僕とあのクソ神父ことクソ松ことカラ松と出会ったのは、今から三十年ほど前の話になる。その日、僕は珍しく死神協会という、本拠地が天界にあるのか下界にあるのか魔界にあるのか全く分からない組織からお呼び出しを頂いていた。お呼び出しといっても、そのどこにあるのか分からない本拠地なんぞではなく、下界の人間はびこる公園にだった。お呼び出しをするほどの重要な話をするには、イマイチ締まりのない場所ではある。が、自分が任された地域の魂を管理するだけである僕たちは驚くほど他の死神と出会う機会が少ない。だから場所はどうでもいいとも言えた。僕だって数百年生きているが、今まで他の死神と話したのなんて数えるほどしかない。
 その公園で、僕たちはベンチに腰掛けていた。僕たち、というのは、僕に言伝を頼まれたそれなりに上の位にいるであろう死神と、一般死神である僕であった。死神は普通の人間には見えないから、うっかりこのベンチに座られでもしたら大事だ。僕もその死神も真っ黒なスーツに身を包み(相手に至ってはローブを頭からすっぽり被っている)、手には分厚い手袋をしているから曝け出されてるのなんて首元と顔くらいだが、死神の素肌に人間であれ悪魔であれ天使であれ、触れてしまえば強制的に魂を引き抜く、つまり殺してしまう。だから僕たちはあまり人のいない夜中に密会を行っていた。

「話ってなんですか」

 僕が無愛想に、顔もろくに見えない相手に問いかければ、彼(彼女かも知れない。体格からも声からも、相手がどのくらいの年頃の容姿なのか、男なのか女なのかすら判別がつかなかった)はずいっとローブの下から分厚い書類を差し出した。それに自然、眉間に皺が寄る。
 何かへまをやらかした自覚は全くない。そりゃあ死神になりたての時は誤って動物や植物に触れてしまいそうになったこともあるが、本当に魂を奪い取ったことはない。あったら僕は今ここにいないし、そのあと、というか数百年この日本の関東という地区を任されてから何か協会にわざわざ呼び出されるような失敗は侵していない。むしろ模範的だと太鼓判すらもらっている。だというのに、なんだこの書類は。
「……なんですか、これ」
 だから僕が不機嫌そうな声音になってしまったのも致し方ないことだと言えた。どうして真面目に働いていた僕に、こんな分厚い、重みで人を殺せそうな書類を渡されなくてはならないのか。渡されたそれにパラパラと目を通そうとして、一枚めくった次のページに載せられた写真に瞠目する。
 僕だって今まで生きてきて数百年、自分と同じような顔に出会ったことがないわけではない。むしろ一度、自分とまったく同じ顔をした魔女と出会ったことがあった。そういえばその時も、こういった大仰な書類が渡されたような気がする。不老不死という、生と死のバランスを壊しかねない薬を作ることができる魔女を殺せと、その時は協会から命令されたものだ。もっとも紆余曲折あって僕はその魔女を殺さなかったのだけれど、まさかその時と同じような命令が下されるのだろうか。
 紙に印刷された男は、僕とまったく同じ顔をしていた。いや、まったく同じというのはさすがにいいすぎかもしれない。僕はここまで眉が太くないし、凛々しい顔立ちをしていない。パーツパーツはほぼ同じだが、細部がわずかに違っていた。それはおそらく僕だから気付けることで、他の人間や死神が見たらほぼ同一人物だと思われることだろう。
 目を見張る僕に、相手は「この男を殺して欲しい」と、数百年前と同じような命令を告げた。もしかしたら前の依頼の時も、こいつが言伝を頼まれたのかもしれない。死神というのはいやに長生きで、死刑にされるまで生きるのが常だ。死神は、死神にしか殺せない。人間だろうと悪魔だろうと天使だろうと女神だろうと、その存在を殺すことは叶わない。だから僕も自堕落にこんな長生きをしてしまっているのだ。
 もう一度資料に目を通す。僕の地区の人間ではない。東北の片田舎に住んでいる男だった。その地区の死神に任せればいいのにと舌を打とうとして、それが顔に出ていたのだろう、「あの地区の死神はまだ新米ですから」と庇うように言われた。そんな科白、数百年前にも聞いたぞ。
「というか、貴方はかなり上級の死神なのですよ。自覚を持ってください」
「死神に上級も下級もあってたまるか」
 自分を射る、僕と同じ紫色の瞳に唾を吐きかけたくなる。僕たち死神にそんな位は存在しない。協会に就任する連中は、ただ単にその適性があったからそこにいるだけで僕たちみたいな死神と能力自体は同じだ。触れれば魂を奪える。鎌で切り裂けばその魂を輪廻転生の輪に乗らせることなく破壊することができる。難儀な仕事なもんだ。
 そんな僕に、相手は溜息を吐く。死神の証である紫色の目をぱちぱちと瞬かせ、「数百年何の罪も犯さず仕事をまっとうできることが偉業だと言っているのですよ」と言った。僕はそれに薄く笑うことしかできない。僕だって別に、何の罪も犯していないわけではない。むしろあの大魔女を見逃した上に、ちゃんと殺しましたと上に嘘の報告を告げたのだ。これが上にバレれば僕は即処刑されることだろう。あいにくそんな自殺願望じみたものが僕にないおかげで、そんなことにはなっていないけれど。
 相手はもう一度「貴方にしかお願いできないことです」と念を押してから、説明を始めた。僕が書類にろくに目も通さないことを見越してのことだろう。賢明な判断である。
「この男は人間ですが、異常な人間です」
「異常ねえ」
 異常な人間なんてこの世にたくさんいるじゃないか。快楽的に人を殺すシリアルキラー、自分が腹を痛めて産んだというのにその子供を虐待し殺す母親。恋なんていうものに狂わされ無理心中をする男。そんな奴ばっかだ、世の中。そしてそんな彷徨える魂となったものを天界に導くのが僕たちの仕事である。特に子供なんて本当に生と死の区別がついていないから、連れていくのが大変なのだ。

「異常ですとも。この辺りの魂が一向に天界に昇る気配がないのです」
「は?」

 さすがにそれには驚く。確かに世の中に彷徨える魂はあるが、それはすんなりと天に昇る魂より圧倒的に少ない。人間は死ぬ時、無自覚的にしろ自覚的にしろ自分は死ぬという認識が生まれる。この認識こそが重要なのだ。その認識がない場合、魂は彷徨ってしまう。意識ばかり生きてると思いこんで、もうすでに焼かれるなりなんなりしてしまった身体を探し求める。
 でもその地区の魂全てが全て、そんな彷徨える魂になってしまうなんて有り得るのか? 死神というのは、ただそこにいるだけで人に死をひしひしと感じさせることができる。だからこそ、死神はその地区にいるだけでその仕事を全うできるのだ。だというのに、それすらできていないだって? どんだけその地区の死神は出来損ないなんだ。新米とかそういうレベルじゃないぞ。
 僕のそんな心境を察したのだろう、相手は何もその地区の死神のせいではない、と言って話を続けた。
「この男の張る結界が異常なのです」
「ほう?」
「この男が張る結界内では、悪魔はおろか死神だってその力を使うことが叶わないのです」
「……へえ」
 それは確かに異常だ。資料に目を落とす。確かに神父というのは、それなりの知識があれば結界が張れる。しかしこの男、神父とは名乗っているが特に何かの資格を持っているわけでも、エクソシストなわけでもない。何の教養も受けていなさそうなこの男が張る結界が、死神すらをも機能しなくさせる存在だと?
 死神というのは中途半端な存在だ。上はバランサーだと言って憚らないが、天に属するでもなく悪に属するでもないこの特性は宙ぶらりんだと称して相違なかった。しかしそんな宙ぶらりんな存在でも、機能しなくなれば支障をきたす。彷徨い続けた魂はそのうち腐り、砕ける。そうしたらこの世に存在する魂の数が合わなくなり、何かしら障害が出てくる、らしい。もっとも僕はそんな腐った魂を見たことがないので、何とも言えないといった感じだ。
 ひとつ残らずその地区の魂が彷徨える魂となっているなら、その地区は阿鼻叫喚になっているのではないか。しかし最近耳にするニュースでゾンビ大量発生だの死者続出だの、そんなものは一つもない。
「この男の結界内では、魂すら腐敗しない」
 疑問を浮かべる僕に、男は続けた。ほう、ほうほう。それにはさすがに驚く。死神の力すら制し、魂の腐敗すらをも止める。そんな強力な結界を張れる術師が、はたして今までいただろうか。少なくとも僕は数百年生きてきて、一度としてなかった。二十代だというのに、彼は大したもんである。それをもっと別に生かせていれば、こうして僕が仕事に赴くこともなかったろうに。
 しかしこれで上の言いたいことが分かった。このままでは生と死のバランスが崩れる、だからこの男を殺して魂をあるべきところに還せ。こういったところだろう。分厚い資料を彼に押し返す。こんなもの邪魔にしかならない。住所はもう覚えたし、この紙に用はない。
「つまり、鎌を使って殺して構わないってことでしょ?」
「その通り」
 確かにその結界内では、死神の力は使えないのだろう。死神の特性はその素肌に触れたものの魂を奪い取るというものだ。しかしそれだけではない。死神が個人個人で持つ鎌は、どんな状況どんな環境どんな相手であろうと行使できる。それが使用できない存在は、この世に存在しない。素肌では殺せない女神であっても、この鎌があれば斬り殺せる。
 しかし死神がこの鎌を使うことは厳重に禁止されている。鎌で切り裂かれた魂は粉々になり、輪廻転生の輪に乗れなくなり、それこそ生と死のバランスが崩れてしまう。だから、この鎌を使うのは必ず協会の許可が必要だった。その許可も既にとられているらしい。
 だから僕が今からすべき行動は、この男を鎌で切り裂くだけ。もしもこの鎌の効力がなされないとしても、この鎌は物理でもちゃんと相手を斬れるのだ。だからいっそのこと、鎌じゃなくとも首を絞めるなりなんなりしてこいつを物理的に殺してしまえばことは済む。むしろその方が協会にとってはありがたいだろう。生と死のバランスを保つのは、意外と大変らしいのだ。僕はそんな上の仕事に携わったことがないから、まったく知らない。知りたくもないよそんな苦労。

「この地区の仕事は別の死神に任せます」
「それはありがたい」

 自分の地区から腐敗した魂を出すのは心苦しい。というか面倒くさい。だから彼、いや上の取った処置はとても寛大だった。これならこいつを殺した後悠々自適にそこら辺で遊ぶことも可能かもしれない。生き物にしか触れることのできない死神ができることなんてたかが知れているけれど。
 協会から配布される煙草に火を付け、大きく紫煙を吸う。それに相手は少しだけ気分を害されたようだった。おいおい、死神の娯楽なんてこの程度だろうよ。これくらい多めに見て欲しいもんだね。
「それでは、お願いしますよ」
 そう言って、相手は音もなく去っていった。その背中にひらりひらりと手を振る。
 こんな大仕事、本当に数百年ぶりだ。大魔女を殺した時以来じゃなかろうか。紫煙を吐き出す。
 先ほど見せられた男の顔を瞼の裏に思い浮かべる。どうしてこうも、僕と同じ顔をした奴は大それた奴が多いのかね。あの大魔女といい、僕といい(さっきの相手の言葉で少しだけ慢心した)、あの男といい。世の中には同じ顔が三つあるというが、これもそういったことなんだろうか。
 フィルター一歩手前になってしまったそれを地面に落とし、踏み潰す。僕の手から落ちた瞬間に、それは下界の人間たちが吸う煙草と相違ない形を取ってしまったから、きっと見つけた人は目くじらを立てることだろう。まあ許してよ、と顔も知らない人たちににやにやと笑いかける。僕たちのおかげで、あんたたちは無事輪廻転生の輪に乗って生まれ変わることができてるんだ。むしろ感謝して欲しい。
 何もない空間からローブを取り出す。この仕組みもだいぶ前、それこそ産まれたての頃説明されたはずなのだが、僕の脳みそはその知識をばっさり切り落としてしまっていた。まあ必要ないでしょ、そんなの。僕たちみたいな非現実的な存在に、そんな説明はいらない。ただ取れるから、ただ現れるから僕はそのローブを手に取る。それだけで十分だ。過程なんてどうでもいい、大事なのは結果だけだ。これは人間にも、言えることだけれど。
 しかし悪魔は、その過程にこそ重きを置く風習にある。どのように相手を落とせるか、相手の魂を堕とせるか。それに邁進している。食われた魂はその悪魔が死んだ時、ちゃんと輪廻転生されるので僕たちの管轄外なのだ。それを阻止しようとするのは、天界の者や下界にいるエクソシストやらである。僕たちには、関係のない話だ。悪魔の話も、天界の話も。僕たちはただ、下界を彷徨う人間の魂にだけ関心がある。
 ローブを着こみ空に飛び立つ。これがなきゃ死神は宙に浮けない。死神のくせに情けない話である。どうやら昔はそんなこともなかったらしいが、どうにも最近の死神というのは気力がなくていけないというのがご老人達の言い分だった。数百年前に産まれた僕ですら最近の死神扱いなのだから、本当につい最近産まれた死神はどんな扱いを受けていることやら。それこそどうでもいいことだから、僕はそこで思考を止めた。
 今頭に浮かべるべきは、この男をどう殺すかだけである。
 どう殺すかっていっても、死神の鎌で物理的にも魂的にもブッタ斬るだけなのだけれど。まったく、死神というのも物騒なもんである。死を司り生と死を統卒している時点で、物騒も何もないといった話だろうけれど。






 あの死神から依頼を受けて次の日の昼には、僕はその男のいる地区へと辿り着いていた。その周辺を見渡して、確かにこれは異常だわと零す。小さな蚊にさえ負けてしまいそうな下級悪魔すら存在しないこの地区は、異常に空気が清らかだ。物理的な意味でじゃない。精神というか、そういった意味合いで。僕が歩いている間(あの男が張った結界内に入った時点で、ローブも意味を失くした。急落下するあの感覚は二度と味わいたくない。死なないとはいえ、死神にも痛覚というものはあるのだ)にも、何個もの魂と行き遭った。それら全て、腐敗のふの字も知りませんといった感じにまっさらである。
 本当に、異常だ。こんなに魂が彷徨っていながら、それらが一つも腐っていないなんて。一番古いもので五年前のものまであった。普通、魂というのは一カ月も放っておけば腐敗し砕けてしまう。だというのに、五年。どんな状況だ。そしてどうして五年もの間協会は何の手も打たなかった。数百年、いや千年すらをも軽く凌駕する寿命を持つ死神にとって、五年なんてとるに足らない年月だとでも言うのだろうか。死神にはそうかもしれないが、魂からしてみればおいおいといった感じである。
 身内の怠慢に軽く頭を下げながらその魂に手袋をはずして触れてみるも、まったく天界に行く気配がなかった。口で説得できない魂には強制的にこうして天界に強制送還する場合もあるのだけれど、今回はそれもできないらしい。この地区を任された新米死神くんとやらに少しだけ同情した。しょっぱなでこんな大仕事を任されては堪ったもんじゃないだろう。
 僕はてくてくと人間のように歩きながら、それでもなるべく人とぶつからないように細心の注意を払った。田舎ということもあって東京に比べ人通りは限りなくゼロに近いが、それでもいつ飛び出してくるか分からない子供にはひやひやした。誤って顔にでも触れられたら僕が処刑されてしまう。処刑の仕方を直接教えてもらったことはないが、しかしむごいものであることは簡単に想像できた。エムッ気があることは認めるが、そんな痛みはそれこそ死んでも御免である。

「……ここか」

 目的地である古びた教会に辿り着いて、僕は足を止めた。その建物を見上げる。正式な聖職者ならば僕の姿も見えるのだろうけれど、どうやらこいつはパチモンの神父らしいので僕の姿を視認することはきっと不可能だろう。ならばあっさりことを終えることができそうだ。大魔女の時は本当に殺し合いだったからなあ……としみじみ過去を思い出す。未だに交流のあるあの大魔女は、僕の身だしなみについて声を荒げる傾向にある。あっちから言わせると、同じ顔をしている存在がそんな有り様なのが見ていられない、らしい。魔術で容姿を瑞々しいままに保っているその大魔女の本来の姿を見てしまった僕としては、ああはい、と返すしかなかった。あの姿を他言したら殺すより酷い目に合わせると言われているから、きっとあのゾンビじみた姿は一生僕の頭にのみ刻みこまれることとなるのだろうなあと思った。
 教会に少し足を踏み入れ左右を見渡す。そこで、とんでもない存在と目があった。
 そう、とんでもない存在である。僕がこの世で一番愛して、この世で一番触れたくて、それでも触れられないそんな可愛らしい存在。天使なんか目じゃなく、淫魔の前を裸足で駆け抜ける存在が、じっと僕を見つめている。それに僕の喉はごくりとなった。まるで裸体の女を前にした童貞のようだ。僕が童貞であることは認めるけれど、飽くまで例えだ。
 僕は自分の掌を見つめる。分厚く素肌を覆われているからといって、万が一ということがないわけでもない。だから僕は、その恋焦がれて仕方がない存在に一度として触れたことがなかった。ただ遠目から眺めて、まるで初恋をこじらせた処女のようにうっそりと目を細めて心を満たしているだけだった。
 しかし、それで僕が満足できるはずもない。触りたくて触りたくて、日々気が狂いそうになっていたのだ。
 その存在と、存在たちと今、僕は目が合っている。それに僕は震えた。
 もしかしたら、この結界内なら、僕はこの子たちに触れることができるのではないのか? ローブの浮力でさえ無効にする、死神の特性である素肌での強制送還も無視される、そんな空間なら、この子たちに、触れるのではないか?
 僕は震える手で手袋を外した。それをポケットに入れることなく、ふらふらと、まるで悪魔にかどかわされた人間のように、その存在に近づいた。その子たちは逃げることなく、むしろ嬉しげににゃあと鳴いた。その様のなんと可愛いこと!
 僕はその子たちの前にしゃがみ込むと、ゆっくり、素の掌を差し出した。手袋を外すのなんて何年、いや何百年振りだろう。あの大魔女と大乱闘を終えて以来じゃなかろうか。死神は生理現象がないから汗もかかない。だから蒸れるなんてことはないけれど、それでも僕は久しぶりに素肌で感じる風の気持ちよさに目を細めた。
 その子たちは、僕が恋焦がれてやまなかった存在たちは、またにゃあと一鳴きして、ぺろりと僕の手を舐めた。僕の素肌を、舐めた。
 それでも彼ら彼女らの魂が抜けるような、そんな現象は引き起こされなかった。ただすりすりと僕の掌に頭を擦り、撫でてくれと上目づかいで伝えてくる。ああ、ああ、ああ! なんて僥倖! なんて幸福! ありがとう神様! ありがとう顔のよく似た今から僕に殺される男よ! お前たちのおかげで、僕は念願かなって彼女たちに、猫に触れることができた!
 うっかり感動の涙が出そうになったもんだから、僕は空を仰いだ。雲ひとつない真っ青な快晴。まるで僕が猫たちに触れられたことを祝福するかのようなそれに、また僕の心はふわふわと幸福に包まれた。ああ幸せ、今なら殺されても成仏できる気がする。
 猫はどこからともなく姿を現し、その数を増やしていった。僕の頭に乗ってくるものまでいる。それでも彼ら彼女らの魂は天界に強制送還されない。そのなんと嬉しいこと! ああ僕はずっと、この数百年の間一目この猫という存在を見てから、触りたくて触りたくて、戯れたくて戯れたくて仕方がなかったのだ。それが今日、叶った。ああ今ならなんだってできる気がする。

「たいそう懐かれてるな」

 そんな僕の幸福を、優しげな声が一刀両断した。びくりと肩が跳ね、その拍子に猫が数匹、僕の肩や頭から落下した。抗議するようににゃあと鳴かれたが、今はそんなことに気を回していられない。僕を、死神である僕を視認する存在がそこにいる。その事実が僕を貫いて血まみれにした。
 僕の気配が変わったことが分かったのだろう、猫たちは一目散に逃げて行った。
 確かに、確かに動物やまだ小さな赤ん坊には、僕たちの存在は見える。しかし普通の人間に、僕の姿は見えるはずもないのだ。いくらこの結界内でも、死神や悪魔の姿を一般人に見えるようにさせる効力はないと、ここに来るまでの道のりで分かっていた。だから普通の人間が見たら、今の状況は猫が宙に浮いていたり誰もいない空間に猫がにゃあにゃあ嬉しそうに鳴いているという、奇奇怪怪なものになっているはずだ。だからかけるならばそんな優しげなものではなく、キャアとかウワアとかいった、悲鳴でなくてはならない。
 だというのに今僕にかけられた言葉は、僕が存在することを知っている、視認しているものだった。それに緊張が走らないわけがない。
 悪魔か、それとも天の者か、それとも聖職者か。後者二つはともかく、悪魔だった場合、ことは面倒になる。だから僕は跳ねるように立ちあがると同時に、鎌を取り出して構えた。そしていつでも振り下ろせる体制をとりつつ振り向く。

「おお、すごいな! どこから出したんだ、その鎌は!」

 そこにいたのは、僕と同じ顔をした間抜けなことを抜かす男だった。






「なるほど死神か! ならばあの鎌も納得がいく! 父さんに死神の話は聞かせれていたからな」

 にこにこ、にこにこ。そんな形容詞がぴったりな様で、エセ神父は僕に紅茶とクッキーを差し出した。出されたところで触れねーよと思ったが、よくよく考えてみればこいつの結界内では命ある生き物にすら触れられたのだ。恐る恐るクッキーをつまんでみると、あっさり触れてびっくりした。すごい、こいつの結界内だと死神の力、というか特性はほとんどないものになっている。協会から提供されるものしか口にできなかった僕は、そのクッキーの甘さに歓喜した。協会の配布するものはとてもじゃないが美味とは言い難い。いいなあ人間って。こんなもん食えてるんだ。
 初めてお菓子を見たかのようなきらきらとした表情をする僕を、エセ神父はやはりにこやかなまま見守っている。向かいの席に座って、「すまんな、今はこれしかないんだ」と困ったように謝罪した。これしかって。十分すぎる。うまい。うまい。今なら甘味に魅了されるあの大魔女ことトド松の気持ちが痛いほど分かる。なんだこれ! 超うめえ!
「しかし死神が生き物に素肌で触れられたり、下界のものに触れられるとは初耳だな。父さんの知識は間違っていたのか?」
「いや、間違ってないよ」
 ばりばりとクッキーを頬張り、紅茶に口を付ける。この男の父親の知識はどこも間違っていない。死神は生き物以外の下界のものには触れないし、素肌で生き物や魂に触れればそれらを天界に強制送還できる。だからおかしいのは、間違ってるのはこの空間なのだ。
 紅茶を啜りながら、エセ神父の顔を見る。見れば見るほど似通っている。まるで鏡を見ているかのようだ。
「しかし、死神が俺と同じ顔をしているとは。もしかしてそういうシステムなのか?」
「違う。僕は産まれてからずっとこの顔だよ」
 僕だってトド松の存在がなければ悪魔が何らかの悪戯をしたのかと思ってしまったことだろう。しかし違う。こいつの前では、悪魔であれ死神であれその能力を発揮できない。それはさっき幸せなほど実感した。今現在もだ。
 しかし、この世界には同じ顔が三つあるという。ならば僕とトド松、そしてこのエセ神父でコンプリートだ。
 だというのに、僕の科白にエセ神父はぱっと顔を明るくさせてこんな爆弾発言を落としてくださった。

「そうか! 女神さまも同じ顔をしているのだが、何か運命じみたものを感じるな!」は?

 明るくキラキラと話すエセ神父は「その女神さまのところによく来る天使も同じ顔をしているんだ。本当に運命だな!」と明るく言った。いやいや、いやいやいやいや。僕とトド松とこいつでコンプリートじゃなかったのか。
 同じ顔が、更に二つ。僕は目眩を起こしそうになるのを必死にこらえて、「まじか」と眉間を抑えつつ答えた。まじか。本当にそんな感想しか出てこない。どんな神の悪戯だ。まだ悪魔の悪戯の方が可愛げがあったぞ。
 エセ神父は嬉しそうに笑いながら「いつか二人も紹介しよう。君はこの地区を任された死神なのだろう?」と言った。そのことに、ショート寸前幸せ絶頂の僕は、思い出す。ここに来た意味を。ここに来た本来の目的を。猫と戯れに来たわけでも、クッキーと紅茶に舌鼓を打ちにきたわけでもない。それをようやく思い出した。ポンコツもいいところである。
 沈黙した僕に、エセ神父は心配げな顔で「大丈夫か? 口に合わなかったのか?」と見当違いなことを言ってきた。違う、違うよ。
 ゆらり、と立ち上がる。そして鎌を取り出す。何もない空間から、何もかもを破壊する鎌を取り出す。そのことに、エセ神父の顔が驚きに染まる。「本当にどこからでも取り出せるんだな」そっちかい。そっちだよな、お前頭の中ぱっぱらぱーのお花畑っぽいもんな。自分の力量も、技量も、能力も理解していないようなボンクラだもんな。
「俺はな、エセ神父」
 歩み寄る必要もない。だってテーブルを挟んだ向こうに、こいつは座っているのだから。僕の身の丈をゆうに越すこの鎌を一振すれば、こいつの首を跳ね飛ばせる。術師が死ねば、強制的に結界は解除される。そうればここに配置されていた死神が大慌てで山ほどある魂を天へと導くことだろう。
 これは仕事、これは仕事。そんなことを繰り返す頭にうんざりした。そんな暗示を、僕はトド松を殺そうとしたときにもしたのだ。これは仕事なのだから、しなくてはいけないことなのだから、仕方がない。何が仕方がないというのか。
「お前を、殺しに来たんだよ」
 神父の目が大きく見開かれる。そして小さく、殺しに、と呟いた後、怪訝そうな顔で「どうしてだ?」と理由を訊ねてきた。こいつ本当に殺される自覚あんのか。ないよな、あんた馬鹿そうだもんな。
 でもどうやら僕もその馬鹿さ加減に当てられてしまったしまったらしい、ご親切に理由を述べてやった。

「あんたの結界は強力すぎる。俺が見えるくらいだ、この辺りを彷徨う魂にだって気付いてんだろ。このままいくと、死神が能力を使うことができずに、魂を昇天させられずに生と死のバランスが崩れる。それはまずい。だから、」

 だから俺は、あんたを殺す。
 そう告げた僕に、エセ神父はしばらく視線を下に向けて考え込んだ後、分かった、と自分が殺されることを快諾した。
「俺がギルドガイなばっかりに、お前たちに迷惑をかけていたんだな」
「ギルドガイって」
 なんだこいつ、死神なのに肋折れそうになったわ。やっぱこいつタダもんじゃねえ。殺さなきゃ、色んな意味で。
 まっすぐに俺を見上げるエセ神父の瞳に、僕が映り込む。鎌を振りかざし今にもこいつの頭を跳ね飛ばさんとする、そんな男の姿が映り込んでいる。
 それに、酷い頭痛を感じた。ずきんずきんと痛みを発するそれに歯を食いしばる。躊躇うな、これは必要なことだ、仕事だ、やらなきゃいけないことだ。
 奥歯が軋むほど顎に力を入れ、僕はそれを振り下ろ「にゃあ」そう、とした時に、それを何かが邪魔した。ハッとしたように声の方に目を向ければ、先ほど戯れていた猫の一匹が、こちらを静かに見つめていた。にゃあ。もう一度そいつが鳴く。
 ああ、ああそうだ。こいつを殺したら、僕はもしかしたら今後一生あの至福の時間を過ごせなくなるのかもしれない。数百年生きていて今まで一度として、こんな強力な結界を張れる人材に出会ったことがなかったのだ。悪魔にだってしえない、天使にだって女神にだってしえないことを、こいつは平然とやってのけた。僕に猫と触れる幸せを教え、クッキーと紅茶の美味しさを伝えた。
 鎌を下ろす。こいつの首ではなく、自分の身体の横に。それに目を見張ったエセ神父に、僕は静かに告げた。「逃げんぞ、エセ神父」「え?」
 目をぱちくりと瞬かせるこいつの手を引く。勿論素肌でだ。それでもこいつの魂は天に昇らない。それが何よりも嬉しい。初めて触れた人肌はひどく温かくて、僕の思考を狂わせるには十分すぎた。

「四十秒で支度しろ、逃げんぞ」
「逃げるって、どこに」
「どこでもいいんだよ!」

 協会が命令違反をした死神をどうするかは知っている。むごい処刑をし、殺す。そのことは死神全員に刻みつけられている。それでも僕はそれに鉄バッドで殴り込みに行くことに決めた。理由は猫と甘味。我ながら阿呆な理由である。これでは今まで処刑されていった死神たちに顔向けできない。
 それでも、それでも僕はこの手を引いた。このぬくい人間の手を引いた。そして素早く自分の唇を噛み千切り、同様にエセ神父の口にも歯を立てる。突然のことに、エセ神父の目が限界まで開かれる。僕の血とエセ神父の血が混じり合って、お互いの口に、食道に、胃に滑り落ちる。そして、身体に浸透する。トド松の知識がここで役立つとは思っていなかった。今度あいつにケーキを買ってやろう。
 十分浸透しただろうと思い、引き寄せていた身体を突き飛ばす。
「な、何を」
「契約した」
 異形のものと人間は契約できる。その契約の仕方はその種族によって様々であるが、死神の契約方法は互いの血を混ぜ体内に取り込むことだとトド松に言われた。聞いた時はふーん簡単なんだねと思う程度だったが、その雑談が今役に立った。今度からトド松を神と崇めよう。
 エセ神父は未だに滴る血を拭いながら「は、初めてだったのに……」なんて処女みたいなことを抜かした。いや、処女ではあるのか。男に処女も何もあったものなのか知ったこっちゃないが。
「支度しろ、とにかく逃げる」
「逃げるって、何から」
「いろんなものから」
 死神が人間と契約なんて禁忌中の禁忌だ。契約した人間は不老を手にし、身体もいくらか頑丈になる。死神もまた、死神の特性を継いだまま人間に視認されるようになり、また下界のもの全てに触ることが可能となる。こいつの結界内ならば、俺は猫に触れる。クッキーを食える、紅茶が飲める。契約する動機には、十分すぎた。
 勝手に契約されたエセ神父は呆然としつつも、自分の何かが変わっていくことを察したのだろう、意を決したように尻もちを突いていた身体を持ち上げた。
「ああ分かった。俺はお前と共に逃げよう」
「聞きわけのよろしいことで」
「惚れたからな」は?
 今度はこっちが驚く番だった。ぱちぱちと紫色の、死神を死神だと認識するのに一番手っ取り早いその目を瞬かせながら、エセ神父に視線をやる。あいつは胸を張って、惚れたんだともう一度言った。
「熱いキッスに、俺の心はもうお前の虜になってしまったようだ」
「いってえこと言ってねえでさっさと支度しろ」
「オーケーだマイハニー」誰がハニーだ。
 エセ神父に蹴りを入れると、そういえば、とこいつは蹴られた尻を撫でながら俺に顔を向けた。
「お互いの名前を、まだ知らなかったな」
 いや、僕は知ってるはずなんだけどね。知ってるはずだけど忘れた。殺す奴の名前なんて覚えてても仕方ないと思ってたから。
 だから僕は、こいつの名前を知らない。そんな僕に、エセ神父は手を差し出してにっこりとほほ笑んだ。

「俺はカラ松。これからよろしくなマイハニー」
「……一松。あとそのハニーってのやめろ」

 そう言って、僕はその手を握った。握手された手に、カラ松は嬉しそうに力を込める。それにうっかり、涙が出そうになった。ああ人とは、こんなにぬくいものだったのか。
 そうして僕たちの逃避行は始まった。にゃあにゃあと猫が鳴く、そんな呑気な日だった。



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