最近どうにもこうにも夢見が悪い。深夜に何度冷や汗をびっしょりとかきながら跳ね起きたことか、僕はそれが十を越したあたりから数えることをやめてしまった。隣で寝ている十四松が「どうしたの?」と震える僕を心配げに見ながら目をこすり、朝食での箸の進み具合が遅いことを気にかけていることから、僕はやはりこの弟は馬鹿な道化なだけではないのだろうなと思うのだった。同じく隣で寝ているおそ松兄さんは、僕が悪夢にうなされ跳ね起きた際に目を覚ましたことも、そして朝食の際に気を遣うようなことも一度としてなかった。僕が毎夜毎夜(これは少し嘘だ。夢自体見ないほどの深い眠りにつく日があることにはあったのだが、眠りが浅い時、つまり夢を見る際にはいつもそれらが悪夢へとなり果てていた)悪夢に苛まれていることを知らないのだから当たり前のことであるのだが、どうにもこうにもそのことに苛ついて僕はいつにも増してこの長男への当たりをきついものにしてしまうのだった。我ながら理不尽ではあると分かってはいるけれど、どうにもこうにも収まりが利かない。それもこれも、すべてあの悪夢のせいである。
 そもそもにして、僕が悪夢に苛まれることとなった原因はこの長男であるおそ松兄さんと、僕のすぐ下の弟、一松のせいだった。悪夢にせいも責任もあるのかどうかは不明瞭だが、あの日、おそ松兄さんと僕のいつもの口論にぽつりとまっさらな水を落としたのは一松であり、その日以来僕は夢を見るたびうなされるのだから、原因は明々にして白々であった。むしろそう考えれば考えるほど、おそ松兄さんと一松の二人のせいではなく、松野家四男松野一松ひとりのみの責任である気がしてならなかった。

 あの日、いつものように僕がハローワーク(このネーミングが、僕は大嫌いだった。なんだこんにちは仕事って。舐めてんのか)に赴こうとしていたところを、いつものようにおそ松兄さんがからかった。そこまではいつも通りであり、もはや日常の一端となっているといっても過言ではない光景である。しかしいつもと違ったのは、僕は色々な不幸ともいえないちっぽけな苛立ちがその日に限って積み重なっており、更にその日に限って僕とおそ松兄さんと一松しか家にいなかったこともいただけなかった。
「もうやめたらあ、毎日遊んで暮らそうよぉ」
 そんな甘えたなことを甘えた声で言って、おそ松兄さんはにししと笑った。いつもと同じ、変わらぬ表情であった。その時の僕はどうにもこうにも虫の居所が悪く、その表情を視界に入れた瞬間冬の日本海並みに自分の胸の内が荒れ狂い始めたことを自覚した。
 しかし自覚したところで、そういったものを抑えられるわけもない。僕は不機嫌さを隠しもせずに、「はあ?」と眉を吊り上げた。常と違う僕の様子にこの敏い長男が気付かないはずもないのに、おそ松兄さんは変わらず飄々とした表情も雰囲気も全く崩さなかった。代わりに同室で一松と遊んでいた猫がぴんと耳を立て、一目散に窓から飛び出していった。君子危うきに近寄らずという言葉は、どうやら猫たちの間でも浸透しているらしい。
 おそ松兄さんは寝転びながらめくっていた漫画から視線を僕に上げながら「どうにかなるって。そんな生き急がなくていいじゃあん」と間延びした声で言う。視界の端をちらちらと陣取る一松はといえば、猫が去ってしまったことに僕と同じ、しかし僕よりはよっぽど可愛げのある表情で不機嫌そうにしていた。そのことも、この現状を悪化させる原因だったと言っていいだろう。
 兎に角、兎にも角にも、何もかも全てが最悪のタイミングだった。きっとその日の星座占いの最下位は双子座がでかでかと発表されていたに違いない。何の足しにもならないラッキーパーソンやら何やらを付け加えて、申し訳なさそうにその星座を口にする女性アナウンサーを想像して更に神経が荒立つ。今思えば理不尽の極みだ。彼女らは自分の仕事を全うしているだけなのに。

「ていうか、おそ松兄さんがそんなんだから皆こんなクズみたいな生活送ってんじゃないの」

 これは常々思っていたことだ。長男であり、皆の模範であるべき男が平日の真昼間から自堕落に漫画をめくるだなんてなんとご先祖様に報告すればいいのか。両親に至っては僕たちを甘やかしに甘やかしているから、この長男の姿を突き付けたところで現状が変化するわけもない。
 苛立ちを隠しもしない刺々しい声音だというのに、それを言われた側といえば相も変わらず飄々とした姿勢を崩さぬまま、よいしょと小さく掛け声をして身体を起こした。そのまま胡坐の姿勢を取ると、下からぬうっと僕を見上げた。それにまた、僕の苛立ちゲージは留まることなく上がっていく。
「どしたのチョロちゃん、今日はいやに絡むじゃん」
「絡んでんのはそっちだろ」
 そう吐き捨てても、やはりおそ松兄さんは飄々としたまま、一向に僕に感情を荒立たせることも、表情を崩すこともしなかった。相も変わらず、飄々とした面持ちで僕を見上げている。そのことに、無意識に舌が鳴った。
 いつもそうだ、この長男は。兄弟の中で一番のクズで一番どうしようもない人間なのに、それを自覚しつつも罪悪感も後悔も抱かない人間の底辺。だというのに長男という地位を陣取り、我が物顔で(実際我が物なのだけれど)家に居座り、兄弟を仕切る。僕より最下層の人間であるのに、どこか尊敬や畏怖を抱かせる異形の存在。
 今だって、バチバチと触れたら感電し発火しそうな火花を散らしているのは僕だけである。おそ松兄さんはその火花を避けもせず、かといって拒絶もせず悠々と、難なく受け入れ鎮火させる。もっともそれは僕の目からおそ松兄さんの体内に入った火花であって、僕自身の火花を沈めたわけではない。だから僕は、目付きが悪いとトド松によく指摘される三白眼をこれでもかというほど鋭くさせた。
 気に食わない。気に食わない。気に食わない。何もかもが。何もかもがだ。どうしてこうも僕の人生はうまく回らないようにできてるんだ。前世で何かしでかしたツケが今生の世に反映されているとでもいうのか。だとしたら青狸でも召喚してタイムマシンをブン盗り、その前世の自分とやらを滅多刺しにしてやるのに。
 勿論そんなことは有り得ない。僕は零点常習犯の半パン小僧ではないのだ。どう転んでも、どの角度から見ても松野チョロ松というひとりの人間でしか成りえない。六つ子の三番目という肩書きしか背負っていないちっぽけな存在でしかないのだ。
 それをどうにかこうにかして好転させようと、変化させようとしているのに、この兄はどうしてそれを阻む。どうしてそれを邪魔する。長男としてその背中を押し応援しようという気概は湧いてこないのか。湧くわけねーか。だってこいつは揃いも揃ってクズである僕ら六つ子の親玉。ちっぽけな世界でふんぞり返る馬鹿な王サマ。そんな奴がその世界を崩そうとする人間を励ますわけもなかった。
「もうやめたら」
 そんな罵詈雑言を全て吐き捨てようとしていた僕を、静かな声が制した。僕の視界をちらちらと彷徨うだけであった紫色が、初めて行動を起こした。
 それが、それこそが、僕が悪夢に苛まれる夜を送るようになってしまった全ての原因だった。
 もしもこの時、一松が何も言わず、そのままだんまりを決め込んでいたら絶対にあんな夢を見ることはなかったのだろう。例え僕にどれだけ罵られようと、おそ松兄さんは飄々としているか、怒るにしても取っ組み合いの喧嘩を僕と始め、そしてそのうち帰ってきた兄弟の誰かに止められギスギスとした夕食と就寝をし、そして次の日の朝には何事もなかったかのように醤油の受け渡しをしていたに違いない。僕たちの喧嘩が後日まで長々と引きずられることは、二十数年の中で数えるほどしかなかった。
 だから、そう、一松があんなことを言いさえしなければ、僕は快適な睡眠を貪り眠気まなこを擦りながら悠々と朝食にありつけていたはずなのだ。すべては、一松のせい。僕のすぐ下の弟である、松野一松のせい。
 そんな制止の言葉を放った弟を、僕は射殺さんばかりの眼光で睨み付けた。一松はそれを煩わしげに受け止め、「もうやめなよ」ともう一度僕を引き止めた。何をやめろというのか。人の感情の苛立ちなど、やめろと言われてやめられるそんな簡単なものではない。それを一番分かっていそうなのはこの弟であるはずなのに、何故僕を止めるのか。止めるべきは僕の将来を潰さんとするおそ松兄さんの方ではないか。そんな思いを込めて一松を睨めば、一松はぱちぱちと瞬きをして溜息を吐いた。
「おそ松兄さんも、チョロ松兄さんももうやめなよ。猫が寄りつかなくなる」
「ええー、チョロ松は分かるけど、なんで俺ぇ?」
 僕からしたら逆だ。おそ松兄さんを止めるのは分かる。僕の将来を潰そうとしているのだから。でも何故僕まで止められねばならないのか。僕は正当な怒りをおそ松兄さんに向けているだけである。自分の作った腐った箱庭から逃げださんとする弟の足を掴む兄に対しての、真っ当な感情だ。だというのに、何故僕まで。
 おそ松兄さんに負けず劣らず人の機微の変化に鋭い一松のことだ、僕の心情を分からぬはずもないであろうに、やはりおそ松兄さんと同様に、その態度を崩そうともしない。何故こうも、この二人は正反対であるのに似通っている部分があるのか。そのことにまた、僕の苛立ちがかさましされる。
「チョロ松兄さんはそういう人間なんだよ」
 一松は何でもないことのように、まるで明日の天気を告げるかのような声音で、そう言った。ぴしり、と僕の何かがひび割れる音が聞こえたのは、きっと幻聴ではあるまい。
 ひび割れた僕に追い打ちをかけるように、一松は淡々と言った。その言葉を告げられているのはおそ松兄さんであるはずなのに、まるで僕を断罪するようなそれに、僕は知らず目眩を起こした。ぐにゃり、と視界が、世界が歪む。
 動かない、動けない僕から視線をそらしおそ松兄さんへと目を向けた一松は、淡々と、単々とこう言った。

「チョロ松兄さんは、こうやって自分は行動してます、自立しようとしてます、だからマシな人間ですって思わないとやっていけない人間なの。クズであることから目をそらして、クズじゃありませんよっていう言動取ってないと生きてけない人間なんだよ」

 おそ松兄さんだって分かってるでしょ? と付け加えた一松の表情を、僕は思い出せない。その後のあらましも、一切記憶になかった。
 しかしその日の夜から、僕は悪夢を見るようになったのだ。
 この弟を、松野一松を殺すという、おぞましい悪夢を。


 真っ赤になった十四松を、一松はやはりあの日と同じように淡々と見つめていた。兄弟の中で一番仲のいい相手が殺されたのだから、泣くなり喚くなり怒るなりすればいいのに、そのどの感情も持ち合わせていないようなそんな面持ちで、一松は顔面の崩れた十四松を眺めていた。
 そのことに、僕は脳漿が沸騰するほどの苛立ちに襲われた。ぐらぐらと茹つ脳みそから生成された言葉を吐いても、一松は表情一つ動かすことなく、ゆっくりと瞬きをして僕を見上げるだけだった。その半分しか開かれていない気だるげな両目に、全身を返り血塗れにさせた男が映っている。同じ顔をした六つ子だからといって、自分の顔を他の兄弟と見間違うわけもない。その双眸に反射しているのは、疑いようもなく松野チョロ松だった。
「お前は、冷たい人間なんだね」
 一番仲のいい兄弟を無惨に殺されても、眉ひとつ動かさずにその有り様を受け止める。これと同じ血が通っているのかと思うとゾッとした。こんな悪魔みたいな、いや、みたいじゃない、悪魔そのものである人間と同じ遺伝子を持っているだなんて身の毛のよだつような話だった。
 自分の眼前でところどころ刃零れした包丁を持って佇む僕を前にしても、やはり一松は何の感情も窺わせない表情でしばらくじっと僕を見つめてから、すぐにそれをそらして一松にとって最愛の弟であったものに再び視線を戻した。本当に、だったもの、という表現がぴったりな有り様だった。
 僕たちは同じ顔をした六つ子ではあるが、しかしよくよくその顔を観察してみれば瑣末な違いを見つけることが可能である。
 しかしその顔も今さっき、僕がぐちゃぐちゃにしてしまった。肌を削って、眼球を抉って、鼻を切り落として、皮を剥いで滅茶苦茶にしてしまった。十四松の顔であったところに今あるのは、いびつに歪んだ筋肉やら脂肪やらだけだった。これではどの松であるのか、イヤミでなくとも判別がつかなくなることだろう。
 僕が十四松をそうやって惨殺している間も、一松は少し後ろで三角座りをしながら眺めているだけだった。やめろともどうしてとも言わず、かといって恐怖に打ち震えるわけでもなく、硝子玉のような双眸でその惨劇を見守っていた。僕を引き剥がそうと必死にもがいていた十四松の手がだらりと垂れ下がって、ぴくんぴくんと痙攣し始めても、一松は駆け寄ることもなければ僕を殴るようなこともしなかった。ただただ、その始終を見つめているだけだった。
 最後に一突きした心臓は、十四松のものらしい、肉厚で固いものだった。抜くのに一苦労して、全体重をかけて抜いたせいで尻もちをついてしまった。そんな僕にびゅーびゅーと振りかかる血液の生臭さに、僕は自分でしでかしたことながら眉間に皺を寄せた。きったねえ。そう吐き捨てても、一松は動かなかった。動けなかった、という風ではない。本当に、動く気がなかったから動かなかった。そんな様子だった。
 一松は僕にそう言われても、十四松の死体から目をそらすことなく小さく瞬いた。その瞼には、たった二人しかいない(いや、普通二人もいれば多い方なのだろうけれど)弟のひとりを殺された憤怒で震えてもいなければ、次は自分かもしれないという恐怖で引きつってもいなかった。普段通り、ただ眼球が渇くから瞬いているだけ。そんな様子に、僕は更にこの弟への憎しみを増幅させるのだった。
 そう、僕はこの弟が、一松が憎くて憎くて仕方がない。僕を、僕の行動を否定した男が恨めしくて仕方がない。僕を認めなかった人間が、殺したいほどに忌まわしくて忌まわしくて気が狂ってしまいそうだ。兄弟のうちで唯一常識人であるはずの神経が、焼き切れてしまいそうでひやひやする。
 そうだ、僕は六つ子の中で一番まとも。一番常識人。一番社会に適応できる、そんな人間。そんな人格。
 だというのにこの弟は、この男はそれを否定した! 僕はまともでも常識人でも社会に適応できる人間でも人格でもなんでもなく、クズである自分をひた隠しにしようと奮闘する間抜けな男だと言い放った! ああなんて憎らしい! なんて恨めしい! なんて忌まわしい! お前みたいなクズに、僕の何が分かるっていうんだ!

「お前みたいなクズって」

 言葉にしたわけではないのに、一松はそんな僕の心情を見透かして笑った。それは子供が浮かべるような純粋無垢なものではなく、どす黒い嘲りを持った、穢らわしい大人がするものだった。
「チョロ松だって、おんなじじゃん」
 一松は僕を兄だと称することなく、そういって嘲笑した。自分の内から吹き出る嘲りが溢れ出てしまったと言わんばかりに、口角を少しだけ持ち上げて、大層愉快そうに一松は笑った。僕を、嗤った。
「チョロ松はまともでも常識人でも社会に適応できるような人間でも人格でもない」
 ようやく十四松の死体からそらされ僕に向けられた双眸は、ニッタリと細められていた。そのなんとおぞましいことか! 僕はまるで背中に百足が這っているかのような悪寒を感じ、ぶるりと身震いした。おかしい、どう見ても今優位に立っているのは僕であるはずなのに。鮮血をまとい包丁という凶器を手にし佇んでいる僕の方が、こんな何の武器ももっていない三角座りをした男より優位であるはずなのに。そうであるはずなのに。
 だというのに、まるで僕の方が喉元に包丁を突き付けられたかのように、身動きがとれなくなる。透明な刃物が少しだけ刺さった喉は、たらりと、やはり透明な血液を垂らした。じんわりと僕に滲む、脂汗だった。
 そんな僕を心底嘲るように、蔑むように、一松が冷笑する。僕を、冷笑する。僕を、否定する。
「ほんとは分かってるんでしょ」
 ゆうらりと、一松が緩慢な動作で立ち上がる。それに僕は知らず、後ずさった。その拍子に包丁から十四松の血が垂れ落ち、真っ白な床を赤く染めた。
「チョロ松は、僕たちの中で一番のクズだよ」
「やめろ」
「チョロ松は、僕たちの中で一番の出来損ないだよ」
「やめろよ」
 僕の制止、いや、懇願に成り下がっている科白を聞こえていないかのように扱い、一松は喉で嗤った。一本だけ伸ばされた人差し指をとん、と僕の胸に当て、喧しいまでの鼓動を刻む心臓を嘲る。

「チョロ松は、僕たちの中で一番、駄目な奴だよ」
「やめろって言ってんだろッ!」

 僕が包丁を振りかざしても、一松はその冷笑をやめなかった。むしろもっとその嘲りの色を濃くさせて、心底おかしそうに僕を見る。その目を細めさせる感情は、嘲りだ。蔑みだ。恐怖などでは、決してない。むしろ僕の方がぶるぶると言葉にしがたいうっそりとした明確な恐怖を、はっきり自覚していた。僕を否定する、僕を拒絶する、僕を否認する弟に、情けないほどに鬼胎を抱かされていた。その事実に、僕はまた怒りで眼球を沸騰させるのだった。
 僕は頑張ってる。僕はまともになろうと頑張ってる。僕は普通になろうと頑張ってる。だというのに、なんでそれを否定する! なんでそれを認めてくれない! なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、

「俺を認めてよ」

 一筋、何かが頬を伝った。きっと血液だろう。そんな有り様の僕に、そこで初めて一松は嘲り以外の感情を向けた。
「チョロ松は、僕たちの中で一番かわいそうだね」
 それを最後に、一松は何も言わなくなった。違う、言わなくなったんじゃない、言えなくなったんだ。だって僕が殺したから。このぼろぼろになった包丁で、一松の脳天を、顔を、首を、胸を、腹を、腕を、足を滅多刺しにしたから。噴水のように噴き出る血を浴びながら、僕は何度も何度も一松を刺した。脳みそが弾けても、舌が飛び出ても、内臓が零れ落ちても僕はそれをやめなかった。ぐさぐさ、ぐちゃぐちゃ。そんな粘着質な音を立てながら、僕は一松を殺した。弟を、殺した。
 その臓物のぬくさに絶望しながら、僕はもう動かなくなった一松を静かに見下ろした。上がる自分の呼吸だけが、静かな空間に反響していた。
 チョロ松ハ、僕タチノ中デ一番カワイソウダネ。
 そんな一松の声が僕の脳みそを駆け巡るから、追い出そうとしても逃がさんぞと言わんばかりに絡みつくから、僕はもう赤くないところなどどこにもないような身体にもう一度、いや一度だけではない、何度でも包丁を突き立てようと、腕を振りかざした。
「ほらね」
 もう原型をとどめていないはずの一松の口から、ケラケラとした嘲笑が零れ出る。ケラケラ、ケラケラ。

「チョロ松は、一番カワイソウだよ」


 起きた時の気分はまさしく最悪だった。最悪にして最低だった。ガンガンと頭痛を発する頭を持ち上げれば、僕につられて起きた十四松が「大丈夫?」と心配そうに訊ねてきた。そのことは、僕に死んでしまいたいほどの罪悪感を抱かせた。こうして僕の様子がおかしいことに気付き、気遣う弟を、僕は夢の中で惨殺したのだ。これに罪悪を感じない人間がいるはずもない。
 大丈夫だと小さく返して、僕は両手で顔を覆った。今日は十四松だった。その前はカラ松、その前はトド松。僕は夢で一松を殺す前に、必ず他の兄弟を一人殺していた。その殺し方は様々で、単純に首を絞めたり刺殺したりといったものから、僕の脳内のどこにそんな知識とおぞましい思想があったのかと戦慄くほどのむごいものもあった。それを思い出すたび、僕は自分が怖くて怖くて仕方がなくなる。夢だけでは飽き足らず、いつか本当に現実世界でそんな凶行をしでかしてしまいそうで恐ろしかった。
 おかしい、僕は兄弟の中で一番まともで、一番常識人で、一番社会に適応できうる人間だったはずなのに。人格だったはずなのに。
 ちらりと指の隙間から、僕から見て右端で眠りこける同じ顔を盗み見る。まだ起きる気配が全くないその寝顔は、常の皮肉っぽさや卑屈っぽさを抜かした、純粋無垢なものであった。一周回って阿呆のようにも見える。
 ああ、ああ一松、僕のすぐ下の弟、愛しい愛しい兄弟よ。早く僕を認めてくれ。僕はまともだと、常識人だと、社会に適応できうる人間だと頷いてくれ。でないと、でないと僕は、俺は、お前を、


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