嫌な予感はしていた。朝起きた時から体はだるく、重かったし、朝食を食べる気もせずに着替えやらお化粧やらの支度を始めてからもずっと頭痛がしていた。かと言って、少し調子が悪いからと社会人が簡単に仕事を休める筈が無く、今からあの息苦しい満員電車に乗って出勤するのかと憂鬱な気分に浸っていた。ふらつきながらもなんとか支度を終えて玄関に向かったが、その瞬間に眩暈がして思わず壁に手をつく。

ーー・・・だるい。今日ほど酷い日なんて中々無いし、1日くらい休んでも許されるよね?

大人しく部屋で休もうと決心した時、手に持っていたスマートフォンがメールの受信を告げた。仕事関係だろうかと眉間にしわを寄せる。画面をタッチしてメールを開くと、それは遠からずな内容で今日の会議の時間変更を知らせるものだった。しかし、私にとって重要なのはそのメールの送り主。幾つもの顔を持ち、毎日忙しく働いている私の恋人であり上司でもある降谷零さん。一週間ぶりに会議に顔を出すと書いてある。ならば、行くしか無い。仕事場でも、プライベートでもろくに会えないのにこの好機を逃すわけにはいかなかった。


* * *


「降谷さん!」

「苗字、久しぶりだな」


出勤して直ぐ、部署に着く前に久しぶりの、本物の降谷さんを見つけた。スーツ姿の彼が振り返り顔が見えた瞬間にやっぱり無理してでも出勤して良かったと心底思う。ちょっと待ってろと言われ、廊下の端でぼーっと降谷さんの後ろ姿を眺める。私は1度、"安室透"として生活している範囲内に足を踏み入れたことがあった。というか、ポアロに出向いただけだけれど。その時に見た優しさ全開の営業スマイルよりも、今部下に的確な指示を与える真剣な表情が好きだ。


「じゃ、その資料頼んだぞ」

「はい!」


一緒にいた部下と一言二言交わして別れた後、腕を引かれてその場を後にする。そして未使用の札がかかっていてる会議室へと押し込まれ、私が言葉を発する間もなく強く抱きしめられた。


「名前・・・ほんとに久しぶりだ。変わりないか?」

「・・・はい・・・・・・零さんは?」

「あぁ。まぁ強いて言うなら、お前に会えないのが辛いな」


降谷さんの、甘くて優しい声が耳に残る。回された腕が触れる部分が妙に熱くて、頭がクラクラしてしまう。こうやってゆっくり抱き合うのは1ヶ月ぶりくらいだろうか。この温もりが懐かしくて、私の心をじんわりと温めてくれる。それが嬉しくて頬をすり寄せるように降谷さんの首元に顔を埋めた。


「名前・・・?お前、熱くないか?」

「零さんのせいですよきっと・・・わっ」


甘い雰囲気で抱きしめ合っていたのに、突然肩をつかんで引き剥がされ、おでこに手を当てられた。そしてこれ見よがしに大袈裟なため息をつく。朝自分でも思った通り、本当に熱が出てしまったらしい。困ったな、会議までもう時間が無いのに。


「零さん・・・ちょっと遅れて行くって伝えといて貰えますか?」

「何言ってるんだ、今日はもう休め。どうせ無理して来たんだろ?」

「だって、久しぶりに零さんと・・・」

「・・・・・・分かった。1人で帰るのが嫌なら俺の車で少し横になってろ。終わったら直ぐ家まで一緒に行くから」


優しい口調に諭されて、私は受け取った車のキーを手にフラフラと駐車場へ向かった。降谷さんの愛車の中は、やっぱり降谷さんの匂いがして心地良い。後部座席で横になるとあっという間に眠りについてしまい、次に目が覚めた時には視界が降谷さんでいっぱいだった。


* * *


「・・・・・・ん、・・・は・・・ぁ・・・」

「・・・・・・」

「・・・ふ、ぅ・・・・・・ん・・・」

「・・・・・・」


会議を終えて駐車場へ向かい、起きる様子の無い名前をそのまま自宅へ連れてきた。ベッドへ寝かせ額に冷却シートを貼り様子を見ていたが・・・なんだその声は。高熱なのは十分承知しているがタチが悪い。相手が病人だとか、俺には明日から仕事が立て込んでいて休んでいる場合ではないとか。そんなものは忘れた。厚めの唇に誘われるようにベッドに乗り上げ、顔を近付ける。辛そうに眉間にシワを寄せ、浅く呼吸を繰り返す様が情事中を思わせて、常に冷静でいるはずの俺の理性があっという間に飛んだ。


「れ・・・さ・・・・・・、なにして・・・っ」


薄らと目を開いた名前は焦点の合わない瞳で俺を見上げ、力なく俺の肩を押し返す。この細く弱い腕を押さえつけるのなんて、赤子の手をひねるよりも簡単だ。


「何って、看病だろ?人に移した方が早く治るって昔から言うじゃないか」

「でも、困る・・・っ、ん・・・・・・ぅ・・・」


"零さん忙しいのに風邪なんか引いちゃったら・・・"そう心配する声がキスの合間に聞こえてくるが、それならそうで別に構わない。名前に看病して貰えるならな。何度も、何度も逃げる舌を追いかけて執拗に絡めるうちにシャツを掴む名前の手に力が入らなくなっていった。心配になって目を開けると、案の定酸欠状態。


「名前、大丈夫か?」

「・・・病人相手に・・・最低です・・・・・・」

「そんな説得力の無い顔で言われてもな」


拒否している様には全く見えないし。むしろ"もっと"と勘違いしてしまいそうな顔だ。


「まぁ、今日はもうこれ以上しないから。安心して寝てろ」

「当たり前です・・・っ」

「はは、あんまり怒るなよ。明日の朝は何が食べたい?」


甘えた声で"サンドイッチ"と口にする名前に、優しく微笑み返した。




「風邪移しのキス」2016.06.14
蓮歌様、この度はリクエスト企画への参加ありがとうございます。まずは1つ目のリクエストの方をupさせて頂きました。"看病と称してのキス"。降谷さんなら上手く言いくるめてそうだな・・・と想像出来てこの様な仕上がりになりました。少しでも楽しんで読んでいただければ光栄です!もう1つの方は少々お待ち下さい。

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