肆
目を覚ました時、目に映ったのはよく見慣れた自室の天井。 まだはっきりとしない頭を働かせて、最後の記憶を辿る。 ああそういえば自分は池田屋で意識を失ったではないか。 傍には後先を考えずに駆けつけてきた雪村がいて。 ――そうだ、あの金髪の男に負けた。 この京へ来てから負けたことのない自分が。 情けないなあと心の中で毒を吐き、右手を布団から出して持ち上げてみる。 掲げて、ただじっとその右手を睨むように見つめ続けた。 どうして負けたのだろう。 新選組のため、ひいては近藤のためにとひたすら剣の腕を上げてきたのに。 (世の中は広いってことなのかな) 日の本はずいぶんと広い。 いくら剣豪と恐れられる自分でも、そのさらに上をいく剣豪がいたっておかしくはないはず。 そう思わなければ、悔しくて仕方がなかった。 負けたという事実を半ば、というよりだいぶ認められない。 油断をしたのかも知れないと言い訳がましいことを考え始めていた。 そのうち手を持ち上げているのが辛くなって下ろし、深くため息をつく。 起き上がろうという選択肢は自分の中になく、もう一度眠りにつこうかと思った時。 廊下を歩く音が聞こえてきて、誰かがこの部屋の前で止まる気配を感じ取る。 誰かと問う前に向こうから声がかかった。 「――…総司、入るぞ」 かけられた言葉と共に襖が開けられ、いつものように凛とした表情を浮かべた人物が姿を現す。 土方さん、と控えめな声でその人物の名前を呼ぶ。 まさか彼がここを訪れるとは思っていなくて。 正直、意外だ。 自分が目を丸くしている間に、土方は中に入って開けた襖を閉め、布団の脇に胡座をかいて座る。 さすがに寝たままの状態でいる訳にはいかず、重い身体をなんとか動かして上半身を起こす。 なんとなく顔を合わせずに「どうしたんですか」と聞いてみた。 すると土方が視線をすっとある方向へ向けるのが視界の隅に映る。 同じ方向を見やれば、その先に自分の愛刀があった。 彼の言いたいことを予想しつつ、やっと顔を合わせる。 真剣そのものの声色で、土方が声を出した。 「お前にしては珍しく、殺り逃したそうじゃねえか」 「……」 返す言葉もない。 土方の言うことは正しいのだから。 しかしその彼の声に咎めるような色はなく、また馬鹿にしている色もない。 本人は淡々と事実を述べているだけだろう。 ほんの少し心配の色を漂わせていることに、自分は気づいていたが。 相変わらずだ、と思う。 江戸の試衛館にいた頃から、土方は変わっていない。 幹部の中には彼が変わってしまったと感じる者もいるようだが、自分はその逆だと思っている。 何も変わってないのだ。昔から。 彼の心根は僅かにも変わってなどいない。 だからこうして自分を見舞うのだ、と。 なんだか可笑しくなってきてつい笑みを洩らす。 何を考えていたのかなど知らない土方は、眉根を寄せて訝しげにこちらを見る。 「なんだよ、てめえ」 「いえ、別に?ちょっと昔のことを思い出しただけです」 素直に話してやるつもりはないので、クスクスと小さく笑いながらはぐらかす。 だが土方も特に気分を害した様子はなく、ふうっとため息をこぼして頭を掻いた。 この仕草は、試衛館の頃から一緒にいる人間の前でしかしない。 もしくは余程彼の信頼を得ている者の前でしか。 自分はいつも顔を合わせるたびに土方をからかい遊んでいるが、心の奥底から嫌っているからそうしている訳ではなく。 その土方のことを心配する人が――近藤がいるから、息抜きに繋がるようなことをするのだ。 日々の鬱憤は馬鹿騒ぎして発散するに限る。 江戸にいた頃、永倉がそう教えてくれた。 まあ、自分も楽しんでいる部分はあるのだが。 「――で、体調はどうなんだ」 そろそろ戻らないと、という雰囲気を感じさせながらそう問われる。 本題に入ったなと思いながら手を出し、確かめるように開いたり閉じたりしてみた。 なんの問題もない。 普段の調子で顔に軽く笑みを湛えて。 「大丈夫です。少し休んだらいつも通り働きますよ」 気苦労の絶えない新選組副長をたまには気遣い、安心させるように言った。 事実、あの池田屋での夜は血を少し吐いただけだ。 怪我をした訳でも、内蔵や骨がやられた訳でもないのだから。 土方や、近藤…そして他の幹部連中に心配をかけるまでもない。 何より自分が役立たずだと思いたくない。 もし怪我をしていたとしても、僅かなものであれば意地でも平気なのを装うだろう。 自分はそういう奴だ。 「なら総司、明日――はお前の当番じゃねえな…明後日には巡察に出れるんだな?」 「ええ、任せてください」 「……そうか、わかった」 念を押すように繰り返す土方に、笑みを浮かべたままあっさりと切り返す。 返事を聞いてほっと胸を撫で下ろした彼は、よいしょと腰を上げて部屋を出ようとこちらに背を向ける。 その時一瞬、彼の背を斬りつけようとする誰かの――なぜか自分はあの金髪の男のもののように思えた――刀が浮かんで見えた気がした。 幻だとわかっているから驚きはしない。 夢のようなものだ。 けれど、昔まだ芹沢一派が生きていて壬生浪士組と呼ばれていた頃にいた、佐々木という平隊士を思い出した。 彼がどの組だったのか忘れたが、無惨な死に方をしたことだけは覚えている。 どうしてその佐々木という男を思い出すのだろう。 「土方さん」 思わず目の前の男を呼び止める。 土方がそう易々と斬られるような人間ではないと知っているけど。 振り向いてすぐの彼に、一言。 「――…背中、がら空きですよ」 揶揄するような口調で言い、不敵に笑んで見せた。 彼には不気味に見えたかも知れない。 それでもいいかと少し思った。 険しい表情をした土方を見送り、自分の他に誰もいなくなった部屋で天井をぼんやり眺める。 明後日の巡察であの金髪の男に出会えないだろうかと、変な期待を抱きながら。 |