私は二度死んだ
「オイ」
「うわぁっ!」
後ろから声を掛けられ、驚いて振り向くと、私の反応に呆れたような顔をした榛名が立っていた。
「……ふう、榛名か。なんの用?」
「いや、ンなとこで何見てんだよ。そろそろ昼休み終わんぞ」
「それがさぁ、見てみてよあそこ。うちのクラスの松村が、高橋にコクってんの」
「高橋?」
「高橋センセーだよ。高橋センセー。」
「は?高橋って数学のかよ。色々ヤバいんじゃねーの?」
榛名はそう言い、私の見ている先を覗き込み、二人の姿を確認した。そして二人から見えないようにひっこむと、お前、誰かに言いつけるわけ?と私に訊ねてきた。
「なんで?」
「いや、松村結構マジっぽいし、そういうの言いつけンのって、なんか性格ワリーっつーか」
「言いつけないよ」
「そうか。じゃあなんで覗いてンだよ。それはそれで悪趣味じゃねーの?」
「面白いから見てんの。高橋は一体、なんて言って松村フるのかなあ。ってね。」
「なんでフられる前提なんだよ。常識的に考えりゃそうかもしんねーけどちょっと酷くねえ?」
怒ったようにそう言った榛名に、私は思わず小さく笑ってしまった。なんで、あまり話もしないクラスメートのことでこんな風に言えるのだろう。榛名にとっては、こんなこと他人ごとでしかないはずじゃないか。
「じゃあ、榛名は高橋がOKすると思うのね。」
「そうは言わねーけど」
「へえ、自信ないんだ?こんなのが投手なんて、この学校の野球部もたかが知れてるわね。」
「ンだとテメー。自信あるっつの。松村はフられねえ。」
わかりやすい挑発に榛名は乗った。本当に彼はお人好しなバカだ。私はそんな彼に、じゃあ賭けようか。とニヤリと笑う。
「いいぜ。何賭けンだよ」
「負けた方は、一週間勝った方にこき使われる。それでいいでしょ?」
「おう。」
榛名は、何故か自分が負けるはずがないというような顔をしている。途端に、私の自信が消えていった。
二人は、付き合ってしまうかもしれない。そう思ったが最後、私の気分はどんどん落ちていく。私はただ信じたかっただけなのだ。高橋が松村をフってくれることを。
でも、私は誰よりも、高橋が最低野郎だということを知っていた。
そして放課後。私は榛名の部活が終わるのを待たされていた。高橋が松村と付き合ってしまったのである。
「サイアクだわ。」
「よし、ちゃんと待ってたな。ほら、帰んぞ」
榛名は私に荷物を持たせるわけでもなく、そう声を掛けると歩き出した。私は仕方なしにそれに着いていく。
「暗いの。オレに負けたからじゃねーよな」
不意に、前を歩く榛名が言った。下を向いて歩いていた私は、びっくりして顔を上げる。
「あ、うん」
「高橋ンこと好きだったとかか?」
「ん、そう」
「じゃ、松村がフられるつったの、お前が前にフられたからか」
普通は、そんな傷口に塩を擦り込むようなこと言わない。他人を思いやる気持ちはある癖にデリカシーないよなあ。と、私はため息をつく。
「フられてないよ」
「は?じゃあなんだよ。松村がフられるっつーのは単なる希望だったわけ?」
「違くて。フられてないの」
「意味わかんねーんだけど」
榛名は立ち止まって振り返った。私は気まずくなって、また俯いた。
「付き合ってたの、」
「は?」
「付き合ってたのよ。高橋と。だからフってくれると思ったの。」
「……」
黙ったまま何も言わない榛名の様子を、少し顔を上げて窺えば、何故か彼は酷い顔をしていた。怒ったような、今にも泣きそうな、そんな顔をしていた。
「榛名?」
「なんだよそれ。」
「いや、でもまあ、なんとなくわかってたし。最近冷たかったし、そもそも、あの人はあんまり、私のことは」
「そうじゃねえだろ!なんで怒らねーわけ?あん時飛び出して、あの野郎ぶん殴ってやっても良かったろ?せめて、誰かに告げ口したって、バチなんか───」
「そんなこと出来るわけないでしょ!」
自分に、こんなヒステリックな声を出せるとは思ってなかった。そして榛名がこんな風に怒ってくれるなんて思わなかった。
頬に涙が伝う。自分が泣くなんて、それこそ思っていなかった。
「……ンでだよ、なんでオマエが我慢しなきゃなんねーわけ?意味わかんねー。なんでお前は怒んねえんだよ。」
「……だって、だって凄く好きなんだから仕方ないじゃない。今でも好きなんだもん。殴るなんて出来ないし、告げ口なんてしたらあの人いなくなっちゃうし。それに松村だって」
榛名はまた何か言おうと口を開きかけたが、結局何も言わずに口を閉じて、自分の頭をがしゃがしゃと乱暴に掻いた。
「オマエがそういうなら、オレはなんもしねーし。誰にもなにも言わねえ。」
「うん」
「高橋のこと、スゲー許せねーけど、なんもしねー。」
「ん、ありがとう」
「だけどオマエは、オレがいる内に泣いとけ」
先ほどの涙をようやく止めたところだというのに、榛名は言った。
「誰かに裏切られたりとかしたときっつーのは、家で一人になっても自分がワリー気がして全然泣けねーもんなんだよ。だから縋れるヤツがいる内に泣いとけ。」
「なんでそんな」
「いいから泣けっつの!オマエは悪くねーンだから泣いてもいいんだよ!」
榛名は照れ隠しみたいにそう叫び、私の頭を強引に自分の胸に抱き寄せた。安心感によってなのか、途端に涙が勝手に溢れてきた。
すっかり日が暮れた頃、私は漸く泣き止み、榛名から離れた。今更ながら情けなさと羞恥心が込み上げてきて、榛名の顔がなんとなくまともに見られない。
「あの、榛名ありがとう。ごめんね」
「ったく、ありがとうだけでいいから謝んなよ。お前は悪くないんだっつってんだろ」
「うん。ありがとう」
「……とりあえず、今日は暗くなっちまったし、送ってやっから、明日からちゃんとこき使われろよ」
いつもの調子でそう言った榛名に、私は同じくいつもの調子で、はいはい。と、返事をして歩き出す。
なんというか、結論から言わせてもらえば、高橋以上の男なんて、いくらでもいるということなのだろう。
もちろん、高橋のことをふっきることが出来たわけではないけれど、私は、自分の隣を歩く、デリカシーの無い男にちらりと視線をやり、そう思うことにした。認めたくはないが、この男がその証拠みたいなものなのである。
「私って男の趣味悪いのかもなあ」
榛名に聞こえないようにそう呟き、もう一度、視線を彼に向けてみる。悔しいけれどかっこよかった。
2010/08/17