だよね」
 どうやら死神の治癒能力はこの結界内でも発動されるらしく(基準が分からん。人を傷つけそうな能力だけ無に還すのか?)、トド松は少し焦ったかのような声音でそう呟いた。僕は朦朧とする頭で必死に頷き、せり上がってきそうになる吐瀉物に必死に耐えた。
 ぬる、と何かが身体の内部に入ってくる。トド松の手だった。見ていないけれど、感触で分かる。というかこの状況で別のものが入ってきてたら発狂する。今でさえ痛みで発狂しそうだというに。
 ぐ、あ、まじでいてえ。痛いを通り越した何かに辿り着いて悟りを開きそうだ。今ならあのエセ神父の言葉も笑顔で受け止められそうだ。あ、ああああ、クソ、なんでこんないてえんだ、そりゃそうか、逃げ出さないようにするためだもんな、こんなことまでして逃げだそうとする奴は死神という存在が産まれてから一人だっていなかったんだろうな。やったぜ一番乗り、ピースピース。そんな馬鹿なことを考えていないとやってられない。
 まるで身体の内部に溶けた金属でも流し込まれているかのようだ。それが意思を持って僕の身体の内部をまさぐっているかのような熱さと痛みがダブルスを組んで僕に挑戦を仕掛けている。完敗ですもう勘弁してくださいと白旗を挙げても、その二人はどうやら僕を痛めつけることをやめてはくれないらしい。どんなドエスだ。いじめっ子も真っ青だよ。
「いっ、ぎいいッ」
 ぶちり、と何かが引きちぎられる。心臓だったらどうしよう。そんなにトド松あのケーキ楽しみにしてたのか。そうだよな、あの時代はあんなもの滅多に食えなかったもんな。すまん、謝るから命だけは、なんて楽しい楽しい一人喜劇を行っている僕の耳に、トド松の怒声が響く。
「結界解除して!」
「え」
「いいから早く!」
 ばたばたと自分の近くから騒がしい足音が立てられた。まさかあの馬鹿、この一部始終を至近距離で見てたのか。おいおい、馬鹿を通り越して天才だよ。それとも何か、惚れた(本当かどうかは知らん。死神に吸血鬼のような魅了の能力が備わっていると教わったことは一度もないのだけれど)相手の解体ショーを見て喜ぶド変態だったのか。しかしそれでも許そう、あの至福の時間を提供してくれるなら、僕はお前がどんなド変態でもどんな鬼畜野郎でも寛大に受け止めてやる。
 そこで僕の意識はぶつんと、まるでテレビの電源を切ったかのように真っ暗になった。あれ、やばい、僕死んじゃう?





 結論から言えば、僕は死ななかった。あの空間を持ってしても、死神を殺せるのは死神のみであったようだ。それとも僕の治癒力が思ったより優れたものであったのか。ぱちぱちとすっかり星屑を散らす色をさせてしまっている夜空を眺めていると、そこににゅっと顔が生えてきた。トド松だった。
「あのさあ、紛らわしいところで気絶しないでよね。死んじゃったかと思ったじゃん」
「ごめん」
 そう謝って寝かされていた身体を起こす。公園に取りつけられている時計に視線をやれば、僕たちが解体ショーを始めてからゆうに八時間は経っていた。僕はどうやらたっぷり睡眠を貪っていたらしい。実に健康的である。
 トド松は起き上った僕の横に腰かけると、ずい、と無言でミネラルウォーターを差し出してきた。それを手に取って、二人してミネラルウォーターを口にした。ぬるくなってて、少しまずい。それでも協会が提供してくれるものなんかよりは、よっぽどおいしいけれど。
「あいつは?」
「食べる物買いに行ってる。ちなみに出費は僕」
 それはそれは。ありがとうと言えば、じろりと睨まれた。おかしい、僕はちゃんと御礼を言ったはずなのに。
「石は砕いておいた。これであの神父と遭い打ちになったと思われれば万々歳だね」
「それはない」
 死神の数はきっちり一億。一人が死ねば、また新たに一人、死神が生まれるというシステムだ。だから新たな死神が産まれない限り、僕が死んだことを上が納得するわけもない。だから僕たちはこれから逃亡するのだ。あてもない逃亡生活を、送ろうとしている。
 そのことが顔に出ていたのだろう、トド松は大きく、はあああああ、と溜息を吐いた。幸せ逃げるよと言えば誰のせいだとまた睨まれた。今日は睨まれてばっかだな僕。
「死神の治癒力で完治するか分かんなかったから僕の魔法で治しといた。感謝して」
「ありがとう。今度なんか奢る」
「一松兄さんさあ」
 僕の厚意を無視して、トド松が僕を仰ぐ。項垂れているような姿勢を取っているトド松が僕を見れば、いくら僕が猫背の酷い男だとしても見上げる形になる。そんな姿勢を取りながら、トド松は続けた。一松兄さんはさあ。
「馬鹿なの」
「知ってる」
「確かに猫に触りたがってたのも知ってる。人間の食べ物がおいしいのも知ってる。だからってあんなことをして、こんなことをしてまであんたはあの神父と一緒にいたいの」
 おいおい、それじゃあまるで僕があいつに惚れてるみたいじゃないか。そう冗談として笑い飛ばそうとトド松の顔を見て、それを引っ込める。
「僕は一松兄さんが心配なんだよ」
 その顔は、言葉通り僕が心配で心配で仕方がないと雄弁に語っている、そんな顔だった。今にも泣き出してしまいそうなこの顔に、僕はどうにもこうにも弱い。僕がこいつをいざ殺そうとした時にだって、その表情に負けて僕は白旗を上げたのだ。不老不死の薬は作らないという条件を飲ませて、こいつを見逃した。
 そう、その時も僕は思ったのだ。こいつは殺しちゃいけないって。何故だかそう思った。こいつとは同じ顔をしているだけで、血も何も繋がっていないというのに。
「あの神父から聞いた。僕たちの他に二人、おんなじ顔をした存在がいるって」
 それも女神と天使。僕たちの顔は各種族に一つずつ配属されるようになっているのだろうか。ならばあとは悪魔だけであるのだけれど、できればそれは御免被りたい。悪魔以上に面倒なのは人間であると僕は知っているが、それでも悪魔も悪魔で面倒であることには変わりない。
 トド松の頭を撫でる。これは初めての行為だった。どんなに分厚い手袋をしていても、僕はこいつに触れたことが一度もなかった。怖かったからだ。この魔女の、弟のように思っている存在の魂を奪い取って殺してしまうことが、何より恐ろしかった。だから僕は、数百年間こいつの頭を撫でたことは一度としてなかった。
 初めて触れるそれはまるで絹のようにさらさらだ。ケアが生き届いてるんだなあ、僕とは大違いだ。
 頭を撫でられたことにとうとう、トド松は泣きだした。よしよしと思いながら、その身体を抱きしめる。こんな弱っちく見える存在が、不老不死の薬を作ることのできる大魔女だなんて誰が思うだろう。
「怖いんだ、これから何か大変なことが起きそうで」
 水晶玉もそう言ってる、と告げるトド松に、僕は無言でその背中を撫で続ける。何か、大変なこと。それはいったい、どんなことだというのだろう。一介の死神がとんでもない能力を持った人間と契約し、逃亡することにどれだけの弊害が引き起こされるのか、僕には見当もつかない。でも、トド松が言っているのがそんなことじゃないことくらい、僕だって分かっている。分かっていて、分からない振りをした。馬鹿の振りをして、僕はこの弟のような存在の背中を撫で続ける。それはやはり、僕の分厚い手袋越しの肌にじんわりとした温かさをもたらした。
 確かに何か大変なことが起きるのかもしれない。何かを切欠にして、途方もないほどの災厄が訪れるのかもしれない。それでも僕は、このぬくもりを手放そうとは思えなかった。ようやく、ようやく触れられたこの弟の体温を、離すだなんてとてもじゃないが考えられない。
「確かに、これから何か大変なことが起こるのかもしれないけど」
 ばたばたと公園にあわただしく走ってくる音がする。まさかあの神父服で店内に入ったのだろうか。下手したら通報されるな、いやでも神父服だからされないのか? 職質はされるかもしれないけれど。
 そんな馬鹿な男の気配を感じながら、僕はトド松に笑った。笑うなんて行為、それこそ何十年ぶりかのことだからぎこちないものだったのかもしれない。無様なものだったのかもしれない。
 それでも僕は弟に笑いかけた。この可愛い可愛い弟に、笑みを向けた。

「それでも俺は、あいつと一緒にいたいよ」

 お前に触れるしね、と言えば一層、僕のシャツを濡らす水の量が増えた気がした。それでもいい、それでもいい。こうやって泣くお前をあやせる環境を作ってくれたあいつに、僕は途方もなく感謝しているのだ。不老という、人間ならば恋焦がれてやまない能力をプレゼントしてやったのだ。それは半ば、無理やり押し付けたとも言えるけれど。
 それでもあいつは笑った。いつまでもお前といれるんだなと喜んだ。
 会って一時間も時を共にしていない相手に惚れたとのたまうあいつは、僕にそう言ってほほ笑んだ。好きだ、一松。
 今は、それでいいじゃないか。例えこれからどんな災厄が訪れようとも、今は、これで。
「一松!」
 そう言って駆け寄るエセ神父に、僕はおっせえよ、と笑った。そう、今はこれでいいんだよ、これで。



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