バカではない、バカでは


ぴりりとした初冬の朝の寒さに強制的に脳を起動させられたバスケ部の面々が朝連に顔を出したはいいが、皆気を使ってか一切突っ込まないその黄瀬の腫れた頬に、笠松は絶句した。



「おま、お前!それどうしたんだよ!」
「愛の…証しっス…。」
「…何したんだよ。」



意識せずとも口から洩れた言葉に、黄瀬は待ってましたとばかりに立ちあがると身振り手振りを大仰に、興奮を隠せないと言った風体で熱く語り始めた。

昨日の情景を事細かに説明し終えると、一部脚色を加えながら如何に彼女の反応が自分の恋慕にさらに火を点けたかという話を延々と語りそうだったので笠松は黄瀬を制止した。



「で、とどのつまり、彼女にははっきり想いを打ち明けました、と。それで殴るは、蹴るは肘鉄噛ますはの大立ち回りをされたけど、なんとか抑えてもらって、目出度くお喋り出来るようになりましたとさ、お終いってところか?」
「そんな簡潔に纏めないでくださいよ!」
「でも、そうなんだろ?」
「そうっスけど…。」
「そんで、返事は?」
「犬から始めろって言われました!」
「…お前、意味分かってるか?」
「え?飼い犬みたいに飼い主の心に寄り添えってことっスよね?」
「お前のポジティブシンキングは無敵だと思うんだ、オレ。」
「え?違うんスか?」
「さあな…でも喋れるようになったんなら、進展なんじゃねぇの?」



笠松は呆れ顔で黄瀬の肩を軽く叩いた。

鼻の頭を掻きながら照れ隠し、年齢相応に笑った黄瀬に笠松はこれが親心なのか、と自嘲した。



「それにしてもお前の顔面に鉄拳とか商売道具粗末に扱うんじゃねぇぞ。」
「敢えて顔ばっか殴られました!」
「…そうか…。」



バスケ部の練習が始まった。



「月島さんっ!」
「よーし、昼になったし購買でタマゴサンド買ってこい。もちろんお前の金でなー。」
「分かったっス!」



昼休み。

一方で、今まで口を開いた事のなかった彼女が突如として喋り始めたことに一同驚きを隠せないでいたが、何よりその口の悪さが際立って聞こえて今まで嫌がらせをしていた者はひやりとした。

絵を描いていた穏やかさを含んだ眼差しとはかけ離れた、殺伐とした眼。

黄瀬は元気溌剌、教室を飛び出すと購買へ駆けて行った。

ところで、彼女が教室から逃げることなど、黄瀬は百も承知だった。彼女が教室を抜け出して何処へ行くのかも全てを知った上で、黄瀬は購買へ走った。

黄瀬は彼女の犬になるという言葉を守っていた。



「月島さーんっ!」
「…なんで、ここ…!」
「ストーカーとかじゃないっスよ!」
「じゃあ何だって言うのさ。」
「犬っス!」
「…そうだったね。」



彼女は昨日の事件を回想した。



「好き、大好きなんス。」
「…意味分からん。なんで私なんか、」
「例え月島さんが二次元しか愛せなくても、オレ、ずっと、ずっとずーっと、好きっスから…!」
「…莫迦じゃねぇの…。」



彼女は二次元を愛していた。

今まで周囲と溶け込まず、自分なりの路線を貫いていたために特定の友人としか交友がなかったし、何より言い寄られるなんて経験も皆無だったためにまずそれに動揺した。

彼女は別段、頑なに喋らなかったのではない。喋らなければやり過ごせるかもしれない、ただそんな淡い期待からだった。

しかし、いくら無視していても粘り強い黄瀬はしつこく食い下がった。



「じゃあ、オレもお昼にするっス。」



唯一の避難場所、やや埃っぽい美術準備室にまで黄瀬の魔の手は及び、彼女に気の休まる場所は無くなった。

彼女は黄瀬が買ってきたパンには目もくれず、弁当を取り出すと頬張り始める。



「え、月島さん、タマゴサンドは…」
「やる。」
「ま、マジっスか!」
「うん、やる。」



購買で自分の昼食も購入してきた黄瀬だったが、まだまだ育ち盛りで食べても足りないほどであったし、自分が買ってきたと言えど、彼女からの初めての贈り物なのだ。

念のため確認しておくが、彼女は嫌がらせでしたのであって、プレゼントなどと言う発想は全くもってない。

一頻り興奮と感謝を伝え終えると、昼食にかぶり付きながら、一方で弁当を咀嚼しながらスケッチブックを手放さない彼女の、その紙面を覗いた。



「何描いてたんスか?」
「今度出す新刊の表紙のデッサン。」
「え、月島さん画集とか出すんスか?」
「違う。」
「え?」
「漫画。悪いか。」
「いえ!月島さんにぴったりだなぁって思っただけっス!なんか手伝えることがあったら何時でも言ってください!」
「猫の手が借りたくなったら言う。」
「是非!」



その日一日黄瀬の調子は上がる一方で、止まるところ知らずだった。



「漫画か…しかし新刊ってすげぇな。」
「そうなんスよ。新刊ってことは、今までに何冊か世に出してるってことっスよね?」
「現役女子高生漫画家は変人でしたってとこか。出版社どこなんだ?」
「か、笠松先輩!月島さんは変人なんかじゃないっスよ!」
「あー分かった分かった。」



黄瀬と笠松は大きな誤解をしていた。

彼女の執筆している漫画は、漫画でも自費出版であり、何より同人と言う奥深な部類にカテゴライズされると言うことを。

彼らは純粋すぎたのだ。



「少女漫画っスかねぇ…。」
「…でもよ…あんま夢、見ない方がいいぞ。なんかあった時、辛くなるだろ?」
「なんでそんな不吉なこと言うんスか…。」



黄瀬は冗談半分に流すが、いずれこの言葉を思い出して噛み締めることになる。



「あーあ!早く明日になんねーかな!」
「突然なんだよ。」
「だって、喋りたいんスよ!返事が、返ってくるんス。」
「…なんつーか、前途多難だな。」
「え?」
「いや、何もねー。」



後輩の多難な前途に精一杯のエールを、笠松は暗くなった夜道で黄瀬をマジバへ誘った。





12/05/24