長い海常高校の廊下を、黄瀬は少女の歩幅に合わせて歩いた。
真夏の直射日光は容赦なく屋外部活の部員に降り注ぎ、しかしながら掛け声は止むことがない。
そんな屋外とは隔離されたような白い廊下は、より少女の存在を際立たせた。
あの時繋いで走り始めた手は、いまは互いのあるべき位置に戻っている。沈黙が、もう一人の連れのようにして二人の間に流れた。



「名前ちゃん。」
「あ…はい、」
「他にどんな本読むの?」



ぺたりぺたりと来客用のスリッパと、きゅっきゅと響く生徒の上履きの音が誰もいない廊下に響く。そんな中、ようやくにして黄瀬が口を開いた。



「太宰治とか、三島由紀夫とか、読みます、」
「難しいの読むんだね…。」
「面白い…です、」
「中学の友達にいたよ…本が好きでさ。純文学?とか言うの好きで。」
「あ…私も、好きです…」
「オレ、あんま本とか読まないから分かんないなぁ。」
「夏目漱石…。」
「ん?」
「夏目漱石、読みやすいと思います…夢十夜が好きですけど…坊っちゃんが一番読みやすいと…思い、ます、」



俯いて呟くように喋るためうまく声が聞き取れないが、黄瀬は少女の言葉に耳を傾けた。
自分の得意分野にやや饒舌になった少女に、黄瀬は胸をくすぐられるような感覚に陥り、拳を握った。

そもそも、黄瀬はなぜ自分が少女をつい先程見て以来気にかけるか、疑問に思うどころか気付きもしないまま少女に接していた。しかしほんの一瞬、体感した異変に生唾を飲み込む。



「名前ちゃん、」
「、はい…」
「別に敬語とかいらないよ。普通に話してくれればいいし。」
「でも…」
「オレさ、名前ちゃんと友達になりたいんだー…ダメ?」



少女は困ったように笑って、黄瀬の目を見つめ返した。その瞳に一瞬、その一寸先をみた黄瀬は奥の手と言わんばかりに少女に囁きかけた。



「名前ちゃんの悩み事とか、我儘とか、全部聞けるようになりたいなぁって、思ってるんだよね。」
「…でも、」
「誰にも言わないし、好きなときに好きなだけ頼ってくれたらなぁって。」
「でも、黄瀬……には、メリットはある、の?」
「じゃあ聞くけど、名前ちゃんはメリットデメリットで友達作るの?」
「…でも、貴方は私よりもずっと年上で…だから、そんな人と…」
「友達に年齢なんて関係ない。…だって名前ちゃん、辛そうだから。」
「――え、」



ようやく表情を変え、立ち止まった少女に付け入るすきを見出だし、黄瀬はもう一押しと言わんばかりに畳み掛けた。



「ね?」
「…黄瀬…は、私の話、聞いてくれるの?嫌にならない?」
「嫌になんてならないよ。」
「私、黄瀬が嫌な気持ちになること、考えてるよ、」
「それも全部、聞きたいな。」
「黄瀬にも、嫌な思いさせるよ、」
「それはオレが望んだことだよ。」



すると少女はしばらく視線をあちこちに移動させ、しどろもどろになりながら、やがて意を決したように手をぎゅっと握って言い放った。



「…私とっ、お友達に、なって…くだ、さい…。」
「喜んで。」



黄瀬は少女の前に立ちはだかり、片膝をつくと視線を対等にした。そのまま少女のやや焼けた肌の手を取る。目に力が入る。見つめ合う。息が詰まるような空気が流れた。



「…さ、図書室、行こうか。」
「、はい。」
「ほら、肩の力抜いて。」
「、あ…うん、」



暗に敬語が不要であることを諭し、黄瀬は少女の手を取ったまま、再び歩き始めた。

黄瀬は確信した。自分が少女に心を奪われたことを、じんわりと浸透してくるように感じた。そうして考えた。どうして少女にこの思いを伝えようか、どうして小学生の少女と、どう接点を持とうか。

白い廊下を歩いているうちに必然と辿り着いた図書室で日本文学の棚に真っ先に飛んでいく少女の姿を見て、黄瀬は複雑な心境を持て余した。そうしてそれを払拭するべく、静粛を守ろうとする少女の小さな囁き声の話に耳を傾けた。



「黄瀬も読んで。まずは、坊ちゃんから。」
「ええ?オレも?」
「だ、ダメ…?」
「ダメって言うか…。」



常日頃から読書を嗜んだことのない黄瀬の対応に怯んだ少女に、黄瀬は後悔した。急遽取り繕うように少女に笑顔を返す。



「あ、読む読む!これでも名前ちゃんよりも六つ上なんだから、任せてよ。」
「…じゃあ、私は…。」



そうしてその場から忍び足で隣の通路まで移動すると、少女の身の丈では到底届かない天井近くの列を見上げた。



「あ、あれ、あれが読みたい。」
「どれ?これ?」
「その二つ右隣の…。」
「これ?」



黄瀬がある一冊を指差すと、大きく少女は頷いた。自然な流れで取り出したそれのタイトルは『人間失格』だった。



「あ、これ有名だよね。最近また映画になったし。」
「これ…もう何度読み返しているか分からないくらい読んでる。」
「え、そんな好きなの?」
「好きと言うか…羨ましいなって。」
「へえ、」



黄瀬は生返事をしながら間近で見る少女の容姿を観察した。空調設備のある図書室でようやく引いたが、首筋に張り付いている玉のような汗、授業のプールで焼けただろう肌、そのプールの塩素で少しばかり色の抜けた茶色かかった髪、モノクロコントラストのはっきりした双眸、通った鼻梁、赤く熟れたような唇。肩は華奢で、腕も脚も、細い。

黄瀬は心臓が早鐘を打つ感覚を覚えた。





12/08/03