ここの一方通行、工事しますから
ウィンターカップも終わりを告げ、穏やかな日々が訪れた。
三学期に差し掛かり、しかし黄瀬は諦めなかった。
「先輩たちも引退、スよ…。」
昼休み、美術準備室でしみじみ、そう呟いた黄瀬に彼女は今まで光速で動いていた素描の手を止め、思い出したように言った。
「黄瀬」
「な、なんスか!」
彼女から話し掛けてくることなんて滅多になかっただけに、黄瀬は逆向きに跨がって座った椅子からずり落ちそうになった。
背筋をぴん、と伸ばして黄瀬は彼女の次なる言葉を待つ。
犬さながらのその行動が彼女に通じるのは何時のことになるやも知れないが、黄瀬に尾が付いていたならば嬉しさのあまり千切れんばかりに振っているだろう。
「ちょっと、練習見に行くわ。」
「えっ!月島さんバスケ部のマネージャーしてくれるんスか!」
「は?」
「えっ」
飛躍した考えに眉間に皺を寄せたかぐや姫を見て、黄瀬はあからさまに落胆した表情を見せた。
「誰がそんな怠いもんするか。ちょっと運動してる描写の強化のために見学してぇんだよ。」
「ま、マジっスか!」
黄瀬の願望が口を突いて出ていったが、いとも簡単に蹴散らされる。
しかし理由はどうであれ、彼女がバスケ部を見学しにくるのだ。黄瀬は二つ返事で受け入れた。
「っつーわけで、明日月島さんが来るっス!」
「別に今日でもよかったんじゃねぇの?」
「なんか、月島さんにも用意があるらしいんスよ…。」
「へぇ…。」
所変わって時間も進み、バスケ部放課後練習。
「本当に絵、描くんだな。その子。」
「めちゃくちゃ上手いんスよ。」
「どんな絵?」
「水彩画で風景描いてたり、油絵で人物描いてたり、漫画描いてたり、キャラクター描いてたり。」
「ほんと、描くことが好きなんだな。」
「そうなんスよ!」
黄瀬は嬉々として語る。
あの牛乳瓶の底のような眼鏡を通して見られる世界が、スケッチブックに描かれる、その瞬間を。
黄瀬はそれが愛しいと言う感情であることを理解していた。
「まぁ、張り切りすぎんなよ。怪我でもしてみろ、えらいことだ。」
「分かってるっスよ! …オレ…明日張り切るっス…!」
かくして、明日がやって来て今日になってしまった。
黄瀬は一睡もせぬまま夜を明かし、やや疲れた様子で朝練に顔を出した。
それが終わればシャワールームに飛び込んで、汗を洗い流す。急いで上がれば化粧水をはたき、ドライヤーで念入りに髪を乾かして、宣伝に起用されたことから無料で大量に貰った上等のオーデコロンを控え目に振り、リップクリームを塗る。最後に鏡の前で決め顔。
「お前は女子か!」
「だって! 月島さんに会うのに手ぇ抜けないっスよ!」
「だからってお前、デート前の女子かよ!」
「女々しくて結構っス、でもこれがオレなりの求愛…つまり雄々しくもあるんスよ!」
反論する人間は、いなくなった。
はてさて、そして彼女を追い掛ける授業時間が始まる。黄瀬は休まる暇がなかった。実際、黄瀬よりも気の休まらないのは他ならぬ彼女自身なのであるが。
「月島さんって、あれ…」
ホームルームぎりぎりに教室に滑り込んだ黄瀬だったが、席に彼女がいないことをまず認める。
彼女に限って遅刻など、と黄瀬は不思議に思いつつ自席に着いた。
長々しいホームルームが終わると、担任を呼び止める。
「先生ー」
「おお、黄瀬か。月島なら今日風邪で欠席って連絡来てるぞ。」
「え…」
呼び止めただけでその言葉が返ってくる事態にナンセンスな側面を見出だすことなく、黄瀬は肩を落とした。
あんなにも楽しみにしていたのに、彼女は今日登校しないのだ。
もしかすると彼女は仮病を使って、黄瀬に嫌悪感を持たせようとしているのかもしれない。
いや、しかし自分だけは彼女を信じたい。自分が彼女を信じなくて、誰が信じると言うのだ。
黄瀬は葛藤した。
彼女のいない教室、彼女のいない空間。
それまで何気なく過ごしていたと言うのに、何故こんなにも空虚なのだろうと。
彼女がいないだけで、教室がただのぽっかりと口を開けた穴蔵のようで、その暗闇に引き摺り込まれそうな。
「はぁ…」
本日、何度目か知れない溜め息を密かに漏らす。
何度も訪れる休み時間が煩わしく思えてくるほどに、黄瀬は沈み込んでいた。
いつもは喧騒がやや遠くに聞こえる美術準備室で二人の時間を共有していたと言うのに、今日の昼休みは喧しい女子生徒に囲まれての昼食。いつもは慣れで悪い気も起こらないものだが、今日はこれ以上なく鬱陶しく思う。
時間が進むにつれ、空腹にはなるが食べる気になれない。そんなにショックだったのか、と自嘲しつつ放課後の練習に堪えねばならないために強制的に胃に昼食を押し込む。
時計の針は規則的に時を刻むのに、黄瀬の時計は完全に止まっていた。
「はぁ…」
放課後の練習時もその調子は続き、周囲もあれだけはしゃいでいたのだから無理も無いと、ただただ同情するばかりだった。
見兼ねた部員たちは示し合わせて黄瀬を先に練習から切り上げさせることにした。
顧問も見兼ねて、黄瀬の担任に話をつけてあれよあれよと黄瀬は彼女の自宅に送り出されることになった。
「これが月島の住所のメモで、こっちが配布したプリント類な。…あんまり喧しくするなよ。」
「はい…!」
その頃には彼女の自宅に出向けるという思わぬ展開に、それまで沈んでいた黄瀬の気分メーターは振り切り、上昇した。
お気に入りのマフラーを巻いて、一段と寒くなった外界へと踏み出した。
百八十九センチメートルがスキップをしながら校庭を横切る姿は、見物であっただろう。
「月島さんっ!」
彼女の自宅は学校からおよそ徒歩で三十分の圏内にあった。住宅街の一角に軒を連ねている、一般的な現代風の家だ。
インターホンを押すと、彼女と似た声で待つよう頼まれた。
と、アルミのドアが開く。
「…なんでお前が来るんだ…。」
「、月島、さん…」
一段上がった玄関の扉にはチェーンが掛けられたまま開かれ、そこから額に冷却材を乗っけた彼女が覗いた。髪は一まとめにされていて頬が赤く、目は涙目。声はいつもより低めで、眼鏡が鼻先までずり下がっている。
黄瀬は一度でも彼女を疑った自分を咎めた。
「だ、大丈夫っスかぁああ!!」
「うっせぇな…近所迷惑だろうが帰れ駄犬。」
「か、帰れないっスよ!こんな弱々しい月島さん放って帰れないっス!」
「やることやってとっとと帰れ。プリントとか全部寄越せ。」
「え、さっきのインターホンの声って、」
「…私だけど。」
「そんな状態で…!もうオレ、オレ…!」
「鬱陶しいな…速く帰れよ…。」
「親御さんはいらっしゃらないんスか。」
「生憎な。挨拶なんかさせねぇからな。」
自身の思惑が彼女に筒抜けであることが、高揚に少し手を貸したがここは自制して持参物を手渡す。
それを静かに受けとると、甚平の袂に再び手を仕舞いながら黄瀬を呼んだ。
「…お前、部活は。」
「まあ、色々あって月島さんのとこに派遣されたんス。」
「一応、その…見学のアポ取ってただろ。だから、道徳的に…な、許せなくてな…。」
謝罪の一言が無い一方で、遠回しではあるが謝意を伝えられたことに黄瀬は感動し、同時に驚きつつも口を開いた。
「構わないっス。オレ、待ちますから。ゆっくりで…いいんス。ずっとオレは想ってますから。だから、必要になったら、何時でも呼んでください。都合のいい犬でいいっスから、」
今時。
黄瀬は自分の携帯電話の電話番号とメールアドレスを書いたメモを渡した。
12/05/31