玖
慶応元年閏五月、某日。 二条城警護の際に何があったのかは自分の知るところではないが、松本良順という人物が屯所にやってきたという話を聞いた。 健康診断を行うとも聞いたから、医者か何かなのだろう。 脳裏には自分の体調不良のことがしつこくこびりつくように残っている。 だから素直に健康診断を受ける気にはなれなかった。 そのため隊士たちの集まる広間には出向かず、部屋にこもっていた。 悶々としていて不機嫌な雰囲気でも部屋から漏れ出ていたのか、呼びにくる人などいない。 そう思っていたのに。 「――沖田さん」 突然名前を呼ばれたので、急に現実へ引っ張り戻されたような気がした。 いつからかぼんやりとしていたらしく、何かを綴ろうと思って用意していた墨が少し乾き始めている。 何を綴ろうと思ったのかなど忘れてしまったため、後で片づけようと思いつつ名を呼んだ主を確認しようと入室を促す。 するとスッと襖が開かれ、どこか小難しい表情をした雪村が姿を見せた。 彼女に何があったかなど知る由もない。 だから入室してきても無言な彼女に「何?」とだけ告げた。 そうして初めて顔があがる。 揺れる瞳と見つめあった。 けれど未だ言葉はない。 風間がこの雪村を狙っているのではないかという推測を思い出し、苛々し始める。 否、推測ではない。ほとんど確信したこと。 特別な関係がある訳でもないはずなのに、どうして彼女を狙うのだろう。 とにかく気に入らない。 彼女が悪い訳でもないと、わかってはいるけど。 「あ、の……」 何を言おうか悩むように、そしてこちらの機嫌を窺うように、おずおずと雪村が口を開く。 視線をそらし、放置されていた硯や筆を静かに少しずつ片づけながら続きを待った。 「沖田さんは…健康診断、受けましたか?」 「…そんなこと聞きに来たの?」 やっと口が開かれたと思ったのに。 本題ではないのだと察しているからこそ苛々する。 言いたいことを迷わず言えばいいのに、と。 変なところで真っ直ぐな彼女が、彼女らしくない。 改めて雪村の顔を見やる。 嫌な話でも聞いたのか、その表情は悲しげだった。 そういえば藤堂が、近頃彼女に元気がないと呟いていたような気がする。 本当に元気がないのだとすれば、勝手に苛々して酷く接するのはさすがに悪い。 はあ、とため息をこぼしてそっぽ向きつつ。 「ここにいたいんだったら、気がすむまでいれば?」 自分でも素っ気ない言い方だと思いつつも、そう言ってやった。 傍らから「ありがとうございます」と少し泣きそうな声が届く。 そのまま互いに何も言わずにそのうち雪村が部屋を出ていき、いきなり屯所の掃除だのなんだのという指令が出たが。 だが自分にだけ休息しているようにと土方直々の命が下り、一人退屈な午後を過ごしたのだった。 翌日。 掃除の成果を見るためにということで松本が再び屯所を訪れていた。 幹部がみんな広間に集まっていたので、もちろん自分も同席している。 隅の方で半分話を聞き流していると、不意に松本がこちらへやってきて。 小声で話があると告げられた。 実を言えば昨日、退屈な午後を過ごしている途中に彼が部屋を訪れた。 当然診察をしに来たのだが、松本は終始厳しい面持ちだった。 あまり気にとめずにいたが…声をかけられたということは。 一つの考えが頭に浮かぶ。 肯定したくはない。けれどほぼ間違いないだろう。 やれやれと思いながら、松本とともにそっと広間を後にする。 そのまま連れられて中庭へ出た。 立ち話もなんだから、と縁台へと腰かける。 ――その時、一つの気配を感じ取った。 必死に隠れようとするそれは、逆に己が誰なのかと知らせてくれるよう。 雪村がついてきたのだと察すると、つい苦笑がこぼれた。 (君は本当にお節介なんだから) 心の中でぼやいて、松本の方を見やる。 一拍おいてから彼は口を開く。 「結論から言おう。…お前さんの病は労咳だ」 放たれた言葉はあっさりとしていたけれど。 重い石を投げられたような衝撃があった。 表情は変えなかった。変えられなかった。 しかしすぐに自嘲的な笑みを浮かべる。 やっぱりあの有名な死病かと、自分に言い聞かせるように呟く。 すると驚かないのかと問われたので松本から視線をそらしつつ答えた。 「――自分の身体ですから」 そう、自らの身体がよくない病に侵されているだろうことはわかっていた。 労咳なのではないかと、今こうして松本に聞かされる前から。 だけど。 「…でも、面と向かって言われるとさすがに困ったなあ」 現実を突きつけられたようで苦しい。 乾いた笑いをこぼすしかなかった。 笑いごとではない、と横から声が飛んでくる。 これでも自分は本気で困っている。 笑いたくて笑っているのではないのに。 それから物陰に隠れた雪村のことを思い出す。 きっと彼女にも聞こえてしまったことだろう。 どうしようか、と考えを巡らせているところに松本の話が続く。 彼は新選組を離れて療養した方がいいと言った。 空気の綺麗な場所で静養しろ、と。 けれど自分にそんなことができるはずなかった。 近藤の傍にいて、役に立ちたい。 それが自分の決めた生き方なのに。 何より、風間が京にいると知って離れられる訳がない。 先が短いなら、なおさら―― 「ここにいることが、僕の全てなんです」 顔から表情を消し、譲れないという思いを前面に押し出して言葉を紡ぐ。 松本は仕方ないと言いたそうにため息をついた。 その後いくつか松本と言葉を交わし、去っていく背中を見送る。 動揺でもしているのか、先程よりも気配がわかりやすくなっている雪村の方を見る。 やはりただの女の子だな、などと思いながら息を吸う。 そして吐き出すのと同時に名前を呼んだ。 いつもと変わらない、声色で。 だがすぐには姿を見せない。 上手く隠れているつもりなのだろうか。 「出ておいでよ、千鶴ちゃん。もういいから」 じっと彼女のいるだろう方向を見据えたまま、もう一度声をかける。 今度は姿を見せた。 これまたいつも通りに微かな笑みを浮かべ、雪村を自分の隣へ手招く。 沈んだ雪村の表情が目に焼きつきそうだった。 どうして彼女がそんな顔をするのだろう。 患ったのは彼女でなくて、この自分なのに。 僅かな沈黙の後、言いかけた雪村の声を遮るように言う。 「もしかして松本先生の話、本気にした?僕が変な病気にかかるように見える?」 からかうような口ぶりで、少し早口に。 続けて本気にしないで、と告げた。 しかし雪村からの返事はない。 構わずに言葉を続けていく。 誰にも言わないかと。誰かに言うつもりなら、彼女を斬らなくてはいけないと。 そんな、これまでに何度も口にしてきた言葉たちを。 一体彼女はどんな気持ちで聞いていただろう。 「……沖田さんは、いつもそればっかり――」 「…そうかもね」 唯一返された言葉に思わず失笑して、短く答える。 彼女には同じことばかり言ってきた。 何かあれば迷わず斬ると。 それは雪村がいつも自分の周りにいるからだ。 時には咎めるために、時には自分へ近寄らせないために。 もう話すことはないだろうと腰をあげる。 立ち去り際、雪村に呼び止められて足を止める。 病のことは誰にも話しません、と彼女は宣言してくれた。 本当にそうしてくれる確証などないが。 ありがとうと、そう言う他になかったのだった。 |