図書委員の仕事をしながら、図書室でテツヤさんを待っていた。
「天気悪いなあ。それに、」
遅い。
窓の外はすでに薄暗い時間だけど、もう真っ黒だ。
足早に校門をくぐる生徒たちの傘が、闇の中にぼやけて浮かぶ花のように見える。
突然の悪天候に思わず溜め息が漏れてカウンターに突っ伏した瞬間、ドアが開いた。
「名前さん、」
「テツヤさん…。」
「遅くなってすみません、降ってきちゃいましたね。」
「そうみたいだね。」
「僕は置き傘あるんですけど…名前さんは?」
「私もあるよ、置き傘。」
「なら、もう帰りましょうか。」
「そうだね。」
鞄を手に引っ掻けててきぱきと図書室を消灯、施錠、鍵を職員室に返却しに行って、そして集中下駄箱へと連れ立って歩く。
「…今日はなにかありましたか。」
「そうだな……あ、たぶんバスケ部の先輩。ショートヘアの笛持ってる。」
「カントクですか。」
「えっ、監督さんなの?生徒だよね?」
「とても頼れる人です。マネージャーも監督業も兼任されてます。」
「あの人が調理室から出てきたんだけど、なんか紫色した煙が教室の隙間から漂っててさ…危なそうだから逃げたの。」
「…よくぞ逃げてくれましたね。」
「直感が危ないって。」
「よかったです、元気そうな名前さんを見ることができて。」
「え、あれってそんなに危険なの?」
「危険なんてもんじゃないです。まずアレが出てきたら間違いなく実害が出ます。僕なんて立場上、特に。」
「先輩だもんね…。」
「あ、危ないですよ。」
「え?」
ふと足元を見やると、何故か転がっている鉛筆。
「ありがとう。」
「いえ。…まあ、そのまま放置では危ないので適当に端に避けておきましょう。」
「そうだね。」
テツヤさんは確かに地味で影が薄くて一見もやしっ子だけど、中心には絶対に曲がらない鋼のような柱が真っ直ぐに通っていて、とても男性的であるというか、頼もしい人だ、実は。
「なんであんなとこに鉛筆落ちてたんだろう…。」
「急いでいたんじゃないですか?」
「じゃあ、なんで急いでたんだと思う?」
「塾…とか、ですか?」
「それで鉛筆落とすかなあ…まずこの時間帯にここに落ちてるってことはつまり、遅くまで残ってたんじゃないかな?」
こんな他愛な憶測を何時までも繰り返して言葉遊びが出来るのはテツヤさんにだけだ。
テツヤさんとならどんな話だって、木々の枝のように繋がり広がり、飽きない。
「ん…あっれぇ…?」
「どうかしたんですか。」
「…置き傘、盗まれたかも。」
「え。」
「だってないもん。」
「本当ですか。」
「なんでそんな事で嘘つくの。」
出席番号が指定されている傘の収納スペースに確かにあったはずの傘がない。
「くっそう!やられた!あれ気に入ってたのにな…。」
「災難ですね…。」
「どうしよう…けっこう降ってるしな…。」
「駅までですし、僕のに入ってください。」
「ごめん…有難く入れさせてもらう…。」
すでに出口に立って傘を開いていたテツヤさんの隣に立つ。対して身長も変わらないから、やけに顔が近くなる。呼吸の音が、近い。
「あーあ、今から買って行ってもいいかな…?」
「…明日は晴れるそうなので、それ以降でもいいんじゃないですか?あんまりおススメ出来ないですよ、駅周辺のお店は。」
「そうなんだよねー。ババ臭いっていうか…。可愛いのないんだよね。すごい花柄のやつとかあるんだけど。」
「また週末にでも、街へ出た方がいいと思います。」
「だよねー。」
ばたばた、と雨が傘を叩く。テツヤさんが右手で傘を持ってくれて、密着した体勢が続く。住宅街を、雨音をBGMにゆったりと歩く。
先ほどまで言葉を交わしていたのに、傘の中には密談すらない。しかし、そらすらも心地いいというか。互いに喋らなくとも、いいというか。他人といても、心労にならない。
「あー、なんか眠いや。」
「寝不足ですか?」
「ん?んー、なんか暖かくて…。」
「傘の中に熱が隠るんですね。」
「そうかも…いい感じの暖かさ…。」
「寝ちゃダメですよ、僕の体力ではおぶって帰るのは無理そうなので。」
「分かってるよ。大丈夫。」
ちょうどラッシュが落ち着いたくらいの時間帯、電車にはあまり人はいない。
「なかなか止まないね。」
「そうですね、こういう日は湿気で紙がやられるので本にはよくないですね。」
「本当…今読んでるの、濡れてたらどうしよう。ドライヤーしなくちゃ。」
「そうですね。」
電車はがたごとと進む。もうすでに外は真っ暗だから、外の風景があまり見えずに窓には自分とテツヤさんの姿が映っている。窓ガラス越しに視線が絡む。
「なんですか?」
「ううん、なにも。」
「笑ってたので。」
「ちょっと、こんな所で目が合うなんてなって。」
「以心伝心、ですか?」
「恥ずかしいよ、そんなの。」
しばらく揺られていると、私の降車駅。
「送ります。」
「ごめんね。」
「僕が僕の意思でやってることなので、名前さんに謝られる筋合いはないですし、それに何よりこれは僕の特権であって義務です。」
「…ありがとう、」
「はい、どういたしまして。」
小さく笑むテツヤさんの傘に囲われて、また私の家まで歩き出す。あっという間に着いてしまう距離だから、なんだか少し名残惜しいというか、いや、名残惜しいのだ。
テツヤさんと別れるのが惜しい。
もっと、もっと側に居たい。けどテツヤさん疲れてるし、我儘言うのも嫌がられたらなんだし、それでも…
「また、明日…。」
「はい、また明日、学校で。」
とうとう家に着いてしまった。帰路を振り返ると、長いようで短い。玄関先で別れを告げて、傘に入れてくれたお礼も忘れずに。
「傘、入れてくれてありがとう。」
「ああ、そのことなんですけど。」
「なに?」
「明日、もう一度よく探してみましょう、傘。もしかしたら犯人が返してるかもしれないです。」
「えー。盗った人が戻すかな?」
「念のため、ですよ。じゃあ、また明日。」
翌日、傘は元の位置に戻されていた。テツヤさんは「ね?」としたり顔。私も笑顔を返した。
その昼休み。
図書委員会会議があった時のことだ。何か、違和感というか…何かを見落としているような気がしてならなくなった。
「テツヤさん、ごめん、なにか書くもの貸してくれないかな。筆箱忘れちゃった。」
「あ、いいですよ。」
ふと、見た筆箱の中にあった鉛筆。
「これでいいですか?」
「ああ、うん。ありがとう。」
「いいえ。」
この、上部に数字の書いてある鉛筆…昨日廊下で見た…?
自然と眉間に皺が寄る。テツヤさんの顔を盗み見ると、いつものように微笑まれた。
そうだ、考え過ぎだ。だって、そんなことするはずない。こんなにも優しいんだから。
借りた鉛筆で、資料の端にメッセージを書いた。
“すきだよ”
決して、不安になったからでは、ない。
12/05/13