カラッポのカラ松と言われることはよくあった。お前の脳みそはカラッポだと、中身がカラッポだと言われることは度々あって、それは兄弟であったり、友人であったり、幼馴染であったりと多岐にわたるが、しかし俺をよく知る人物は口を揃えたように皆こう言う。カラ松のカラはカラッポのカラだと。その度に、俺は首をかしげるのだ。皆何を言っているのだろうか、と。俺はカラッポの人間なんかじゃない。ちゃんと中身があってちゃんと生きてここにいる人間なのに、なぜ皆そんなことを言うのだろうと。俺はちゃんとした、人間だと。
 しかし今俺の身に降りかかっている事実は、異口同音という言葉がぴったりなほど皆が皆口を揃えて言っていた言葉とそっくりそのまま同じものだった。カラッポカラ松。その言葉がぐるぐると俺の眼球を回転させる。
 車に轢かれた、俺の身体。車体と激突し、宙に放り投げ出され、アスファルトに叩きつけられた俺の身体。
 血は出ていない。ただ一筋、汗だけが俺の肌を伝っている。
 視線を下げる。分かっている、わかっているのだ。青いパーカーの下にある腹。その、腹が、裂けていることを、俺ははっきり分かっていた。血は出ていない。全く。それでもわかる。自分の腸が晒されていることが、分かる。ぞわりと冷たいものが爪先から登ってきて、それは膝にきた辺りで鳥肌となり全身を苛んだ。
 震える手でパーカーの裾を掴む。そしてゆっくりと、俺はパーカーをたくし上げた。


「…………………………………………は?」


 そこには静かに鎮座している腹筋なんてもんはない。タイヤにぶつかった拍子なのか、それともアスファルトに叩きつけられた衝撃からなのか。
 俺の腹は、歪に破れていた。スプラッタ映画も真っ青なほど、見事に。胸から腰あたりまで、裂けていた。
 俺が喉を震わせたのは、腹が裂けているという事実なんかではない。勿論自分の腹が破れているなんてホラー以外の何物でもない。卒倒ものだろう。
 しかし、俺が本当に戦慄いた理由は、それではない。
 裂けた腹の、その先。その中身。
 それがまるでーー中身の入っていない麻袋のように、冷え通るような暗闇だったからである。


 なんなんだ、なんなんだこれは。俺だって医療に精通しているわけではない。だからといって、薄い皮膚と筋肉やその他もろもろで覆われた腹の中身が空っぽではないことくらいは知っている。胃だとか小腸だとか大腸だとか、そういうものが入っているべき場所だ。傷が大きい分骨や肺だって見えてもおかしくない。おかしくない、はずなのに。
 だというのに、俺の腹は何もしまいこんでいない。血管ですら見えない。ただ本当に、麻袋が破れたかのような傷口だけを有して、深いブラックホールとなっていた。
 なんなんだ、なんなんだこれは。どういうことなんだ!
 自分が轢かれたという事実なんてとっくの昔に頭から吹き飛んでいた。事故の結果、その先に、まさかこんな新事実が明るみに出るだなんて予想もしていなかった。事故に遭うことすら予想していなかったといえばそれまでだが、まさか自分の中身が本当に空っぽだったなんて。ぐるぐる回る思考と眼球に目眩がする。
「は、博士のところに行かなくては」
 病院に行こうという考えはなかった。いくらバカな俺でもこんな状態を医者が治せるとは思っていない。もしかしたら、チョロ松がこの前見ていたアニメのようにモルモットのごとく扱われる危険性だってある。だとしたら、ここは昔馴染みであるあの博士にかかることが一番安全で、最善であると思った。
 震える手で服を直し、立ち上がる。とにかく、とにかく博士のところに行かなければ。膝を叱咤して歩き出「どこ行くつもり?」そうとした時、後ろから声がした。運転手だろうか、それとも通りがかりに事故を目撃した人? どちらでも構わない。構わないが、さっきの俺の腹の中身を見られていないか、そればかりが気になった。
 確かに俺はカラッポカラ松と言われることが多々あった。しかしそれはあくまで比喩表現であって、本当に、物理的に空っぽだという意味で使われたわけではないはずだ。まさか兄弟や幼馴染が俺のこの生態を知っていたとは思えない。知っていたとしたら何故俺にだけ伝えない。俺だってもう立派な成人だというのに。
 何でもない顔を作るために何度か口元を動かす。顔面の筋肉がほぐれたことを確認してから、ゆっくりと振り返った。
「大丈夫です、俺は平気なので。じゃ、それで」
「時速80キロのトラックに轢かれて無事とか、人間じゃないでしょ」
 くく、と笑いながら吐かれた言葉にゾッとする。人間じゃない。普段の俺だったら笑って流せる台詞だ。だというのに、今はその言葉が怖くて怖くて仕方がなかった。だって今の俺はきっと人間と呼ばれるような、呼んでもらえるような存在じゃないのだ。だって、腹の中身が、身体の内部が文字どおり空っぽだなんて。人間じゃ、ない。少なくとも、俺が知っている人間ではない。
 振り返った先にいる人間は、紫色のパーカーを着ていた。胸に松を模した模様が刺繍されている。奇しくも、俺たち兄弟が着ているものと色違いだった。そのパーカーのフードを目深に被って、その上マスクをしているからその人物の顔はよく見えない。目も前髪がじゃまして伺えなかった。
 その顔もわからない、紫色のパーカーの人物がす、とそのすらりとした指を俺に突きつけた。

「見たんだね」「え」「その腹の中身」

 ゾッ、と明確な冷気を伴って、悪寒が背中を駆け抜ける。まるで絶対零度の蚯蚓を脊髄に流されたかのようなその感覚に、知らず、後ずさった。
 見られた。俺の中身を。何もない、空っぽの中身を。どうごまかす。どうごまかせばいいんだ。沸騰するかのように忙しなく動く眼球は役に立ちそうにない。脳みそも同様だ。いったい、どうすれば。
 固まったまま動かない俺に、その人はまたくく、と笑うと、ようやくそのマスクをずり下げて綺麗な弧を描いた口元を見せた。

「おいで。デカパン博士でも、あんたのそれは治せないよ」






















 てくてく、そんな効果音がぴったりな様で、紫色のパーカーを着た人物の後を追う。もっとも彼(体格と声からして男だろう。多分)の歩幅は俺より小さかったから、ゆっくり歩かないと追い越してしまいそうだった。
 彼はただ付いて来いと言った。それにのこのこついて行くなんて、とトド松あたりに馬鹿にされそうではあるが、この人は俺の腹の中身を知っても驚きも慄きもせず、そしてデカパン博士をもってしてもその状態を治すことはできないと断言した。きっとこの前例を見たことがあって、その際にデカパン博士では解決できないことも知ったのだろう。デカパン博士を知っていて、俺のこの状態に精通しているともなれば、付いていかないという選択肢はなかった。
 一度どこに行くのかと目的地を尋ねたが、黙ってついてこいと怒られた。案外短気なのかもしれない。さっき出会ったばかりで知った口を効くのも何だが、その猫背も直したほうがいいのではないかと心配になる。

 名前を尋ねても、彼は嫌がるように舌打ちをするだけだった。それでもおそらく、この俺の腹の中身を解決するにあたってこの人とはそれなりの時間を共有することとなるだろう。だからこれだけは何度もしつこく尋ねると、観念したのか「……イチ」とだけ答えられた。いかにも偽名といったような感じではあったがそこは追求せず、「そうなのか、俺はカラ松と言うんだ」と自己紹介をしておいた。
「俺の兄弟にも数字が入っている奴がいてな、そいつは十四松というんだ。鳥の十姉妹ではなく、十四の松で十四松だ。変わっているだろう」
「……あんたの名前もそれなりに変わってると思うけどね」
 そうだろうか。確かに俺と同名の人物とは出会ったことがない。しかしおそ松やチョロ松に比べると、俺の名前はまだ幾分か親しみやすいもののような気がした。あの二人は小中とその名前をからかわれ、その度に喧嘩沙汰を起こすから、松野兄弟の名前を弄るとヤバイという噂が立つようになってしまった。あの二人はともかく、俺や十四松、トド松は特に自分の名前で悩んだことがないのでその気持ちがよくわからない。というより、生まれた時からおそ松はおそ松でチョロ松はチョロ松だったから、その名前がおかしいという認識すら生まれなかった。環境のせいだろう。
「ねえ、聞かせてよ」イチと名乗った彼は俺の台詞に少しだけ視線を上げた。「あんたの兄弟たちの話」
 俺はいいぞ、と快くその願いを聞き入れた。なんたって俺を含め五人もいるのだ。兄弟のことで話に困ることはほぼない。

「俺は世にも珍しい五つ子の次男でな。小さい頃はよく驚かれたもんだ。上から、おそ松、俺、チョロ松、十四松、トド松といってな、これが皆おかしな奴らなんだ」
「おそ松は長男なんだが、ガキっぽくてなあ。いつまでたっても小学生のような性格なんだ。我が儘だし自分の思い通りにならないと拗ねるし寂しがり屋だし。でもいざという時はしっかりアニキとして活躍してくれる、頼もしいやつだ」
「チョロ松は、こいつもなかなか癖があってなあ。自分ではまともだ常識人だと言っているが、実際高校の時一番ヤンチャだったのはこいつなんだ。すぐに手が出る口が出るで酷いもんだった。それは今でも変わらないが、しっかり喝を入れてくれるいい弟だぞ」
「十四松は本当に明るいやつで、野球が大好きなんだ。いつも袖が伸びたパーカーに海パンを履いていて、川を泳いだり海で溺れたりと忙しい奴だが、本当に心の優しい子でな。人のために泣けるし、人のことで喜べる素晴らしい弟だよ」
「トド松は愛くるしい奴でな。兄弟からはあざといだなんだと言われているが、努力を惜しまないすごい子なんだ。それによく俺と釣りに行ってくれるし、話し相手にもなってくれる。それに人が言いにくいこともズバッと言ってくれるハッキリした気持ちのいい弟なんだ」

「君は、兄弟とかいないのか?」

 なんとなく、そう、本当になんとなくだが、イチには兄弟がいる気がしたのだ。それも一人や二人じゃなく、たくさん。兄もいるし、弟もいる。そんな気がしてならなかった。
 ぴたりとイチの足が止まる。そしてそこから動かずじっと俯いてしまったから、まさか不謹慎なことを言ったのだろうかと慌ててその隣に立った。
「すまん、出会ったばかりの人間に家族のことを尋ねるなんて不躾だったな」
「いや、それを言ったら俺もだしね」
 イチは下げた視線を少しだけ上げて、あそこ、と人差し指をぴんと張った。
「この橋を渡れば、あんたのその身体は元に戻るよ」
 視線をその指先に向けるが、その先は至って普通の、橋だった。なんの変哲もない、ただの橋。その先に何か大きな研究所や病院がある風にはとても思えない。
「この先の、どこに行けばいいんだ」
「行けば分かるよ」
 そう急かすように言われて、恐る恐る橋に足をかける。そうして数歩進んで、イチが動かずに先ほどと同じ位置から動いていないことに気がついた。
「どうしたんだ?」
「俺の案内はここまでだから」
 それは困った。前述した通り、俺はこの橋を渡った先のどこに行けばいいのか見当もつかないのだ。場所を知っているであろうイチがいなくてはこの腹の中身を治すことができない。それに。
 それに、何故かこの紫色のパーカーの男を、置いて行く気になれなかった。「っ、おい!」戻って彼の手を取って引きずれば、焦ったような、怒ったような声で殴られた。しかし声は声。実際に殴られたわけではない。痛くも痒くもなかった。「離せこのクソ松!」「ぐえっ」今度は本当に殴られた。グーで。普通に痛かった。殴られた頭をさすって後ろを見れば、乱れたフードを再び被っている最中のイチがいた。目元は見えないが、その双眸が苛立ちに歪められていることは容易に想像できた。
「何しやがるんだ!」
「いや、だって俺はこの腹を治してくれるところの場所を知らないんだ。お前がいてくれないと困る」
「だから橋を渡れば分かるって言ってんだろ!」
 まるで猫のように威嚇するイチの手を取って再び歩き出せば、観念したのかとぼとぼと彼は俺のされるがままになった。というより、爪を立てても噛み付いても離さない俺に諦めたのだろう。安心しろ、これでもパワーには自信がある。
「あんたは、カラッポの人間なんかじゃないよ」
 橋を中盤まで渡りきったところで、イチがぽつりと言った。
「でもイチ、俺の腹の中身はカラだった」
「そりゃ、ここはそういうところだからね」
 そういうところ? 疑問符を投げかける前に、だから、とイチが被せるように続けた。

「あんたはちゃんと中身があって、脳みそがあって、人格があって、人生がある、ちゃんとした人間なんだよ。中身のない人間なんていねえよ。あんたは、ちゃんと生きてる人間だ」

 とん、と、橋を渡りきる一歩手前で、イチが足を止めた。訝しんで振り向くも、相変わらず目深に被ったフードのせいで表情が見えない。
 しかし、何故だろう。
 この男がーー青年が、泣いている気がしてならなかった。
 だから俺がしたことは、あくまで自然なことだった。自然で、不自然なことなんて何もない。
 だというのに、俺は息を飲んでしまった。
 涙を拭ってやろうと伸ばした手が、フードに当たる。大した力ではないはずなのに、それはあっさりと背中に落ちていった。
 そして晒された、その顔。
 え、という前に、胸を強く押された。咄嗟のことに、反応できない。いやきっと、咄嗟ではなくとも反応できなかったはずだ。
 フードに阻まれていた、その顔。
 飽きるほど見てきた、その相貌。
 それが、まるで死ぬ間際の人間のように、儚げに笑った。

「だから一緒にはいられないよ、カラ松」

 じゃあね、と手を振る彼に必死に手を伸ばす。伸ばさなければ。手を取って、一緒に帰ろうと言ってやらねば。じゃないとあいつは泣いてしまう。寂しがってしまう。そんなことは駄目だ。だって、だって、だって。

 俺は、こいつのお兄ちゃんなんだから。

「一松ッ!!!!!!」

 呼ばれた名前に目を見開いて、そしてまたゆるゆると細めると、一松は一粒だけ涙を零して、じゃあねと手を振った。じゃあね、カラ松兄さん。もうこっちに来ちゃ駄目だよ。




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