・24話後




 僕の死にたがりを止めるのは、いつだっておそ松兄さんだった。

 夜ふらりと布団を抜け出し夜間徘徊を行う僕の手をとり、いつもの飄々とした顔ににんまりと意地の悪い笑みを浮かべて「飯いかね?」と悪戯を持ちかけるように言うのだ。疑問形だというのに僕の答えを聞かずにぐいぐいと手を引っ張ってファミレスにつれいていくもんだから、単純に力ではかなわない兄さんの隙をずっと探すのだけれど、この長兄に限ってそんなものを見せてくれるはずもなく、煌々と蛍光灯の照らす店内へと僕を招き入れるのだ。そして丑三つ時であるにも関わらずハンバーグなどというヘビーなものを口にしながら、うまいうまいとときどきドリンクバーのメロンソーダを啜る。僕はそれを眺めながらウーロン茶を飲んでニコチンを摂取する。揺らめく紫煙だけが僕たちを眺める店内で、おそ松兄さんはハンバーグを完食し、僕と同じように煙草をふかしながら「こんな時間だし、死ぬの明日にしたら」と言うのだ。確かにそろそろ空が白んでくる頃合いである。僕は首を吊るなら神社がいいと思っていたのに、これじゃあそろそろ管理人やら何やらが来てしまう。だから僕はその言葉に頷いて、そうだね、また今度にする、と返す。その言葉を聞いて満足した長兄は、また意地の悪い顔をして僕の財布から勝手に支払いを済ませるのだった。ふざけんな。

 また別の日にふらりと再び夜の街へ訪れた僕の手を取るのもやっぱりおそ松兄さんで、「なんか海見に行きてーな」と言って父さんの車を拝借して、夜の海へと向かった。海へ飛び込もうと思っていた僕は好都合だと思って助手席でほくそ笑んだ。しかしいざ海へついて車から降りてみれば、あまりに強い海風とその寒さにぶるぶると震えて死ぬどころの話ではなくなってしまった。だいたいにして僕たち二人はそろいもそろってパジャマ姿であった。真冬ではないというのになんだこの寒さは。震えてろくに喋れもしない僕に向かって、同じようにがたがた身体を揺らして暖をとろうと奮闘しているおそ松兄さんは「こんなに寒いし、夏にでも死んだら」と言うのだった。もっとも歯と歯がぶつかり合って何を言っているのかかなり聞き取りにくい科白だったが、僕もそれに負けないほどの滑舌で「そうだね、夏にする」と言って、二人で何もせずに家に帰った。起きた時、車を勝手に使ったことがばれて母さんに死ぬほど怒られた。そして二人揃って風邪を引いた。馬鹿は風邪をひかないんじゃなかったのか。

 手首を切ろうとしても、薬を大量に服用しようとしても、何をしようとしても、おそ松兄さんがふらりと現れて僕の手を取る。あの意地の悪い笑みを浮かべて、「また今度にしようぜ」と僕の自殺を止めるのだ。そして僕はそれに頷いてしまう。おそ松兄さんの言うとおり、死ぬには向かない日だと思ってしまうし、実際その通りであるのだから、僕は大して反論もせず「うん、そうする」と返して、二人で布団に戻るのだ。いつも、そうやっておそ松兄さんは僕の自殺を阻止していた。阻止というより、邪魔に近い。にまにまと笑いながら、僕の自殺を邪魔していた。


 それが反転するなど、誰が思ったことだろう。
 少なくとも、三年前の僕は想像すらしていなかったはずだ。いやそもそも、こういう状況に陥ることでさえ想定外だったに違いない。もしもタイムスリップした自分が目の前に現れたら、僕とおそ松兄さんの中身が入れ替わったとさえ思うだろう。というか、実際今僕が思っている。これじゃあまるで僕がおそ松兄さんで、おそ松兄さんが僕みたいだ。
 だいぶ冷たくなってしまった手を取って、僕はおそ松兄さんに言う。「夜中のビルとかって、絶対警備固いよ。昼間にしたら」って。おそ松兄さんは三年前の僕みたいに「うん、そうする」なんて言ってくれない。無言で僕の手を振り払いも何もせず受け入れる。だから僕もそれに甘えて、引きずってだいぶ狭くなってしまった我が家に帰るのだ。ワンルームのぼろアパート。それが今の僕らのおうち。そこに引きずって帰って、せんべい布団の上で窮屈に二人肌を寄せ合い、僕はおそ松兄さんが眠るまでじっと待つ。まるで電源を落としたかのようにすとんと瞼を下ろす兄さんを見届けてから、僕も眠る。そんな関係を、僕たちはもう一カ月ほど続けていた。
 あの時。ふらりと仕事帰りの僕の前に現れたおそ松兄さんを見た時。僕はほぼ反射的にその手を取った。記憶よりだいぶ細くなってしまった手を取って、「死ぬのは明日にしようよ」と言って僕の家へ引っ張り込んだ。そして二人で狭い布団の中で眠った。起きた時も兄さんが腕の中にいることに途方もなく安堵した。三年前は僕がおそ松兄さんにそれを強いていたのかと思って、申し訳なさと、今の現状へのやるせなさで項垂れる。
 あの時。三年前。いや、三年以上前から、ずっとずっと、おそ松兄さんは僕を助けてくれた。救ってくれた。死ねもしないのに死にたがって自殺未遂にすらならないそんなちゃちな茶番に付き合ってくれた。いつだって、どこでだって、この兄は兄であろうとした。六つ子という同い年の中で、長男であろうとした。その結果がこれだなんて、苦笑も嘲笑も失笑も湧かない。噴き出るのは、うっそりとした絶望だけだ。
 いつもと同じように、おそ松兄さんの瞼が電池の切れたブリキのように静かに落ちる。規則正しい、定規で計ったかのような寝息を立てて、おそ松兄さんは夢の国へと旅立った。本当に、眠っている間にいける仮初の楽園ではなく、本当の夢の国へとこの兄を誘う術を、僕は持たない。この世界はどこに行ったって、どこに逃げたって雁字搦めの不気味な有刺鉄線が付きまとうのだ。その針に、おそ松兄さんは殺されそうになっている。三年前の僕なんかより、よっぽど。
 おそ松兄さんの頬に指を当て、その輪郭をなぞるように滑らせる。随分、痩せてしまった。僕がきちんと三食作りラップをかけて家を出ても、帰宅後の真っ暗な部屋でそれらが片付けられていたことなど一度もない。朝用意した姿のまま、冷たくなって鎮座しているそれに、どうしようもないやるせなさを感じながら、僕は僕がつくった食事をゴミ袋に放りこむ。本当に放りこみたいのは、捨てたいのは、こんなものではないというのに。


 三年前から、家を出た時から、僕は実家に帰っていない。他の兄弟とも、十四松とさえも連絡を取っていなかった。だから今、長男をなくしたあの家が、あの兄弟がどうしているのか、どうなっているのか、僕は知らない。知ろうとも思わない。ひんやりとした頬をなぞっていた指を、くすんだ髪に埋める。風呂にだけは入ってくれている。というか、無理やり一緒に入っている。銭湯以外で一緒の浴場に入るのなんて何年ぶりだろうと、僕はおそ松兄さんの頭を洗いながら思ったものだ。
 そろそろ髪を切らなくてはいけない。これでは目に入って邪魔だろう。重力に従って力なく垂れる前髪をそっと掻き上げる。そんなことを思うのも、言うのも、実行するのも、全ておそ松兄さんだったのに。おそ松兄さんが、してくれていたのに。ぐ、と唇を噛むことはもうない。だいぶ前に、そんなことは済ませてしまった。
 僕がどれだけ唇を噛もうが、血を流そうが、時間は巻き戻ってくれなどしない。僕が、僕たちがかけたこの人への負担を、一グラムだって軽減させることは叶わない。世界は残酷で、残虐で、無慈悲だった。
「ね、おそ松兄さん」
 ぱちり、とおそ松兄さんが目を開ける。先ほどまで眠っていたとは思えない、そんな様子だった。本当に、まるで電源をつけたパソコンのような動作で、おそ松兄さんは瞼を持ち上げた。


「明日、一緒に死にに行こうか」


 三年前、僕がどれだけ死にたがりを繰り返しても、おそ松兄さんは止めるだけで、一緒に死のうとは言ってくれなかった。当時の僕は、それに絶望して、そして絶望する自分にまた失望した。自分の我儘に、仮初の自殺願望に、兄を付き合わせている上に一緒に死のうと言ってくれないことを残酷だと思うのは、あまりに身勝手すぎた。兄という肩書きを持ったこの人に、あまりにも甘えすぎていた。もたれかかりすぎていた。きっと、そのツケが回ってきたのだ。
 過去、チビ太がツケを払えとカラ松を誘拐したことがあった。結局それは有耶無耶になり、数日後にはカラ松も普通にあのイタサ全開の笑顔を振りまいていた。あの次男も、ツケを払わせる為に誘拐される人材も、もうここにはいない。チビ太の世話になっていたのは知っているが、さすがに三年も経っている。いい加減一人暮らしでもして、彼女の一人や二人、作っているのかもしれない。あれはあのイタサを取り除けば、案外いい奴だったのだから。
 ツケの代わりに犠牲になるカラ松はもういない。いい加減にしろと怒鳴るチョロ松はもういない。一緒に遊ぼうと手を繋いでくれる十四松はもういない。何やってんのと呆れるトド松はもういない。
 いるのは、一緒に死のうと抱きしめる、僕だけだった。
 ごめんねと呟くと、おそ松兄さんは何も言わないまま僕の頭を優しく撫でた。温度のない手はまるで死人のようで、それに益々僕はどうしようもなくなって、とうとう泣き出してしまった。子供のように泣きじゃくりながら、おそ松兄さんの胸に顔を埋めた。そんな僕を、おそ松兄さんは黙って抱きしめる。とんとんと、赤子をあやすように僕の背中を優しく叩く。心音を思わせるそれに、更に涙が零れた。
 ごめん、ごめんね、ごめんなさい。いったい僕は、誰に謝っているのだろう。どこに許しを請うているのだろう。何について罪を感じているのだろう。その答えは、きっと神様だって持ち合わせてなどいない。
 おそ松兄さんの背中に腕を回す。細くなってしまった、薄くなってしまった、小さくなってしまった兄を、抱きしめる。

 父さん、母さん、カラ松、チョロ松、十四松、トド松、ごめんなさい。僕たちは、明日死ににゆきます。先立つ不孝を、お許しください。

 そんなことをぼんやり思いながら、僕はおそ松兄さんに縋りついて、泣いた。どれだけ自分が死にたがったって、どれだけ死ぬのを止められたって泣かなかった僕は、限りなく死に近づいて行く兄を思って、泣いた。あの頃の僕なんかよりよっぽど死に近い兄を見て、泣いた。おそ松兄さんは、何も言わなかった。






 日が出てまだ間もないホームは、ぽつぽつと人がいる程度でいつもの雑踏なんて嘘のように静かだった。パネルに映し出される一番大きな金額を二人分購入して、プラットホームに降り立った。月によって冷やされた夜の空気の残滓が、僕たちの肌にべったりと付きまとう。それから逃れるように、手に握られた切符を握りしめた。くちゃくちゃになったそれに、これでは改札を通ることができないかもしれないと思った。駅員さんに言わなきゃな。しわを伸ばすようなことはせず、握りつぶされた切符をそのままに僕は佇んでいた。
 僕が目を覚ました時、おそ松兄さんはすでに死にゆく準備を済ませていた。赤いパーカーにズボンを履いて、煙草をふかしていた。赤と白を基調とした箱から筒を取り出して、火をつけていた。僕もそれに倣って、着替えることもせず自分の煙草に手を伸ばした。
 言葉にしなくとも分かっていた。ちゃんと覚えているのかと、夢だと思われていないかなどと、確認する必要なんてなかった。おそ松兄さんは僕の言葉をきちんと覚えていてくれている。共に死のうという誘いを、忘れずにいてくれている。だから僕は、黙って紫煙を吸った。静かな寂れた部屋に、煙草の断末魔だけが響いていた。
 一服を済ませ、身支度を整えた僕は財布だけを持って、おそ松兄さんと共に家を出た。鍵は、かけなかった。どうせ死ぬのだ、泥棒が入ろうとホームレスが押しかけて来ようと関係ない。だって死ぬのだから。携帯電話も当然、置いてきた。歯を磨くついでに水没させた電子機器は、きっと今頃ぶくぶくと息苦しさに喘いでいることだろう。三年間通いつめて、初めて無断欠勤をした。それは学校を抜け出す高揚感を思い出させ、僕を少しだけ浮足立たせた。
 朝起きてから今ここに来るまで、おそ松兄さんと僕の間に会話はなかった。おはようとも、さあ行こうとも、こんな茶番はもうやめようとも言わなかった。ただただ、冷たい空気と紫煙だけが、僕たちの間をいったりきたりしていた。
 行先はなんとなく決めている。死ぬのは、僕たちが死ぬのは、羊水を思わせる、全ての生命の始まりであるあの水たまりが一番お似合いだと思っていた。だから、僕たちの死に場所は海だ。あの青い青い、綺麗な水の中だ。
 海に行こう、とは言わなかった。それでも、言葉にしなくともおそ松兄さんは僕たちの死に場所を分かっていたのだろう、自然、海の方向へと発車する電車へと乗り込んでいた。手は、繋がなかった。人目を気にしてのことではない。僕たちに、そんな繋がりはいらないと思ったからだ。そんな物理的な、即物的な繋がりはいらなかった。だって僕たちは世にも珍しい一卵性の六つ子。同じ時、同じところで産まれた、同じ存在。だから、手をつなぐなんてそんな行為、野暮でしかなかった。

 がたんごとんと、鉄の箱が僕たちを運んで行く。いくつもの生命の死を見守ってきた水たまりへと、運んで行く。
 おそ松兄さんはずっと窓の外を眺めていた。本当は外の光景なんて見ていなかったのかもしれない。ただ顔をそちらに向けただけで、見てなどいないのかもしれない。そんな風に思わせる横顔だった。その横顔を、僕は静かに見つめる。
「おそ松兄さん」
 呼んでも、おそ松兄さんは振り向かなかった。三年前のように、なんだよ一松、なんて悪戯っぽく笑いながら、振り向いてくれなどしなかった。それでいい。それでいいんだ。だからこそ今、僕たちはこうして死ににゆくのだから。
「おそ松兄さん」
 その言葉に、僕はどんな感情を塗り手繰っていたのだろう。おそ松兄さんの横顔と同じで、何も色などつけていなかったのかもしれない。実際今の僕は伽藍堂で、目の前にいるおそ松兄さんもまた、伽藍堂だった。
 呼んだ名前の先に続ける言葉を、僕は持たない。もうやめようとも、ごめんなさいとも、何も言わない。言う気もなかった。もうやめよう。何を今さら。ごめんなさい。何を今さら。僕たちはあの瞬間、ばらばらになってしまった瞬間から、もうどうしようもなくなってしまっているのだから。
 だから僕は、何も言わず、微動だにしないおそ松兄さんの横顔を見つめながら、電車に揺られ続けた。車内は、僕たちがいる空間だけ世界から断絶されたかのような静けさを保っている。無論、そんなものは錯覚だ。世界は僕たちを見逃してくれなどしない。僕たちを、許してくれなどしない。だから今、僕たちはここにいる。ここに、ある。


 どれほどそうしていたのだろう、無機質な声が、終点、終点、と繰り返して、僕たちを運んでいた箱を止めた。おそ松兄さんの顔からようやく視線をそらして、同じように窓の外を眺めてみれば、そこには青い青い、海が広がっていた。曇り空であるせいで日光を反射し煌めいてなどいない海は、どんよりと淀んでいた。僕たちの最期にふさわしい、そんな色であった。
 おそ松兄さんが立ちあがるから、僕も腰を上げた。そのまま二人、無言のままで電車から降りる。ひしゃげた切符は、やっぱり改札口に吸い込まれることはなかった。だから駅員さんを呼ぶと、迷惑そうな表情を一片たりとも浮かべることなく、彼は笑顔で僕を駅から解放してくれた。使い道のなくなった切符は回収されず、未だに僕の手の中に収まっていた。礼を言い、僕を待つことなくずんずんと進む兄さんに小走りで追いつく。
 海が近いせいだろう、死骸の腐った、生臭い潮風が僕たちの鼻腔をくすぐった。これからこのにおいの一部になるのかと思っても、僕の心は躍りもしなければ、沈みもしなかった。何もないまっさらな白だけが、僕の心を塗りつぶす。
 海へ向かう間も、僕たちの間に言葉はなかった。まるで声帯の震わせ方を忘れてしまったかのように、僕たちは無言で海へと向かった。
 すれ違う人々が僕たちに振りかえる。同じ顔が二つあることに対しての驚きからだろう。本当は六つなんですよと、二度見する人々に掴みかかりたくなった。本当は僕たちは、六つ子だったんですよって。同じ顔が六つ、誰が誰でもおんなじだったんですよって。怒鳴りたくなった。
 しばらく歩けば、固いアスファルトから自重で靴が沈む砂浜へと、僕たちは辿り着いていた。中途半端な時間帯であることと、こんな変な時期の、曇り空で鈍く沈む海を拝む酔狂な人間がいないということが助けて、閑散とした海辺には僕とおそ松兄さんしかいなかった。好都合だ。誰かがこの空間にあるだなんて、耐えられるわけもない。僕たちの終焉を、誰かに邪魔されるだなんてゾッとしない話だった。たとえ他の兄弟にだって、今の僕たちの間に入ることは許されなかった。
 
 先に海水へと足を沈ませたのは僕だった。じゃぶじゃぶと、冷たい水を踏みながら進む僕に少し遅れて、おそ松兄さんが入水する。水を吸った服と水圧は、僕たちの歩を邪魔するように肌にまとわりついた。それはこの世に存在する、異端者を許さない有刺鉄線にも似ていて、ああここまで来ても、僕たちがそれから逃れることは叶わないのだと落胆した。結局僕たちは、死という救いに縋らない限り、この雁字搦めにまとわりつくものからは逃れられないのだ。
 羊水を思わせる死を啜った水に、どうして母さんは僕たちは一つにしてくれなかったのだろうと思った。ばらばらにされた受精卵は、今こうして産み落とされたにも関わらず死にゆこうとしている。悲哀はなかったが、ただただ虚無感だけが僕を襲い狂った。それでも僕たちの間に、言葉はなかった。耳に痛いほどの静寂を、水を掻きわける音と、ざざん、と波が砂浜を打つ音だけが打ち消していく。

「一松」

 ようやく海水が腰にまで来た時、おそ松兄さんが僕を呼んだ。今日初めて、いや、今日だけではない、三年間一度も呼ばなかったその名前を、おそ松兄さんは口にした。そのことに、驚きも喜びもしないまま、僕は振り返った。
「海って、案外冷たいんだな」
 おそ松兄さんはそう言って、そう笑って、僕の手を取った。触れる肌は、昨日までの死体を思わせる冷たく硬いものではなく、ぬくい、生きた人間の弾力を持った、そんなものだった。
「死ぬのは、明日にしようぜ」
 そう言って、おそ松兄さんは笑った。三年前、僕の死にたがりを止める時と同じ、そんな笑顔で、僕の手を取った。目を伏せて、繋がれた手に指を絡める。

「うん、そうする」

 そう言って、僕はぐしゃぐしゃになった切符を海に放った。ひらひらと宙を舞ったそれは海に浮かび、そのうち波に浚われ沈んでいった。



title by へそ
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