それはまさしく玉音

休み時間に黒子くんが背後に立っていた時ほど、心臓が止まりそうになることはない。



「苗字さん。」
「ひいっ!!く、黒子くん…!」
「すみません、突然。」
「い、いえ…なに、どうかしたの?」
「辞書を貸してもらいたくて。忘れたんです。」
「なんの辞書?」
「古典の辞書です。」
「ああ、うんいいよ。」



三限目に入る前の休み時間に黒子くんは辞書を借りにきた。それなら、と私も依頼を持ち掛ける。



「それじゃ、数学のノート、貸してもらえない?」
「珍しいですね、苗字さんが宿題忘れるなんて。」
「三限が数学なんだけど、今日ノート忘れちゃってさ…B組は私のクラスよりも進度が早いから、ちょうどいいかなって。」
「いいですよ、待っててください、取ってきます。」
「え、いいよ、今からなんて!」
「いいえ。取ってきます。」
「…じゃ、じゃあお願い…。」



なんだか変に固執するところがあるのも、最近知った。でも、それにはちゃんと理由があることも黒子くんを見ていれば理解できる。彼は聡い。強かというか、考えることちゃんと考えてるし、賢い。一見ぼーっとしてるように見えるけど、その間にも思考を巡らせているのだろう。



「はい、どうぞ。」
「ごめんね、走らせて。」
「いえ、苗字さんのためなら。」



やっぱり、恥ずかしいことさらっと言うな、こいつ。



「あ、うちクラス、四限目が体育なんで、昼休みに返しにきます。大丈夫ですか?」
「うん、今日古典ないし。大丈夫。」
「そうですか、なら有難く借ります。」



そうして、休み時間は終わりを告げる。黒子くんは口角を少しだけ上げて会釈してB組へ戻って行って、ほぼ入れ違いに数学の先生が入ってきた。

数学はどちらかと言うと苦手だ。それでもなんとか食付いていってる。うん、大丈夫、やれる、出来る!
授業が始まって、ノートを開く。と、紙切れが挟まっていることに気付く。ちょうど、今日やるだろう範囲の辺りだ。



“名前で呼んじゃ、ダメですか。”



そこには黒子くんの字で、それだけが走り書きされていた。時間が無かったから、こんな走り書きになってしまったんだろう。それにしても…別に、直接言ってくれてもいいのに。

…でも、テツヤ…って、呼ぶのか…。
それはちょっと…な、なんだか積極的すぎるというか、私には早い、段階が早すぎると思うんだ!呼び捨てなんてもっての他だ!…テツヤくん、とか?くん付けか…なんか本当に高校生のカップルみたいな、この常識に囚われた感はなんだ…それなら…。



「苗字、五番。」
「は、はい!」



呼び方を決め、これからそう呼ぼうと決意した瞬間、当てられた。びくりと肩を震わせ顔を上げると、先生が練習問題を黒板に書く生徒を当てているところだった。私を含めて六人。真っ先に立ち上がってチョークを握って、ノートの通り写していく。ええっと、これでいいかな。



「五番、正解。」



よかった…ありがとう、黒子くん!あ、違った!この時点で間違えてたら先行き不安だな…よし、今から心の中で練習しよう。






「名前さん。」
「うわあっ!!」



またしても気付かないうちに背後に立たれていたようだ。というか早くないか、ここに来るの。四限の終了を告げるチャイムはつい先ほど鳴ったばかりなのに。

振り返ると、古典の辞書となにかの包みを持った制服姿の彼。



「着替えたの?早いね、吃驚した。」
「昼食、一緒に取りたくて。最後の最後で抜けて来ました。」
「え、大丈夫!?」
「平気です、大概みんな気づきませんから。」



どうやら包みの正体は弁当のようだ。古典の辞書を受け取りながら、あれ?と思考停止。



「い、今…名前…。」
「あれ、紙、読みませんでした?」
「いや、読んだけど!」
「事前報告したので、呼ばせてもらいます。」
「ええっ。あれって報告だったの!?」
「はい。」



私も弁当箱を鞄の中から取り出して彼を見ると、「行きましょうか。」と教室を出た。二人連れ立って、昼休みの人気の多い廊下を進む。



「何処行くの?」
「内緒です。」
「えー。」



そう言いながらも、すぐに何処を目指しているのか判明。



「あ、屋上?」
「はい。」



誰もいない屋上。彼がある程度行った隅に座り込むから、私もその向かいに座って、と思ったらハンカチを一枚開いて敷かれる。



「どうぞ。」
「あ、ありがとう…。」



紳士か…!そこに大人しく座って、弁当箱解体に入る。



「…でも、なんで突然?」
「だって、我慢ならなかったんです。」
「、別に、呼び捨てでも構わないんだよ?」
「いえ、これがしっくりくるのでいいです。」
「…私も、あのメモ見てから考えたんだよ、呼び方。」
「なら、呼んでみてください。返事をするので。」
「ええ、今…?」
「今です、今すぐです。」
「でも…」
「今すぐです。」
「心の準備とかさ、」
「さあ、待ってますから。」
「あ…う……て、テツヤさん、」
「…はい。」



なんだこの初心な空間は!まずい、恥ずかしい!



「耳まで真っ赤です。」
「実況いらない!」
「名前さん」
「…テツヤさん、」
「満足です。心満たされました。」
「そりゃ…よかった、ね。」



さも幸せそうに、彼は笑った。





12/05/06


prev next