愛と嘘と不幸の話
ベッドから降りて、鞄の中で震えている携帯を開けば、画面には新着メール一通と表示されていた。
「今日は旦那帰ってくるみたいだから、そろそろ帰るね」
「おー」
開いたメールに愛がないことは一目瞭然で、私はそれを冷めた気持ちで眺めた。どうやら旦那は今日も残業だかなんだかで帰ってこないらしい。
それでも私が朝までこのベッドの上で過ごさないのは、バレないようにと気をつけているわけではなく、榛名くんへの牽制と、私の最後の意地だった。
「千紗子さん。あの人が帰ってくるってウソでしょ」
ベッドに寝ころんだまま、榛名が言った。
目線をそちらにやると、榛名が真顔で私を見ている。高校時代と変わらない。そんな顔をしていた。
榛名とは高校時代に知り合った。年は私達より一つ下で、私と旦那が所属していた野球部と彼の学校の野球部が練習試合をしたことで知り合い、それなりに仲良くなり、私と旦那の結婚式にまで呼んだりもした。この頃までは純粋な友人関係を築けていたと思う。
「なんでそう思うの?」
出会った頃を思い出しながら私は尋ねる。
榛名は昔から妙に勘の鋭い子だった。鈍感過ぎて腹が立つこともあるのに、気付かれたくないことほど気付く。そんなイヤな奴だったのだ。どうやらそれは今も変わらないらしい。
仰向けに寝ていた榛名は、腹筋でもするかのように、勢いよく起き上がると、ベッドから降りた。
いつの間にか下だけは衣服を着用していたらしいが、上半身は裸のままで、彼との関係を思えば今更ではあるのだが、私は微妙に目のやり場に困り、携帯を見るふりをして思わず目線を身体ごと彼から背けた。
「あの人。いつから帰って来てないンすか」
「いつからって、昨日は私が寝た後には一応帰ってきたみたいだし、」
「その前は?」
そう訊きながら、榛名は後ろから私を抱き締めて、私の携帯を覗き込み、真っ暗になっている画面に、私の耳元でため息を吐く。嘘ばかりの私に呆れているのかもしれない。
「……その、前は、」
「昨日帰って来たってのも嘘ですか」
「本人は帰って来たって言ってたもの。メールで」
旦那は私と同じで詰めが甘いから、すぐにそれが嘘だなんてわかったけれど。
「この前、あの人が綺麗な女のヒトと歩いてンの見かけましたよ」
「……榛名くん、やめて」
「オレはあんな人より千紗子さんの方が綺麗だと思いますけど、」
「そんなの全然嬉しくないから、お願い」
「浮気どころか、あの人は多分あのオンナに本気ですよ。たかそーなお店で、指輪、一緒に選んでましたし」
耳元で囁き続けられる残酷な言葉に、私は耳を塞ぐことも出来なかった。私の腕を抑え込むように抱き締めた榛名が、耳を塞ぐことを許してくれなかった。
「あんたはずっと、同じことしてるからお互い様、なんて思おうとしてたかもしれませんけど、あの人とあんたは全然違いますからね」
私は、確かに榛名に本気じゃない。彼がそう言っているということは、その事に榛名も気付いていて、敢えて利用されてくれていたということだ。
抱き締める腕の力が、だんだん強くなっている気がする。でも、痛くは、ない。
「いい加減、オレにして下さい」
私の肩に額を乗せて、榛名が懇願するように言った。逃れられないくらい強く私を抱き締める腕は、それでも彼らしく優しい。
「……私、ちゃんと今度旦那と話すから。その人と別れてくれるのが一番だけど、駄目なら駄目でけじめつけようと思う。榛名くんありがとね。中途半端に付き合わせてごめんね。その後、榛名くんのことは考えてみるから。」
私がそれを言った瞬間の榛名の表情はわからなかったけれど、多分嬉しそうな顔はしていない。それに、榛名は、私の幸せを本当の意味では願っていないだろう。それでも私は今度はこれを嘘にしてはいけないと思った。
なんてことはない、彼を好きになる日がこない事を願っている私が一番最低なのだ。つまり、私も彼の幸せなんて、ちっとも祈ってないのである。そして多分、旦那の幸せも。
2010/10/05
榛名はイチローみたいに普通に社会人になってからプロになればいいと思います。つまりこの榛名は社会人です。