彼が消えた
「マッドハッターってなんだよ」
榛名は私にそう言った。
マッドハッター。私が間違えて榛名の代わりに呼んだのは、"先代の"帽子屋だ。
人を退屈させない人だった。私をこの牢から連れ出してくれた。
頼んでもないのに私の誕生日じゃない日を毎日毎日祝ってくれた。
本当に勝手で強引で、でも私は彼がいたから、何年もここで生きてこられたのだ。
「なーにやってんの、お前」
この地下牢に入れられて何日経っただろう。もしくは何年経っただろう。白ウサギが死んで、裁判が終わって、榛名に会えなくなってどのくらい経ったのだろう。
光に当たらなすぎて、頭がぼんやりして、日数もわからなくて、死にたいくらいにここにうんざりして、そんな時だった。
「あなただあれ?」
馬鹿みたいに勝手で、馬鹿みたいに自分本位で、馬鹿みたいに明るい、その人があらわれたのは。
「オレは帽子屋。でもお前はマッドハッターって呼べよ」
「なんで?帽子屋さん」
「オレが今決めたからだよ。わかれよそんくらい。つーかお前素直じゃねーな」
「うるさいなあ、わかんないよそんなの。」
「ったく。まあいいや。なあ、お前ここから出ろよ。誕生日いつ?今日じゃないよな?そしたら今日って日を二人でお祝いしようぜ。」
でも。と抵抗した私をマッドハッターは強引にそこから連れ出した。荒れ果てた城の庭に転がってたテーブルを勝手に拝借して、私と彼はその日初めて森でお茶会を開いたのだ。
それが牢から出ることが出来ることになったきっかけだった。女王に見つかった私は、彼女に無理難題を押し付けられ、それが解けたらこれからは牢以外に部屋を貰えることになったのである。
解く出来なかった場合、一生を地下牢で過ごすという条件つきではあったが、結果、私はその難題を解いた。
その難題を解くのにだって、マッドハッターは手を貸してくれたのだ。
「お前って本当バカだよな、目が離せねー。」
そう言って、いつも手を貸してくれて。頭を撫でてくれた。そして問題を解決した後は、いつも二人でその日をお祝いした。誕生日なんて二人とも覚えてなかったから、毎日毎日飽きずにその日あったことを祝った。
あの日、彼が殺されるまで。
マッドハッターは死んだのだ。女王に殺された。剣で胸を貫かれて、なのに笑って死んで行った。私の目の前で、死ぬ間際に女王の頭を優しく撫でて、しょうがねーなとだけ呟いて。
だから私は女王を封印した。復讐なんて可愛い感情で封印したわけではなくて、私は、マッドハッターに最後に撫でられた女王が
「あさ子?」
榛名のその声でハッとした。今はマッドハッターのことはどうでもいいのだ。とにかく榛名を助けなければ。
「あ、ごめん榛名。今出すから」
そう言って鍵の束から、その牢の鍵を探す。一際大きく、複雑な鍵がそれだった。それを鍵穴につっこみ、左に回せば鍵が開く音がして、軽く引けば扉がゆっくりと開く。
そしてほとんど同時に、地下牢のドアも開いた。榛名が牢の中から出てきて、入ってきた人を睨み付ける。私は振り向けなかった。怖いのだ。
あの日まであの人が怖くなかったのは、マッドハッターが私の隣にいたからで、今はもう彼はいない。
私だけのものだった彼が、存在としてだけでなく、私の隣から消えたのだ。だから私は、自分が怖い。嫉妬に狂ってしまいそうで、怖い。
「ったく、ビビってンじゃねーよ。」
不意に、頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でられ、私は顔を上げる。
撫でた張本人である榛名の様子をうかがってみれば、彼は女王からプレッシャーを感じているらしく、冷や汗をかいている。
それなのに、榛名はこんな風に私に気を使ってくれているのだ。私が榛名を助けに来たというのに。
私はなんて情けないんだろう。
「榛名、まだ影はあるの?」
「多分な。影とかよくわかんねーけど」
「んじゃあ、私ここで穴開けちゃうから、榛名は先に向こうに帰って。」
「なんでそうなるんだよ」
「私は榛名を助ける為に来たんだよ。だから」
「オレに本当に帰ってほしいなら、お前は宣言なんてしねーで勝手に穴に落とすだろ。」
なんで1ヶ月しか行動を共にしていないのに、榛名はこんなに私をわかっているのだろう。図星をつかれてヒヤッとした。
黙ってみていた女王がこちらに歩み寄る。榛名の身体が、私の身体と同じように強張ったのがわかった。
「あなたは、また私の邪魔をする気?」
「ええ、邪魔しますとも。榛名は絶対渡しません。」
「鬱陶しい女ね」
「っていうか、女王様はなんで榛名が欲しいんですか?理由を説明してくださいよ」
「好きだからって言ったらどうする?あなたがあの帽子屋に抱いていたのと同じ感情だと言ったら」
そう言われた瞬間、言葉が途切れてしまった。心臓が潰されたんじゃないかと思うほど、胸が苦しくなった。
「あなたの帽子屋は生きてる。彼を返してあげるのと、二人で元の世界に戻るの、あなたはどっちを選ぶのかしら」
2011/01/08