錆びた月



言葉 ではなく 、

身体 でもなく 、

ただ 重なり合うものが 、



びた月





何故か夜半、不意に目が覚めた。



音も立てずに布団から起き上り、障子を開ける。

縁側に出て見上げた先には、忌々しいほど紅く輝く月。

言い様のない不安感を駆り立てるような、そんな。



今日は確か、一番組の巡察日だったはず。

何か、起きたか。

------嫌な不安や予感ほど、当たるもの。



「…総司」



隣室の障子越しに、声を掛けた。

応えはない。

障子を開けると、その先は無人だった。

ただ、隊服の浅黄色の羽織と、臙脂色の着物がくしゃりと脱ぎ捨てられている。

帰っては来ているらしい。

…ならば、何処に行った。

暫し思案して、最初に頭に思い描いた場所に足を運んだ。



道場に近付いて行ったところで、鋭く風を切る、耳に慣れた音。

薄く開いた道場の扉の先に、探し人は居た。

白い寝着のまま、暗闇に向けて木刀を振っているその背を、息を殺して見つめた。

まずは上段、それから袈裟、逆袈裟、一文字。

鮮やか過ぎる軌道を描く木刀の切っ先。

暗闇の先、翡翠は一体何を睨んでいるのか。

木刀が正眼の場所で止まり、ふぅ、と深い息が吐き出されるのと同時に。



「見てないで、入って来たら?…一くん」



やはり気付いていたか、と思いながら、迷わずこの名を口にする総司にそっと笑って。

促されるまま、道場に足を踏み込ませた。

素足に、冷えた床が触れる。

それだけで、心が研ぎ澄まされていくのは最早癖のようなもの。

暗闇の中、高い場所にある窓から射す月の光だけが、栗色の髪を、そして翡翠色の瞳を鈍く光らせていた。



「何、眠れなくて此処に来たの?」

「…あぁ」



声に、可笑しそうに翡翠が細められて笑う。

きらり、翡翠が光る。

その様が、異様なほど眩く見えて知らず瞳を細めた。



嫌な予感がしたから此処に来たなどと言えば、あからさまに総司は嫌な顔をするのは目に見えている。

他人に心配をされることを何より嫌う総司に、己の勝手な杞憂はただただ邪魔なものでしかないのだ。

お前を探していたなどと言えば、総司は翡翠を歪めて笑って、いつもの奔放な言葉を口にするのだろう。

強い男だ。強く、在ろうとする男だ。

けれど。

本人は気付いていないだろうが、凛とした気配が時折心許ないほどに儚く揺らぐのだ。

そんなことには己の他は誰も気付いていないだろうと思うのは、己の勝手な思い込みなのだろうか。

否。

それほど、己は総司を見ているのだろう。

そんな総司の一番傍に在って、もっとたくさんの表情を見、知り、叶うのならば触れたいと、気付いた時には既に己は深く熱い歪んだ激情を、彼の人に抱いていた。

叶うことはない、届くはずはないと、想いながらも。

それでも。



「眠れないなら、…やろうよ」

こと、と総司の手が刀掛けの木刀に触れたかと思うと、それを投げられた。

投げられた木刀を受け取って、翡翠を見つめた。

すぅ、と翡翠が細められる。

触れたら切れるような、鋭い眼光。

背筋に、何かが走った。



「…いくよ」



声が鼓膜を震えさせるや否や、上段から振り下ろされた木刀を受け止める。

じん、と手と腕とを痺れさせる鈍く重い感覚。

口の端を上げて、総司が笑った。

力で競り合った木刀を打ち払い、逆袈裟に打ち込んだ。

受け流された刹那、激しく互いに打ち合わせる。

木刀と言えども、当たり所が悪ければ致命傷になる。

少しでも油断すれば、命さえも奪われてしまいそうに思えるほどに熱く、激しく、木刀をぶつけ合う。

心地良いと、想える己は狂っているのだろうか。

言葉では、分かり合えない。

どれだけ願っても、交わらず平行線のままの想い。

こうして刀を合わせている時だけ、分かり合えている気がするなどと。

狂っているとしか、思えない。



鍔迫り合いの状態を崩そうと木刀を左側へ力で流すと、刹那翡翠が微かに歪んだ。

違和感を覚えながら、僅かに左側へ体勢を崩した総司の持つ木刀に打ち込む。

からん、と木刀が床に転がった。

翡翠が瞠目して、それから笑った。

そこで初めて気付く。

総司の白い寝着の右袖が、じわりと紅で染まっていた。

不意に庇うように、隠すように、総司が左手で右腕に触れる。

手を差し伸ばそうとすると、拒むように総司が一歩足を後ろに引いた。

内心舌打ちをして、総司の襟元を掴み上げてそのまま後ろへと押し倒した。



「…っ、」

目の前の翡翠が歪んで、そしてまた笑う。

「ここでいきなり柔術を使うのは、卑怯じゃない?」

床に総司の背を押し当てて、その上に跨って翡翠を見下ろした。

僅かに紅く染まる右袖を捲り上げる。

一筋、上腕に刀傷。

何の手当てもしていない其処から、じわじわと紅い血が滲み出していた。

「…斬られたのか」

「一人、出来る奴が居てね。…油断したよ」



「何故手当てをしない」

声に、暫し総司は笑った。

そして笑みを消して、鋭い光を瞳に宿してまるで睨み付けるように見上げて来た。

「…苛付くんだ」

唸るように、総司が吐き捨てる。

「あのくらいの奴に斬られるなんて、そんなのじゃ僕は近藤さんを守れない。新選組の剣なんかにはなれない。…手当てなんてしてる場合じゃない」

無理矢理身を起こそうとする身体を、腕で押し止める。

懐から手拭を引き出して、右腕に少しきつめに巻き付けた。

「刀傷を甘く見るな、しっかり手当てをせねば後から膿むこともある」

手拭を巻いた腕を、それから此方を、総司が見た。

そうしてやっと、瞳に宿していた光を僅かばかりに柔らかいものにして。

「…君は、本当にお節介だ」

まるで自嘲のような笑みを頬に刻んで、総司は小さく言った。

「でもね、」

総司の手が己の着物の襟元に伸びて来たかと思うと、刹那引き寄せられる。



「君はきっと、此処に来てくれると思ってた」

呼吸が、触れ合うほどに近くで。

「…君が、此処に来てくれたらいいと思ってた」

紡がれる言葉が、そっと鼓膜を揺らす。

嗚呼。

無意識に言っているのだとすれば、何と彼の人は罪な男なのだろう。

その言葉だけで、この心は危うくも確かに震えるのに。

------少しだけでも。

求められているのだと、伝えられるだけで、この腕で引き寄せ抱き締めたくなるこの激情は、多分愛しいと言うものなのだろう。

愛などと、生易しく綺麗な言葉では表せないものだけれど。

「…どうしてだろうね」

ふふ、と吐息混じりに総司が笑う。

見上げていた翡翠が、一度逸らされた。

「もしかしたら僕は、僕が思っている以上に一くんに甘えてるのかも知れないね」

愛を伝える、言葉ではない。

なのに。

「…ならば、もっと甘えればいい」

込み上げる感情は、それ以外の何物ではないのは何故なのか。



「俺を、呼べ」

求めるままに。

想う、ままに。

「お前の声で、俺を呼べ」

「君を、僕が?」

「…あぁ」

そうだ、まるで。

「今日のように」



言えば、総司は翡翠色を明らかに瞠目させた。

ぐ、と更に引き寄せられる。

鼻先が、触れた。



「聞こえた、の?」

「…あぁ」

小さく頷けば、目の前の翡翠が歪むように笑った。

「…地獄耳」

するり、総司の手が俺の髪に触れ、其処を掻き上げて耳に触れた。

「どれだけ、どこまで聞こえるか、何度も何度も呼んでみようかな」

試すように言われて、耳に触れたままの総司の手を掴む。



「呼べばいい」

手首を握り締めれば、其処は思っていた以上に細く、指先が一周した。

抱き締めればもしかしたら、この身体さえも思っている以上に華奢なのかも知れない。

この手で、この身体で、彼の人は己の全てで新選組(ここ)を守ろうとしているのだ。

ともすれば重すぎるものを、この背で。

憎悪の全てを、握るその剣で、受け止めようとしているのだ。

絶対的なものが在れば、人は其れを憎悪し、恐れる。

そんな、ものに。

そんなもので在ろうと、この男は。



「何度でも、俺を呼べ」



そうすれば俺はきっと、何度でも駆け付ける。

その横に並び、その背を合わせ、共に在ろう。

守るなどとは言わぬ。

守られることなど、この男は露も望んではいないのだ。

ならば、ただ。

誰よりも傍に在り、せめて支えたいのだと。

そう、想うのだ。



「…あはは、まるで告白でもされてるみたいだ」

茶化すような言葉に、つい眉を寄せる。

軽い口調で言うけれど、己が言わぬだけで想いはそうなのだろうと苦虫を噛み潰す思いで口唇をそっと噛み締めた。



「君は、もしかしたら僕が思ってるよりも僕のことを考えてくれてるのかも知れないね」



皺を寄せた眉間に、総司の指先が触れる。

幾度か、優しい感触で其処を撫でられた。



「でもきっとそれは、君も同じなんだ」



総司の言葉に、瞠目する。

そんな己の様子に、総司は嘲笑った。

「僕も、きっと君が思ってるよりも君のことを考えてるんだろうね」

さらり、総司の指先が頬を掠める。

されるがままでいると、総司は苦笑いのような表情を頬に刻む。

「…ねぇ、一くん」

見下ろす頬に浮かんだのは、妖艶な笑み。

「口付けでも、してみようか」

出来るはずがない、と決めつけるような口調。

その声を聞いて、己はどんな表情を浮かべたのだろう。

「…なんてね。…冗談、」

一瞬の沈黙を嫌がるように明るい声音で言葉を紡いだ口唇に、そっと己のそれを重ねた。

互いに瞳を閉じることなく触れ合わせた。

目の前で、翡翠が瞠目した。



「一、くん」

さらり、栗色の髪を一度撫でて、其処に指先を差し込んだ。

指先に優しく絡む感触が、心地良い。

見つめれば、そっと翡翠が伏せられる。

欲情を煽るようなその様に誘われるがままに、間を空けず薄く開いたままだった口唇を塞いだ。



合わせた口唇の中で、総司が己の名を呼んだように思えた。

それに応えるように、押し倒した身体を抱き締める。

初めて擁くその背は、やはり思っていたよりも細かった。

歯列に舌を這わせ、其処をそっと割る。

戸惑うように差し出された舌を絡め取って、想うまま蹂躙した。

絡ませた舌先を軽く吸い上げてから口唇を離すと、総司は艶やかに笑った。



「…今、呼んだだろう…?」



くすり、



瞳を細めて総司が笑う。



「…呼んだよ」



いつもより濡れた声音が、耳を掠めた。

首元に回された腕に、力が込められるのが分かる。

引き寄せられるままもう一度、口唇を重ねた。

視線の先、月の光を浴びて光る翡翠がゆっくりと閉じられるのを見つめながら、瞳を閉じる。





窓から見下ろす、紅く錆びたような鈍い色をした月が歪み、そっと嗤った気がした。





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