本能より少し手前で
なんでだろう。と、私はぼんやり考えていた。
だって、私が榛名を好きになる理由なんて、何一つない。
どこが好きかなんて問われたら、首を直角に傾げても私には答えが出せないし、嫌いなところはいくらでも言える。
なのに私は榛名が好きなのだ。
五月二十四日の月曜日。榛名元希は図書室の日溜まりの中で眠っていた。
今日は二年生より三年生の方が試験の教科数が一つ多い。だから多分、榛名は試験勉強をする約束をしていた先輩達を待っている間に、寝てしまったのだろう。
彼が眠りこけて、もう十分程が経過している。彼の身体に潰された数学のノートは、多分窒息死しているに違いない。
私はそんなくだらない事を考えながら、榛名の隣に座った。
三年生の試験が終わるまであと十五分弱。制限時間ギリギリまで、私はここに座って本を読もう。
起きなくていい。というか起きない方がいい。
私は、好きな理由もわからない上に、隣に座っていられるだけで幸せという、ふわふわとした恋愛をしているのだ。
しかし、せっかくなので彼の寝顔に目をやる。うん。だらしがない。なんでこんなん好きになったんだろう。と、私はまた思った。このテストに関しては、私はいつも零点で、赤点。つまり追試なのだが、いつになったら点数が貰えるのだろう。追試の方が簡単なのは普通なのに、回数を重ねる度に難易度が増すのだから、恋愛というヤツは厄介なのであった。
では、次の試験に向けて勉強をしよう。というわけで私は、読みかけの恋愛小説に視線を落とす。
今まで読んだどの恋愛小説にも、答えは載っていなかったのだが、私は、今日もまた性懲りもなく、同じような本を手にとったしまった。しかし今日こそは答えがわかるかもしれない。同じような本でも何度も読めば新しい答えが出てくるものだ。
私の読んだ大抵の小説には、納得の行く好きな理由が書いておらず無く、ただ好きだから好きだという事実がそこにある。好きになったきっかけは、好きであり続ける理由では無いだろうに、なんで、彼女らはそのきっかけ一つで、彼らを好きで居続ける事が出来るのだろう。
運命か、偶然か、気のせいか、もしくは、本能か。
もし例えば、私が榛名を好きであるということが、本能によるものだとしたら、こうやって理性的に理由を考えてしまう私はなんなんだろう。
ならば一つ、本能に従って動いてみようか。
と、思い立ったが吉日である。私は本にしおりを挟み、そっと机に置いた。手に持ったままだと邪魔だからだ。
立ち上がり、榛名を見下ろす。そしてそのままゆっくりと、自分の顔と榛名の顔を接近させる。
狙うは、唇。じゃなくて、頬。流石に寝てる男の子の唇を奪うなんて卑劣で最低な真似は出来ない。
榛名の吐息。時計の秒針が時を刻むように、一定の間隔で聞こえるその音。
あと一センチだったのだ。なのに、私は止まってしまった。
彼の呼吸が乱れたから、私の理性が戻って来た。
何も言わずに私はもう一度椅子に座る。本を手に取り、大きく深呼吸をした。
なんというか、その、ドキドキした。
悪いことをしている罪悪感からではなく、バレそうだという危機感からではなく、私は榛名の顔が近かったことに、胸を高鳴らせていた。
こういう事実からもわかるように、やはり私は榛名が好きなのである。
「続き、しねーわけ?」
視線は本に送ったまま。私は首を横に振った。
いつから起きていたのだろう。なんにせよ、詰めの甘い奴だ。彼も、私も。
「なんでだよ」
「する理由がないから」
恋人でもなく、夫婦でもない。告白はされてないし、してもいない。
キスして欲しいと、言われたわけでもない。キスしていいよと、言ってもくれてない。
机に置いた自分の腕を枕にするような体勢で私を見上げていた榛名が、急に身体を起こして伸びをした。
ちらっと様子を窺えば、彼は笑っていた。
「なに?理由がありゃ、キスしてくれるわけ?」
「まあ、そういうこと」
「オレ、今日誕生日」
「知ってる。おめでとう。」
曲がりなりにも女子高生だ。好きな人の誕生日くらい覚えている。
でも、求められてもいないのに、自分からキスを誕生日プレゼントに出来るわけもない。
こういう駆け引きは、やっぱり本能だけじゃ出来ないよな。と、私は無駄な事ばかり考えて、追試でさえ零点をとる理性に、久々に感謝をした。
「で、なに?それなら誕生日プレゼントはキスだけでいいのかな」
「は、普通オマエごと寄越すだろ」
「うん。じゃあ私ごとあげる」
ただ、理性的だとこういう台詞ちょっと照れるんだよなあ。と、私は本で顔を隠す。
近くで見てみれば、流し読みしていたその本にも、きちんと、私が彼を好きな理由、つまり答えが書いてあった。
"彼の隣は、他の誰の隣より居心地が良い。"
つまりそういう事だ。だから私は、榛名の隣に座ったのだろう。
でも、榛名は私をただ大人しくは隣に座らせておいてくれないらしい。
隠した私の顔に、頬に、榛名の左手が添えられた。右手が私の本を奪い、そして、残ったその唇が、私のそれを奪っていく。
「よく、図書室でこんな」
「誰もいねーし」
「そーゆー問題じゃない。あんたには理性がないわけ?」
「理性なかったらオマエと二人きりになった時点で図書室ラブホにしてるっつの」
嘘つけ。そんな度胸ない癖に。いや、理性があるから度胸がないのか。じゃあ榛名の言うとおり、榛名には理性があるらしい。
私も少しだけ理性を捨てて、自分から榛名にキスをする。予定通り頬に。
それだけでもこれだけ心臓がバクバクいうのは多分捨てきれなかった理性のせいで、理性というのは本能より危険かもしれないと私は思った。
私は、その内、理性に殺される。
2011/05/24