ウサギの穴
「あなたにはアリスになってもらうから」
そう言ったのは、見ず知らずの女だった。
この暗い中やけに目立つ綺麗な懐中時計を手に持っている。むしろそれしか特徴のないような女が、そう言って微笑んだ。
そもそも、ここはなんなのだろう。
景色は先ほどまでと変わらず、いつもの帰り道にも見えるが、街灯には明かりが灯っていない。
それなのに、目の前の女を中心に、半径三メートルくらいの景色はぼんやりと見えるのだ。月明かりとも違う、ただの灰色の世界は、とても気持ちが悪かった。
「いや、アリスって、なんだよ」
「アリスはアリスだよ。私、とっても退屈なんだよね。チェシャは相変わらず何考えてるかよくわからないし、今の女王は無理難題を押し付けてこないし、マッドハッターだってもう狂ってないし。それに双子もワンパターンだし、まあ、可愛いけどね。他の面々も、いい奴らだけど面白さで計ればたかがしれてるし、なんというかね、ほら、先代のウサギは、アリスってやつを連れてきちゃって面白いことしたみたいだし、私もそれを見習おうと思って」
「は?」
「とりあえず、ねえ、どうすればあなたは私を追い掛けてくれるかな。そうだ、あなたの大切なものを奪っていこう」
大切なもの。それを聞いて、オレはいろいろな物を思い浮かべた。部活だとか野球だとか、それに関わる人間とか家族とか、自分の肩だとか膝だとか。
女はそんなオレをジッと見詰めて溜め息をついた。
「ダメだな。なんか大切な小さな物はないの? 今持ってて、わかりやすいやつ。アクセサリーとか、コインとか、形があって、小さくて、人間じゃないやつ。私も万能じゃないから、記憶とか気持ちは持っていけないしなあ」
「つーか、オマエはなんなんだよ」
「ああ、自己紹介が遅れたね。私は時計ウサギ。先代と違って白くないんだ。黒ウサギなんだけどね。んー、黒いのは私以外にもいるし、わかりにくいよね。そうだ名前。昔使ってた名前を名乗ろう。私の名前は、」
女が名乗った名前をオレは遠い昔に聞いた覚えがあった。
小さな頃の話だが、近くの公園で毎日のように遊んだ少女の名前だ。
オレも秋丸も、その子はその公園の近くに住んでいる子なのだろうと思っていたのだが、結局一度もどこに住んでいる子だかはわからぬまま、いつの間にか遊ばなくなってしまったのだ。
「さて、自己紹介も終わったところで、あなたはどうしたら私を……ああ、今逃げたら追い掛けてきてくれるかな」
「オマエ、あさ子なのか?」
「その答えは、向こうで言うよ。ああ、」
時間だ。と女は言って、時計を胸ポケットにしまう。それから、まあその時間はたった今私が決めたんだけど。とニッコリ笑うと
突然、オレ達の下にあった地面が消えた。そして、重力が己の存在を主張し始める。
「なっ、」
「落ちるスピードは、どうしようか。あなたは追い掛ける側だから私の二分の一がいいね」
落ちながら彼女がそう言うと、急に空気抵抗が増したかのようにオレの落ちるスピードが遅くなった。
「っんだよこれ!」
何にせよ、穴はかなり深そうだ。落ちたらシャレにならないような怪我をするだろう。というか死ぬ。
「あのオンナ助かったらあとでぜってェぶん殴る!」
既に見えなくなった女を睨み付けるように下をみて、オレは叫んだ。
2010/10/15