ツイラクエン(死ネタ)
「辛い」
行為のあと、裸のまま隣に寝ている彼女が呟いたのは、所謂、弱音というやつで、何に対して言ったのかはわからなかったが、独り言に見せかけてオレに聞かせているのは間違いのないことだった。
しかし、その呟きに、オレは反応しなかった。普段あまり弱音を吐かない彼女なのに、彼女の言葉を寝たふりをして無視した。
それは、彼女の弱音自体はあまりきかなくとも、聞かせる独り言はよくあることだったからだ。そして、大抵、それらに返事をすると面倒なことになった。
その後、そのまま本当に寝てしまい、翌朝起きた時には彼女は隣におらず、代わりに、携帯には数十件の着信が残っていた。
電話の相手は、ここ数十分の間で何回もかけてきているようで、その異常な着信数に、オレは首を傾げながら、リダイヤルしようとするが、その前に、その相手から再度着信が入った。
緊張しながら電話にでる。
「もしもし? どうしたんスか?」
「どうしたんすか、じゃないわ。まあ、こんな早朝だし、今まで寝ていたのは許すけど、いい、冷静に聞いてね」
壁の時計を見てみれば、時刻は午前五時半過ぎをさしていた。
確かに、早朝だ。寝すぎてしまったかと思っていたのだが、そうではなかったようだ。
「妹が、しほ子が、飛び降りたの」
「は? どこから」
電話の相手の妹というのは、つまり。昨晩オレと一緒にいた彼女の事である。
冗談や聞き間違いかと思ったが、声のトーンでそうではないことは判断できた。
「近所のマンションから。さっき、病院から連絡が来て、今、病院の前からかけてるの。でも、あの子、昨日の夜は黄瀬くんのところに居たハズでしょう?」
「ええ、まあ、そうなんスけど」
一瞬、隣に寝ていた彼女の弱音を思い出す。
もしや、あの時、反応をしてやっていれば、自殺など図らなかったのだろうか。
「あれ? っていうか、病院ッスか? 警察じゃなく」
「それが、生きてるのよ。かろうじてなんてもんじゃなく、ちゃんと。あの子、運がいいから。まあ、完全に無事なわけではないんだけどね。脚は相当酷いみたいだし。あ、もちろん警察も来てたけど、だからなのか、連絡は病院からだったわ」
「え? は? 生きてるンスか?」
「死んでたら、黄瀬くんになんて電話出来る状態じゃないわよ。でも、なんにせよ、緊急事態なのには変わりないんだから、とにかく早く来てあげて」
その言葉の後、オレが何か言う暇もなく、通話が切れた。
同時に緊張の糸も切れ、彼女が生きているという安心感のためか、自然にため息がでた。
そして、病院へ行くために、ベッドを降りて着替えながら、自室のテーブルにふと目を向けてみれば、昨日まで無かった目新しいものが目に入った。
それは手紙のようで、多分、彼女が死んでいれば、遺書になるはずのものだったのだろう。結果的に彼女は生きているわけで、読んでも良いものか少し悩んだが、オレはそれを読むことにした。
『虚しくて辛いから死にます。ごめん』
遺書になるはずだったそれには、そう一言書いてあるだけだった。
なるほど。と、オレは一人納得する。彼女は、わからないフリをしていただけだったらしい。
オレはオレで、彼女が辛い理由に気付かぬフリをしていて、彼女は、彼女で、昨日呟くまで、虚しい理由に気付かないフリをしていたのだろう。
その遺書を見て、オレはそれを悟ったのだった。
しかし、それでも、悪いことをしたと思えない自分がいる。
仕方ないことだと、きっと、彼女に直接問い詰められても、そう言ってしまうだろう。
仕方ないのだ。オレが彼女ではなく、彼女のお姉さんが好きだということは、変えようのない事実なのだから。
「思ったより早く来てくれたね」
病院に着くなり、エントランスで待っていてくれたらしいお姉さんにそう声を掛けられ、不意打ちにびっくりして心臓が跳ねた。
「こっち」
そう言って、先を歩き始めた彼女は、多分かなり怒っているのだろう。顔を一度も合わせてくれようとない。
「黄瀬くん。なんであの子のこと見ててくれなかったの」
眠かったから先に寝てしまった。なんて返事を求めているわけではないことはわかっていた。
かと言って、どう答えることが、彼女の最良なのかはわからない。
辛うじて、一言、すみません。と謝れたが、それ以外のことは言えなかった。
「無事だったし、いいんだけど、なんなの? 喧嘩でもした?」
全くいいなんて思っていない癖に、彼女はそう言った。
「いや、喧嘩というか」
「別れ話とか?」
「それは、ちょっと近いッスね」
オレがそう返すと、彼女はくるりと体の向きを変え、こちらに向き合う。そして、あからさまに忌々しげに言葉を吐き出した。
「あのねえ、遠回しな話が聞きたいんじゃないの。その言い方、というか、その態度。あの子がなんでこんな真似したかわかってるんでしょ? 私には理由はわからないし、特に知りたいとも思わないわ。二人の話だから。でもね、私には話さなくてもいいけど、あの子と会っても尚、とぼけるつもりなら、」
つもりなら、で、彼女は言葉を止めた。多分、どうするかを決めていなかったのだろう。
彼女はこんなんでも気が動転しているようで、今は勢いだけで話をしているに違いない。
「とぼけるつもりはないッス。でも、多分、元には戻れないと思います」
「別れるってこと? ど……」
話さなくてもいいと自分で言ったからか、彼女は問いかけの最初の一文字だけ吐き出し、あとは飲み込んだ。
「別に、話したくないわけじゃないんで、訊いてもらっても構わないッスよ」
「じゃあ、なんで? なんでそんな話になってるの? こないだデートしてた時だって、昨日のお泊りにしたって、行く前はあの子楽しそうにしてたし、そんな不和が生じてるようには思えないんだけど。いつもと違うようには思えない」
「そもそも、いつもおかしかったんスよ。だからそう見えても仕方ないというか」
「? どういうこと?」
「オレ、お姉さんのことが好きだったんスよね。いや、だったじゃなく、好きなんです。で、それを隠してたつもりが、彼女にはバレてて、この有り様ッスよ」
気性の荒い女性なら、ここで平手が飛んでくるだろうし、そうでなくとも、罵倒されてもおかしくはない状態だった。
寧ろ、その方が楽だった。
それでも、彼女は決して手を出さない。口汚く罵ったりしない。
冷静なんじゃない。彼女はオレの一番傷付く選択肢を探しているのだろう。
そういうところは、姉妹でそっくりだ。
「趣味、悪いね」
「まあ」
「うん、あのね。黄瀬くんがあの子の彼氏じゃなくても、私黄瀬くんとは付き合えない。好きになれないから」
平気で嘘をつく人だ。そう思った。
好きになれないのは本当だとしても、付き合えないのは少なくとも嘘だった。
彼女は基本的にくるもの拒まずで、だから、きっと、こう言った後ですら、オレがキチンと別れてから告白すれば付き合ってくれるに決まっている。
だからこそ、オレはそれを指摘せずに話を終わらせた。
嘘だとわかっていても、傷付いたというのも、勿論ある。
彼女が、オレがその嘘を間に受けたって構わないというのは確かなのだから。
そして、とりあえずは引いたふりをしておきたかった。このまま諦めてしまわない為にも。
「そうですか。残念ッス」
「うん、だからごめんね。で、ええと、どうする? あの」
「会ってきますよ。あ、でもまだ起きてないんスか?」
「まだ起きてないかな。まあ、別れ話を起きてすぐするのはどうかと思うし、待つの面倒なら帰る?」
「呼んだのお姉さんじゃないッスか。って言っても確かにそうッスねえ」
「まさかそんな事情だとは思わなかったのよ。というか、別れ話って否定しないのね」
「まあ、ここまでされちゃ、付き合ったままってわけにはいかないッスよ。さっきも言ったじゃないッスか。元には戻れないって」
そう言ったオレに、彼女は、逆だと思うのだけど。と、小さな声で意味深に呟くと、それをごまかすように、わざとらしい溜息をつく。
そして、それから一言。
「はー、まあ、とりあえずじゃ、起きるの待ってたら? まだ、彼氏なんだし」
「じゃあ、そうさせてもらうッスね」
「部屋までは送る」
それでも、似ているとはいえ、お姉さんは、まあ、そんな人だった。それだけで話を終わらせてくれて、後腐れなく、あっさりとした人だった。
でも、そう。
あっさりと自殺を選んだ彼女は、決してあっさりとした性格なんてしていなかったのである。
「涼ちゃん、来てくれてたんだ」
病室に案内されてから、二時間ほど経った頃、ようやく彼女が起きた。
「ナースコールした方がいいんだろうけど、まあいいや。あのさ、涼ちゃん。話があったの」
「良くないッスよ。話はちゃんとみてもらってからにしたほうがいいでしょ」
「その間に涼ちゃん逃げるでしょ? そしたら私また死ぬからね」
「逃げないから、先に検査だけ受けてくれないッスか? 何か異常があったらどうするんスか」
「涼ちゃんがそこまで言うなら仕方ないな。受けてあげるよ。その代わり、約束破ったら、今度は失敗しないからね」
わざと失敗したみたいな、そんな言い方だった。
それだけで少し逃げたくなった。
そもそも、オレが彼女と付き合っているのは、最初こそは、姉妹なだけあって、彼女と、お姉さんが似ているからであったわけで、その時点では、オレも彼女を好きになることができるとは思っていたのだ。
でも、無理だった。
それどころか、彼女からは逃げたくなる一方で、でも、彼女は絶対にオレを逃がしてはくれなかった。
今日のように自殺すると脅してくるわけではなく。よくはわからないが、彼女は多分、温く、心地の良い関係というのを熟知していたのだと思う。手放すには惜しいような、そんな関係を継続させられていた。
そして、それにまんまと嵌められ続け、今日に至ってしまったわけだ。
自業自得といえば自業自得で、オレは誰かに文句を言うことすら出来ない。
ならばいっそ、吐き出して、誰かに殴って貰った方が楽になるだろうか。
例えば、青峰っちとか。
「涼ちゃん? 聞いてる?」
翌日の病室で、強く、きつめの口調で彼女が言った。
ハッとして、オレは返事をする。
「あ、ああ、なんだっけ?」
「だからー、お姉にバッサリフられてくれたんでしょ? って」
「あー、やっぱりそういう思惑があったんスね」
結局、彼女は、起きてからの検査についてはなんの問題も無く、ただ、お姉さんから聞いたとおり、脚の骨は、わりとヤバい感じに折れていたようで、ある程度治るまでは入院することになった。
しかし、そんな折れ方をしていたというのに、起きてすぐ痛がることなくアレだけペラペラ喋れた彼女は、本気で化け物じゃないかとも思ったのだが、それはさておき。
彼女の脚はリハビリしても、歩けるようになるかはわからないというくらいにはヤバいらしいが、彼女に落ち込んだ様子は全く無く、寧ろ一昨日の夜よりは元気なようだった。
「まあ、死ぬかもなあ、と思ってたけど、あの高さで下に植え込みがあれば、無風だし、いけるかなーみたいなね。悪いのは涼ちゃんなんだから、脚治らなかったら一生面倒見てね」
「しほ子っちって、軽くメンヘラッスよね」
「涼ちゃんと出会ってからね。それより前は、普通にお付き合い出来てたよ」
「オレのせいみたいに言われるのは心外なんスけど」
「涼ちゃんのせいだよ。間違いなく」
しかし、彼女のお陰でサッパリというか、キッパリフられることが出来たのは、一日経った今日思えば、いいことだったような気もする。
引きずり続けて、愛情よりもなにより、重さばかりになっていた気持ちから、解放されたのだから。
まあ、諦めたわけではないが。
あの人を騙しているような気持ちではなくなったのは、いいことだ。
「で、まあ、話があるんスけど」
「別れないよ」
言う前に釘を刺された。しかしここで引くわけにもいかないので、口を開きかけるが、その前に彼女がペラペラとしゃべり出す。
「さっきも言った通り、私、わざと失敗したんだよ、自殺。まあ、失敗しなくてもいいかなとも思ってたけどね。これで涼ちゃんを解放出来るかもって。だからわざと、三階なんて微妙な階から、無風の日に、下の植え込み目掛けて落ちたわけだけど、ああ、これもさっき言ったか。とにかく、でもさ。自殺の失敗が百パー成功するなんて思ってなかったし、だから私、自分で賭けてたの。もし、生き残れたら、涼ちゃんには悪いけど、私が死ぬまでは、私から離れるのは諦めてもらおうって」
「それ、結局自殺未遂の前と条件変わってないじゃないスか」
「それもそうだね。でもまあ、それで成功しちゃったわけだからさ。そんなに解放されたいなら、私を殺しなよ、涼ちゃん。私は幸せに死ねるし、涼ちゃんは解放される。良いことづくしだよ」
「犯罪者にはなりたくないんスけど」
「あ、それとね。別に、会いにこなくても死にゃしないよ。別れるって言うのも、死ぬなんて言って引き止めるつもりはない。無理に別れるなら別れればいいし、会いに来たくなきゃ、都合よく私の足はこんなんだから、会いにこなければいい。でも、解放はしてあげない」
「どういう意味ッスか」
「涼ちゃんが私を忘れた頃に、手紙出してあげるよ。見計らってね。あってもいないのに、なんでこんなにわかるんだ。って思えるくらい、絶妙なタイミングでね。あ、もちろん引っ越したりしても無駄だからね」
できるわけないようにも思えたが、彼女ならやりかねない。というか、間違いなくやる。
そして、オレが彼女に縛られている限りは、本当に手紙の一通もこないだろう。怖いくらいに。心配してしまうくらいに。
「フらない方が、気持ちは楽だと思うよ。それで、隙を見て私を殺せば良いだけだし」
「だからそれは」
「愛の言葉と間違えるくらい甘く、死ねって囁いてくれたら、きっと自殺してあげちゃうよ。まあ、今の涼ちゃんじゃ無理だろうけど」
答えは保留でいいから、無視するか別れるか継続するか、明後日聴かせて。と、彼女は笑った。
そして、オレが保留にされるまでもなく返事を言ってやれば、納得したように、頷く。
「明後日で良いって言ったのに。せっかちさんだよね。涼ちゃんって」
オレは、そう言われてすぐに病室を出たので、その後、彼女がどうしたのかは知らない。
つまり、彼女が、折れた足で、どうやって病院を抜け出し、本気の飛び降り自殺を計ったかなど、知る由も無かった。
そして、翌日、オレが彼女を忘れる前に届いた手紙にはこう書かれていた。
『満たされて幸せだから死にます。ありがとう』
裸の彼女が、オレの隣で独り言を言うことは、もう無い。
2012/10/06