それなりに甘く


何もない空間を蹴り上げた脚。彼女のつま先にかろうじ て引っかかっていた上履きは、その勢いで、変な回転を しながらも、緩やかな弧を描き前方にいる彼に向かって 飛んでいく。

「あっお、みっね、くーん? ちょっといいかし らー?」

背中にヒットした上履きに、立ち止まり振り向いた彼。 すかさず、距離を縮めた彼女は、なにやらイライラして いるようだ。

もちろん、笑顔で怒るなんてことを彼女はしない。そん な器用な人間ではないというか、不器用な人間な訳では ないが、つまるところ、面倒な人間ではないということ だ。普通に、鈍い部類に入るであろう青峰にも、彼女の 怒りはストレートに通じる。

真っ直ぐストレート。しかし、かといって、彼女はあま り形式にこだわりすぎたりはしない柔軟性もある。でな ければ、彼のような人間と付き合ったりはしないだろ う。しかし、かといって、なんでも許せるほど、できた 人間でもなく。

だから、彼女は怒っていた。先週付き合い始めた、自分 の彼氏に対して。



「いくらなんでもいきなり上履きぶつけてくんのはねー だろ。つーかオレなんかした?」

「したっつの。アンタ、昨日家に来たとき、私の弟の ジュース勝手に飲んだでしょ? めっちゃ面倒なことに なったんだから」

夏場でもいくらか涼しい窓のない階段の影。そこで二人 は会話をしていた。

端から聞いても些細なことであるわけなのだが、彼女の 弟は、結構本気で青峰の事を嫌っているので、これは重 大なことだった。

彼に告白のようなものをされた彼女に対して、あのガン グロと付き合うくらいなら家から出て行けとまで言いっ た弟に、めちゃくちゃ頭を下げ、様々な制約を交わし、 その末やっとのことで彼女は彼と付き合うことが出来た のだ。

その制約の中には青峰を家に上げないというものもあ り、その日はどうしてもといって聞かなかった青峰を、 彼女は本当に仕方なく、弟が友達の家に泊まりに行って いるのもあり、細心の注意を払って家にあげたわけなの だが、彼はそこで、有り得ないことをやらかしてくれた わけだ。

「なんで勝手に飲むわけ。喉乾いたなら言ってくれれば いいのに」

「オマエの弟って妙に細かいよな。思春期だからか?」

「アンタ相手だからだよ」

ひんやりと冷たい壁に寄りかかり、彼女は、ふー、とた め息にも似た息を吐いた。ちなみに、階段に座る彼は、 そんなことは全く気にもとめていない様子である。

彼女だって、弟がなんの理由もなく彼を毛嫌いしている のであれば、なにを言われても勝手に彼と付き合ってい ただろう。

しかし、弟にも理由があるのだ。

それも、彼の言うとおり思春期特有の。

「そもそも、アンタが初めてうちにきたとき、グラビア 雑誌なんか弟の部屋に忘れんのがいけないんじゃん」

「あー、アレな。なくしたかと思って焦ったわ」

「弟は身に覚えのない雑誌でお母さん達に誤解されるど ころか、一週間なにも言われずニヤニヤと見られて、挙 げ句お母さんもバカだから、これ好きなんでしょ? と か、新しいの買ってくるし、ああ、よく考えると皆バカ ばっかだ!」

ちなみに誤解は未だに解けていない。誤解さえとけれ ば、まだ彼女の弟の青峰に対する風当たりも、少しはマ シになるのかも知れないが、そもそも、その時は、彼氏 でもない男の子を家に勝手にあげたなんてことを親にバ ラしたくなくて、彼女も黙秘してしまったのである。

今となっては、その時の判断力の無さを彼女は悔やんで いるわけだが。

「とにかく、今後こういうことがあったら、別れるから ね」

「は? なんでだよ。ヤに決まってんじゃん」

「先にいっとくけど、別に弟の機嫌とりたいってだけ じゃないからね。最低限の遠慮は知りなさいってこと。 大体なんでいつも家なわけ。アンタんとこでもいいで しょーが」

「え、いいの?」

そこで彼女ははっとする。最初に青峰の家に上がるのを 嫌がったのは、まだ付き合う前の話だが、彼女自身なの である。

付き合ってもいないのに、もし間違いでも起きたらと 思っての事だった訳なのだが、それはある意味付き合っ てからの方が気をつけた方がいいことでもあった。

「じゃ、今日はオレんちだな」

「や、待って、誰もそうは」

「は? 言ったじゃねーか。嘘はいけねーなぁ?」

「嘘なんて言ってないでしょーが」

「こないだ、桃の木の下で帽子直すようなことすんなっ て言ったのは誰だったよ?」

「アホ峰の癖にそんなこと憶えてやがって……わかった わよ、いけばいいんでしょ、いーけーば。面倒臭いな、 ったく」

ツンデレとかではなく、本気で心底嫌そうにそう言っ て、彼女は溜め息をついた。

彼がここまで言ってきたら、もうどうにもならないこと を知っているのだ。正直にいえば、自分に対して、こう やって押してきてくれること自体は奥手な彼女にとって 嬉しいことでもあった。

しかし、家にいくのについては別だ。必ずしもそういう 展開にはならないかも知れないが、今までにも青峰は、 未遂までなら散々やらかしてくれているらしく、前回ま ではなんとかやり過ごしてきた彼女も今回ばかりは、彼 女も自分の貞操を守り通せそうにない。

「はー、とりあえずそろそろ授業始まるし、戻ろっか」

彼女がそう言って壁から離れ、教室に向かうべく彼に背 を向けると、階段に座っていた彼も漸く腰をあげる。

しかし、そのまま一緒に教室に戻るのかと言えば違うら しく、後ろから抱き締めるように彼女を止めた。

「ちょい、まて」

「なに?」

「オマエからキスしてくれたら、今日はうちこなくても いいけど」

「はあ?」

「めちゃくちゃイヤそーだから妥協案出してやってん だっつーの。選べよ」

耳元で囁くように言葉を紡ぐ彼に、彼女の心臓は飛び上 がりそうになる。

本当に優しい男なら、ここで頬にでもキスすれば許して くれるだろう。しかし、もちろん青峰はそんな男ではな い。

「言うまでもねーだろうけど。もちろん口な」

「わかってるわよ。そんなに言うならしてやるから、 ちょっと離しなさい」

「そのまま振り向きゃキス出来んだろ。振り向けよ」

自分の顔が赤いことも、それに彼が気付いていること も、彼女は理解していた。

たかがキス。それ一つで自分の貞操が守れるのだ。しか し、彼女にとってはされどキスである。

別に、彼女には男性経験が青峰以外にないわけでもな かったが、こんなことを求めてきたのは青峰が初めて で、彼女が今までつきあった男は言うなればことごとく 草食系だったのだ。

だから、もしこれでキスをするなら、それは初めての自 分からのキスになる。

「わかった。わかったから、じゃ、目閉じて」

真っ赤な顔を青峰に晒しながら、彼女は言った。心臓は 本当に五月蝿いなんてもんじゃないくらいで、これだっ て彼にバレているんだろうなんて思ったりして、彼女は 顔から火が出るんじゃないかという気持ちである。

珍しく青峰が、彼女のいうことに従い、瞳を閉じた。そ して、彼女の脳内時計において、数十分にも及ぶ躊躇い の後、決死の覚悟で唇を重ねると、青峰は普通にその唇 を舌でこじ開け、口内を犯す。

しばらくすると鳴り響くチャイムの音。それまでの間、 諦め半分に自由にされていた彼女も、さすがに慌てて彼 の胸板を叩く。そこで漸く、青峰は不愉快そうに唇を離 した。

「あのねえ、ここまで許してあげたのに、なんなのその 顔」

「ここまでして、続きはお預けとか、やっぱねえわ。今 日はうち来い」

「話が違う! 流石にそれはきけない! 今日部活でるっ ていうなら考えてもいいけど、そうじゃないなら絶対イ ヤ」

「しほ子にそこまで言われると何故か絶対部活行きたく なくなるんだよな。じゃあ今日もオマエんち行くわ」

そう言った彼に、彼女の言うことくらい少しは聞けよ。 と思いつつも、その思い通りにならないところが好きな んだよなあ、と自分自身に本日何度目かもわからない溜 め息をつく彼女。

青峰は、そんな彼女の気も知らず、さっさと屋上に向け て歩を進める。

「で、あんたは授業もサボるわけ」

「途中から行くのメンドーだろ。じゃ、また後でな」

「はいはい、また後で、ね」

その後でが、そこまで嫌なわけではないのが、彼女に とってはまた問題であるわけなのだが、それは別とし て。

彼女は、彼が居なくなった空間で、さて、これからどう しようか、と、とりあえず考えを巡らせた。そして、決 定事項を確認するかのように、一人呟く。

そもそも、彼女と彼の付き合いというのは、彼と恋人同 士という関係で言えば、まだ一週間しか経ってないとは いえ。友達として過ごした時間を入れれば、もう半年近 くもなるわけで。

「とりあえず、今日は授業サボって、今から帰宅しよ う。メールも全部無視しよう」

彼女も、自分の身を守るためなら強硬手段も辞さないの で、結果的には彼の言いなりにならないことも可能なの である。

それくらいできなければ、彼の彼女をつとめるなんて不 可能だとも言える。

「で、まあ、アイツのうちの前で待っててやりますか ね」

しかしまあ、可能だからといって、決行するかといえ ば、それはまた別の話になるのだが。




2012/09/01
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