僕ら兄弟そろいもそろって全員クズだけれど、一松兄さんのクズさはちょっと他の兄弟のものとは毛色が違うと僕は思っている。この四番目の兄とそこまで仲がいいわけではないし、一松兄さんといっとう仲のいい十四松兄さんに言わせればもっと違う意見が出るのかもしれないけれど、僕からしてみれば、あの四番目の兄は頭がいいのだと思う。学校の成績だとかそういった意味ではなく、人間性的意味で(もっとも一松兄さんは学生時代、僕ら兄弟の中で一番成績がよかったのだけれど)。
 二十四時間営業のファミレスでドリンクバーに設置されたキャラメルラテを飲みながら弄っていたスマフォの液晶に大きく非通知という文字が映し出されるのを見て、今日は随分遅かったなと通知ボタンを押す。画面の上に小さく刻まれた時刻は日の出まであと二時間もない時間帯となっている。こんな時間までことに及んでいた一松兄さんも一松兄さんだし、何時間も律儀に待っている僕も僕で相当イってるなと思った。相手が可愛い女の子ならまだしも、自分と同じ顔をした闇人形である一松兄さんを待ってるともなれば、他の兄弟に目を剥かれることだろう。一松兄さんが十四松兄さんだったり、僕がカラ松兄さんだったりしたならばまだ理解されたのだと思う。一松兄さんと十四松兄さんは仲がいいし、カラ松兄さんは兄弟と待ち合わせの約束をしたならば何日間待ちぼうけを食らおうがいもしないカラ松ガールとやらを意識しながらブラックコーヒーをひたすら啜っていたことだろう。
 しかし現実というものは無情で、待たせているのは闇人形こと一松兄さんで、待っているのはドライモンスターこと僕トド松であった。じゅ、と底に残った泡を飲み込む。

「やっほー一松兄さん。今日は随分遅かったね」
「面倒な奴に当たった。あいつとは二度と会いたくない」

 本当は高い声を無理やり押し殺して低く唸る一松兄さんはどこか威嚇した猫を彷彿させる。滅多矢鱈に自分の背中や頭を撫で回す子供を前にした黒猫。いや、この場合路地裏で日々の鬱憤を自分より脆弱な生き物に当たることで解消する社会的底辺な人間と遭遇した時の野良猫なのかもしれない。僕たちニートでさえそんなことはしないというのに、社会という荒波に揉まれた人間のなんと怖いこと。あーあ、また働きたくないという欲望が強まってしまった。なすりつける当てがないので、とりあえず今電話越しに顰め面をしているであろう兄になすりつけておいた。南無三。
 勝手にそのモヤモヤをなすりつけられたなんて露知らず、一松兄さんは相変わらず不機嫌であることを隠そうともしない声でどこにいるかを訊いてきた。
「駅前のファミレス」
「了解。そっち行く」
「おっけー」
 適当に返事をして通話を切る。伝票を手にレジへと向かった。店内をちらりと見渡せば、いかにもといった感じのおじさんと若い女の子がいた。中年太りした身体を窮屈そうにスーツで包み込み、禿げかかった頭で蛍光灯の光を反射させながら鳥肌の立つような顔で女の子をねっとりと見つめている。絶対気持ち悪いと思ってるでしょ、女の子。それでも向かいに座っている女の子はそんな雰囲気は微塵も出さず、にこにこと大衆受けする可愛らしい笑顔で楽しそうに頷いている。可愛く両手を顎に当てて、きゃらきゃらとした声で受け答え。すごいな。ああいうのを商売魂っていうんだろうか。
 一松兄さんもあんな風にしているのかと一瞬頭を過ったが、頭を振ることなくその考えを打ち消す。有り得ない。あの闇松兄さんに限って。きっと兄弟と対した時と変わらない態度でその甘言を受け入れているのだろう。少し眉をひそめてキモチワルイ、とでも言うのかもしれない。エムだと言っていたが、それが行き過ぎてエスの気があるというのがうちの四男だった。そもそもエムって自分をいじめてる時点で相当のエスだしね。ドエムこそが最強のドエスなのかもしれない。
 レジに立って数秒すると、裏方にいたであろう店員が、これまた感情を窺わせない対応でテキパキと金額を打ちだす。そもそもドリンクバーしか頼んでないのだからテキパキも何もないのだけれど、ドリンクバーだけで何時間も粘った僕に何の敵意も感じさせない態度だった。二十四時間営業のファミレスでいちいちそんなことに目くじらを立てていたら身がもたないのかもしれない。ファミレスというのは客層が広いから接客が意外と大変なのだと友達が言っていたのを思い出す。僕だったら絶対無理だな。スタバァみたいに、客層が限られているところならまだしも。
 五百円玉を渡してお釣りをもらう。次回から利用できる割引券までもらった。苺の時期ということで苺フェアをやるらしい。対象商品が三十円引きになるそうだ。今度女の子でも誘って来ようかな。いや、やめておこう。割引券を出入り口のゴミ箱に放る。こんなところに来て一松兄さんにでも間違われた日には目も当てられない。なんでこんなわざわざ電車で一時間ほどのところに来ているのか分からなくなってしまう。しかしそこで、そういえば別にこの店限定のものではないのだから、実家近くの店舗で使えばよかったと後悔した。まあいっか。
 外に出ると、春先とはいえ冷たい夜風が頬を撫でた。店内が温かかった分、少し冷える。スマフォから伸びたイヤフォンを耳に突っ込んで再生ボタンを押す。最近ようやく話題になってきたバンドの曲が流れ始めた。
 僕はこのバンドが高校の時から好きだった。その影響で少しギターを齧ったほどだ。結局僕は齧る程度になって、今じゃ全然弾かなくなったけれど、一曲だけ兄弟で弾いたことがあった。ギターが僕とカラ松兄さん、ドラムが十四松兄さん、キーボードがチョロ松兄さん、ボーカルがおそ松兄さん、そしてベースが一松兄さん。それが中々に上手くて、文化祭で披露してくれと軽音楽部の人に頼まれるほどだった。おそ松兄さんがノリノリで引き受けて演奏したけれど、結局その一回こっきりで、それ以来滅多なことでは弾かなくなった。カラ松兄さんは未だに弾いてるみたいだ。
 一度活動休止に陥って、このまま解散しちゃうのかなあと思っていたら最近になって活動再開、そしたらネットで話題になってようやく人気が出始めたのが、僕が今聴いてるバンドだった。売れることはいいことだと思う。なんだか遠くに行っちゃったみたい、なんてことを昔からのファンで言ってる人もいるらしいけれど、遠くに行っちゃったも何も、最初から近くなんてなかったろうになんて僕は思ってしまう。いや、確かに距離的には近かったのかもしれないけれど。売れないことには始まらない。だって、この世は人気やお金が全てなのだから。
 どうして貴方はそうなの、私のことをこれっぽっちも分かってくれない、私はこんなにも貴方を愛しているのに。そんな歌詞が耳から流れ込んでくる。このバンドが初めて発表した曲だ。陳家といえば陳家だけれど、それがいいと僕は思う。恋愛なんて陳家以外の何物でもない。生殖本能の附属品に過ぎない。
 しばらくファミレスの駐車場で待っていると、夜でも暗さを感じさせない道から歩いてくる人影が視界に入る。ずりずりと擦り足で歩く猫背に乗っかった頭についた両目は猫のように光っている。人を殺してきたと言っても納得してもらえそうな眼光だ。職質されても文句は言えまい。

 でもまあ、人を殺してきたというのはあながち間違っていない。

 正確に言えば、人となるべき種を殺してきたという方が合っているのだろうけれど。

 僕を視認しても、一松兄さんは歩く速度を速めも遅めもしなかった。何時間も待たされたこっちとしては少しは速めろよといった感じだが、この闇人形に何を言っても無駄だ。最悪この往来で脱糞される。今の時間帯ならば通行人はそこまで多くないが、代わりに警察がうろついていることだろう。同じ顔をしている以上、僕も仲良く交番行き、下手したら逮捕ものだ。それだけは御免被りたい。
「いくらもらえた?」
「五万」
 いい額だね、と言えば、あんな面倒なことしといてシケた金だったらチンコ切り落としてると物騒な科白が返される。同じ男として、想像もしたくない考えだ。一松兄さんだって同性だろうに、よくそんなことがさらっと言える。聞いてるだけで股間が痛くなる。
 どちらが言うでもなく二人で駅に向かい始める。「終電、もうとっくに過ぎてるよ」「始発まであとどのくらい?」「二時間」「まじか」漫喫にでも行った方がいいだろう。この兄とどこかのファミレスで顔を突き合わせていても構わないけれど、それだと一松兄さんが暇になってちょっかいを出してくるかもしれない。だとしたらどこかいい感じに時間を潰せるところに行った方がいい。
「あ」
 スマフォで手頃な店を探そうとマップを開くと、その画面内にカラオケが映し出されていた。見れば営業時間は朝の五時まで。終電まで時間を潰すには持って来いだ。
「一松兄さん、カラオケ行こうよ」
「はあ? なんで」
「ここから一番近いから」
 この兄の場合、放っておいたらそこら辺でホームレスや酔っ払いの如く眠りこけてしまいそうだ。随分前に放送されていた、酔っ払いにクイズを出す番組じゃあないんだから。
 一松兄さんはじろりと視線を僕に寄こしてから、「別にいいけど」と心底どうでもよさげに吐き捨てる。マップに映し出されたカラオケ店をタップすれば、目的地まで五分です、と無機質な女性の声が流れた。
 少し前を歩いていた一松兄さんが足を止め、逆にずんずんと進んでいく僕のあとを、やっぱりゆったりとした歩幅でついてくる。僕もこっちだよ、なんてことは言わず、無言で進む。僕たちにそういったやり取りは不必要だ。ナンセンスとも言う。それは僕たち二人の間に言葉がなくとも平気な絆があるというような、そんなお綺麗な理由ではなく、単純に無駄な労力だと思ったからだ。紙の余白を手で切り取るのと似ている。信用しているとか信頼しているとか、そういった話ではなく、単純にいらないと思っただけだ。というかそういう発想すら浮かばなかった。
 ちらりと一松兄さんに視線を向ければ、だるんだるんのシャツから鎖骨が覗いていた。「シャツ、ちゃんと着てよ」いくら街灯やら何やらの光で照らされているとはいえ、夜というだけあって当たりは仄暗い。道を歩くなら問題ないだろうが、カラオケに入るともなれば話は別だ。確かあのカラオケ店は煌々と蛍光灯が出入り口を照らしていたはずだ。ちゃんとした照明の下に曝け出されれば、自然とその鎖骨は照らされてしまう。それだけなら別に構わないが、僕が店員に変な誤解をされるのは嫌だった。
 一松兄さんは返事もせず無言で胸元をたくし上げ、「これでいい?」とでも言うように僕を見た。不自然極まりないが、露骨に曝け出されるよりはよっぽどマシだ。僕も声を発することなく、再びスマフォに視線を落とす。目的地はすぐそこだった。顔を上げれば、カラオケ屋の看板が見えた。
 一松兄さんに視線を移せば、僕が前を向いてすぐ手を離したのか、数秒前と変わらず無防備に鎖骨が晒されていた。おい。眉間に皺が寄る。
「隠せって言ってんじゃん」
「ごめん」
 悪びれもせずに言う一松兄さんの顔の下で不健康そうに浮いた鎖骨に刻まれた噛み痕が、ネオンの光に当たって不格好に赤く光っていた。





 一松兄さんは援助交際している。春を売っているとも言う。綺麗に言ったもんだ。援助交際だなんて、何も知らない小学生がその単語を見たらボランティアだとかそういった類のものだと勘違いしてしまうだろう。春を売るだなんて表現も、まるできらきらとした美しいものを売っているみたいじゃないか。小汚いおっさんとセックスしてお金をもらってるだけなのに。いや、最近だとセックスはしないでデートだけなんていうのもあるのか。そういう業界も進化するもんだ。
 僕がついてきてるのは、単純に仲人の役をやっているからだ。僕が一松兄さんの情報をチャットやらSNSに書き出して買いませんかと促す。そうすると、冷やかしやら何やらじゃないちゃんとした客が引っ掛かるのだ。場所を指定して、あとは落ち合うだけ。簡単なものである。
 案内された部屋の電気をつける。「てか、ラブホでもよかったんじゃない」「ラブホよりこっちのが安い」一松兄さんが稼いだ金は半分ほど僕に渡されるのだけれど、そういったところに無駄な出費はしたくなかった。同じ顔でラブホに泊るより、新作のカーディガンを買った方がずっと有意義だ。
 デンモクを手に取り適当に弄る。一松兄さんは歌う気なんて端からないのだろう、欠伸をしながら伸びをしている。覗いた腹には丸い火傷があった。出来立てだからか、まだ血が滲んでいる。
「うわ、根性焼きされたの」
「だから言ったじゃん、面倒な客だったって」
 心底うんざりしたように、一松兄さんが言う。その顔には疲労と涙の痕がくっきりと残っていた。目も心なしか赤くなっている。「皆にどう誤魔化すの」「寝ぼけて煙草吸ってたら火傷したって言うよ」なんちゅー無理矢理な。いざとなったら家の風呂に入ればいいだけなのだけど、一松兄さんは出来るだけ皆と一緒に銭湯に行く。さすがに情事の痕が色濃く残っていたらやめるけれど、緊縛の跡くらいだと普通に行ってしまう。暇だから縛ってみたで相手も納得するんだから、この兄はなかなかおかしい。いや、兄弟全員おかしいだけか。僕除く。確かに僕はクズだけど、狂ってはいない。
 なんとなく先ほど聞いていたバンドの名前を検索してみれば、何曲かヒットして少し驚いた。まさかカラオケに登録されるまでになったとは。感動だ。
「ね、見て見て。この曲カラオケ入ってる」
 画面を見せれば、「へえ、あのバンドそんなに売れたんだ」と大して興味なさげな返答。一松兄さんに何か期待していたわけじゃないから構わない。ただ単に僕が言いたかっただけだ。
「これ文化祭でコピバンしたよねー。おそ松兄さん勝手にアレンジするから大変だった」
「あの人は自分のやりたいようにやっちゃうからね」
 一松兄さんはおそ松兄さんを三人称で呼ぶ時、あの人という。あいつ、とかそういう風には呼ばず、あの人と、まるで他人のような呼び方をする。兄さんと呼ぶのだって、おそ松兄さんだけだ。確かにチョロ松兄さん、極々稀にカラ松兄さんにも兄さんとつけることはあるが(カラ松兄さんのことをそう呼んだ日には、次の日の天気に気を遣うようになる。槍が降ってきたとしても、なんら不思議はない事件だ)、絶対に兄さん、とつけるのはおそ松兄さんだけだ。
 一松兄さんはポケットから煙草とライターを取り出し、安っぽい音をさせて火を付けた。確か一松兄さんが煙草を吸い始めた理由も、おそ松兄さんに勧められたからとかそういった理由だったと思う。多分おそ松兄さんは他の兄弟も誘っていたのだろうけれど(カラ松兄さんとチョロ松兄さんは誘われる前から吸っていた)、律儀にそれに乗ったのは一松兄さんだけだった。僕たち普通科と違って、ちゃんと進学コースにいた一松兄さんが喫煙なんてばれたらまずかったのかもしれないけれど、教師に見つかることなく無事卒業式を迎えていた。
 全くおいしくなさそうな煙を吐き出し、一松兄さんは軽く咳き込んだ。

「今日の客、そんなに激しかったの」
「あいつはサドを履き違えてる。あれじゃただの鬱憤晴らしだ」

 軽蔑したように吐き出された言葉に、大変だったねと適当に労わっておく。それになんの批判もない。当たり前だ。自業自得なんだから。そしてそれ以前に、一松兄さんはそういった言葉を期待していないはずだ。心からの優しさなんて、この人には恐怖でしかないのだろう。その気持ちは、六つ子とはいえ全く理解できない。二十数年同じ屋根の下で育ってきたが、この兄に関しては理解できないことだらけだ。一松兄さんだけじゃなく、他の皆にも言えることなのかもしれないけれど。

 一松兄さんの左手首には、目を凝らさないと分からないような、薄らとした白い線が入っている。高校時代、カッターナイフで傷つけたものだ。瘡蓋ができていたときだって誰も不審に思わず声をかけない、その程度の、そんな風に誤魔化せてしまう程度の軽い自傷痕だ。それも一筋だけなのだから、これをリストカット痕だなんて言ったら本物のリストカッターたちに目くじらを立てられそうだ。
 だいたい、カッターナイフで切りつけた瞬間だって大して流血しなかったのだ。きっと紙で指を切ってしまった時の方が出血したことだろう。その程度の、本当にお遊び程度のリストカット。勿論、死のうとして傷つけたわけじゃない。こんなんで死ねるんだったら箪笥の角に足の小指をぶつけたって死ねる世界線になってしまう。
 僕がそれをリストカットの痕だと知っているのは、偶々その現場を目撃してしまったからに他ならない。それに出くわしていなければ気付きさえしなかっただろう。
 その時僕がどういう反応をしたのか、はっきり言って覚えていない。怒ったのかもしれないし、泣いたのかもしれないし、呆れたのかもしれない。
 ただその時の一松兄さんの顔は、鮮明に脳裏に刻まれている。
 泣くでもなく、喚くでもなく、怒るでもなく。
 ただぼうっと、薄ら血が滲む手首を眺めていた兄さんの顔は、はっきり覚えていた。

 デンモクを操作して先ほど表示していたバンドの曲を入れる。一松兄さんを待つ間聴いていた曲だ。僕たちが最初で最後に演奏した曲でもある。イントロが流れ始めると、一松兄さんはテレビに目を向けた。覗く鎖骨には、やっぱり血の滲んだ噛み痕が見えた。

 一松兄さんのクズさというのは、僕たち兄弟とちょっと種類が違う。皆が皆クズであるが、おそ松兄さんのように自覚して開き直っていたり、カラ松兄さんのように自覚していなかったり、チョロ松兄さんのようにクズであることから目をそらしたり、十四松兄さんのようにクズを通り越した何かであったりと、確かにクズにも千差万別あることにはある。
 でも、一松兄さんのそれは、色々な理由をつけてクズであることを許してもらおうと懇願しているようなもんだ。手首を切るほど疲れています、身体を売るほど傷ついています。だからクズでも許してくださいと土下座しているようなもんだ。大変だから、可哀想だから、不幸だからクズであることを許してくださいと、何も努力せず何も行動しないことを許してくださいと言っているようなもんだ。誰だって飢餓中の子供がパンを盗むことに怒り以外の同情やら何やらが湧くだろう。それを人為的に作って、同情してもらえるような環境を作り上げて、敵意以外の何かを向けてもらおうと必死になっているだけ。賢いのかもしれないけれど、ある意味一番滑稽だ。クズであり続けることを許されるために条件を作るなんて。
 歌詞が流れ始めても、僕は歌わなかった。そもそもマイクだって取っていない。何だかんだいって、僕も歌う気分じゃなかったということだろう。これじゃファミレスと何も変わらない。

「一松兄さんってさ、馬鹿だよね」
「はあ?」

 じろりとした目が僕を睨む。いつも眠たげに下げられた瞼に力が入っている。
「馬鹿っていうか」
 腰を軽く上げる。少し離れた位置にいる一松兄さんには、こうしないと顔を近づけられない。
 そのままこちらを睨み続ける一松兄さんとの距離を縮めて、軽く唇を当てる。勿論口に。少しだけ舌を出して口唇を撫でれば、ほんのりキシリトールの味がした。歯でも磨いたんだろう。理由は考えたくもない。吐きそうだ。
 ゆうに三秒ほど、意外と弾力があった唇を堪能して離れると、相変わらず仏頂面の一松兄さんがいた。これでも買ってくれる人間がいるんだから、世の中ってのは分からない。
「なに、トッティもやりたくなった?」
「やだよ、一松兄さんビョーキ持ってそうだし」
 持ってねーよ、と不機嫌そうに言う一松兄さんから視線をテレビに移す。丁度サビの部分だった。

「馬鹿っていうか、カワイソウ」

 かわいそうな人、と歌詞が映し出される。ボーカルのいない曲は虚しさしか感じさせない。いったいこの歌詞が自分のことを差しているのか、相手の男を差しているのか、初めて聞いた時も、そして今も、僕には分からなかった。興味もない。
 カワイソウ、と呟いた一松兄さんは少しだけ俯いた後、不貞寝するように横になった。捲れた腹からまあるい火傷痕が僕を悠然と見つめている。いったそ。どうでもいいけど。


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