うっかり
 兄を殺した。躊躇いはなかったように思う。それこそ僕は、呼吸をするように、花に水をあげるように、食事をするために箸を持つように、そんな感覚で兄を殺していた。つまりはなんの感慨も湧かなかった殺人だったのである。罪悪感がどーのこーの殺意がどーのこーの。そんな感覚は皆無だった。ただただあっ殺さなきゃなと思って兄を殺した。そもそも殺意があったのか甚だ疑問である。これは事故ではなかろうかといったような感じに、兄は死んでしまった。ゆうしゃはしんでしまった!そんなテロップが流れて来そうなほどに軽い人死だった。「兄さん」試しに呼んでみた。当然だけれど返事はなかった。ただぴちゃぴちゃと兄の髪から滴る血だけが返事を寄越していた。ふむ、と顎に手を当てる。当然だが人の命というものは重い。残念なことに。確か死刑の基準は三人殺したらだっけ。首を傾げながら兄の死体から視線をずらして襖の向こうを見る。何が面白いんだかゲラゲラという笑い声が数人分聞こえて来た。兄弟が殺されたというのになんて呑気なんだろう。我が肉親ながら呆れてしまう。でも多分僕が逆の立場だったらあいつらと同じように呑気に浅ましく笑いこけているのだろうな。黒い虫が何度も僕の眼球に飛び込んでくるような錯覚を起こして、かぶりを振る。包丁を手に取った。あと二人、と呟くも、いや肉親殺しだから一人でもいいのかも、と思いながら僕は襖をゆっくりと開けた。ゲラゲラ、ゲラゲラ。笑い声は止まらない。真っ赤な僕のことなんてみんな見えているはずなのに。ゲラゲラ……ゲラゲラ……ゲラゲラ……。うるせえなあ。虫の幻覚を手で払いながら包丁を振りかぶる。ずっぷりと背中に吸い込まれて行く刃先を見ながら、でも微動だにしない兄弟に首を傾げて、ああ、と納得する。

 そういえば、もうとっくの昔に全員殺しちゃったんだっけ。


はさみ
 ああしまったなと思った時には遅かった。兄は心底楽しそうに口角を上げ頬を歪めながらにやにやと僕を見下ろしている。居心地が悪くて煙草を吸うも、ニコチンとはこんなにも不味いものだったろうかと眉を潜めた。兄はそんな僕を楽しそうに見てじゃきじゃきと手にある刃物を鳴らしている。はさみだ。どこからどう見てもどの角度から穿っても何の変哲も無い、兄の色を持ち手に宿した真っ赤なはさみだった。兄はさみを何度も開けたり閉じたりしながらにやにやと笑いこけている。不快極まりない。灰皿に灰を落として兄さんを呼ぶ。ねえ兄さん。おそ松兄さん。
「赤い糸は切れた?」
 あたぼうよ、と笑う兄の左手の指は一本欠けている。何を隠そう、先程兄が己の小指をはさみで切断したからに他ならない。何で僕はそれを眺めているのだろう。そして何故、そこに仄暗い悦びを見出しているのだろう……。
 兄の小指は床に転がっている。それを煙草で焼きながら、ねえ兄さん僕の小指も切ってよと僕は当然のように言った。


玉葱
 最近お兄さん見ないわねえと言われたのでああそうですあのバカ兄最近スプラトゥーンにハマっててと僕は答えた。おばさんはあらそうなのうちの息子もハマっちゃっててねえほんと困ってるのよお互いやんなっちゃうわねと朗らかに笑った。僕もそれに不器用に返しながら一パック九十八円だった卵と百グラム六十円の鶏肉が入ったエコバッグを揺らした。家にまだ玉ねぎがあったはずだから今日の晩ご飯は親子丼だ。兄弟丼で親子丼を食べるという訳の分からないフレーズがふと思い浮かんでハハハと乾いた笑いを上げてしまった。おばさんはそれをただの会話の応酬だと思ったようで特に不審がってはいない。ありがたいことだ。おばさんはそのあと十分ほど僕と会話してからあらやだそろそろヒロムが帰ってくるわと言ってせかせかと歩き始めた。おばさんの息子さんの名前がヒロムということを僕はこの時初めて知った。僕もおばさんとは正反対の方向に歩き始める。兄と二人暮らしをしている部屋には五分ほどで到着した。「ただいま」「…………」返ってこないおかえりという言葉に辟易しながら食材を冷蔵庫にしまう。「ただいま」「……………………」試しにもう一度呟いてみるも返事の代わりに漂ってくるのはただの腐臭だけである。そろそろどうにかしなきゃな、と思いながら、ああそういえば玉ねぎは昨日食べ切ってしまったんだっけかと唐突に思い出した。


蛆虫
 最近幻覚がものすごい。覚醒剤を使用した覚えはないのにそれを疑ってしまうほどに凄まじい幻覚だった。なんてったって殺したはずの兄が蛆虫を穴という穴から放出しながら僕に声をかけるというものなのだからそれを疑うのも致し方がないというものだ。兄は赤いパーカーの上にぼたぼたと蛆虫を落としながらもごもごと何かを言っている。しかし蛆虫がその口一杯に頬張られているせいでその音は酷く不明瞭だ。何度か何を言っているか聞き取ろうと努力したけどもごもごふごふごという音しか感知できなくて五秒で諦めた。僕は存外諦めのいい男なのである。「ふごふご」「分かる。ラーメンは豚骨に限るよね」適当に相槌をしながら付けっ放しになっていたテレビを眺める。砂嵐しか映さないテレビはザーザーという雑音で煩わしい。しかし他にすることもないので、この幻覚と一緒に眺めるしかやることがない。ふごふご……もごもご……。兄は相変わらず何かを呟いている。そのせいで今や床は蛆虫ランドだ。マーライオンのように蛆虫を垂れ流す兄の幻影を見ながら、ふと、ここまで明確な幻覚ならば触れるのではないかと思って手を伸ばしてみた。空を掴む。だよね、と思って伸ばした掌を開いて瞠目する。そこにはびっしりと蛆虫がこびりついていた。握るとプチプチという軽快な音と不快な水気が皮膚を覆う。顔を上げる。蛆虫の湧く兄の眼孔と視線がかち合った気がした。ふごふご……もごもご……。兄の言っていることは相変わらず分からない。掌に転がる蛆虫の死骸を弄くり回す。そういえば、どうして僕は兄を殺したのか知らん……。



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