漆
斎藤から聞いた風間千景という名前を、自分は一日に何度も思い出すようになっていた。 京にいる以上、鉢合わせることもあるだろうと思っている。 事実、巡察の最中や非番の日で散歩へ出かけた時などに何度も出くわした。 幸いというべきかなんというべきか、一度も斬り合いにはなっていない。 なったところで今度こそ負けるつもりはないのだが。 ともかく、自分はその風間という男がどうも気に入らない。 初めて見かけた時から、無意識のうちに目で追ってしまっている。 なぜそうしてしまうのかなど自分でもわからず、風間の姿を見つけるとどうしても目が離せないのだ。 その時、必ず心の中がもやもやとした霧に覆われる。 なかなか晴れないその霧もまた、最近自分を苛立たせる要因だ。 だから風間にはさっさとこの京を離れてほしいと願っている。 己の心を乱す者は、いらない。許せない。 まあ、もう一度消えろと言ったところで風間が素直に姿を消すとも思えないけれど。 (本当…苛々する) 今日は数日ぶりの非番。 昨晩床に就く時は、近所の子供たちと遊んで時間を潰そうと思っていた。 だが、苛立っている状態では子供たちを怖がらせてしまうかも知れない。 それに屯所にいては誰かしらに心配をかけそうだ。 気を遣われるのが得意ではないため、茶屋にでも行こうと考えた。 今は一人になりたい。 時間の使い道が決まれば早々に屯所を出よう。 無闇に廊下を歩き回っていた足を一度止め、外へと向かって再び歩きだす。 できるだけ人に会わずに出て行きたい。 そう思っていたのに。 「総司」 短く名前を呼ばれて立ち止まる。 振り返れば気分的にあまり会いたくなかった人間がそこにいた。 昔から何かと張り合ったりしている、土方。 あからさまに嫌そうな顔をして見せて彼の方へ身体を向ける。 自分から近づこうとは思わない。 さっさと外に行きたかったのに、余計な動きをしたくないから。 すると当然相手の方から近づいてくる訳で。 「新八がどこに行ったか知らねぇか?俺の部屋に来るよう言ってあったんだが、全然来なくてな」 質問を投げてきながら歩み寄ってきた。 聞こえてしまわないよう密かにため息をつきつつ、腕を組む。 もちろん自分が永倉の行き先を知っているはずがない。 「知りませんよ。どうせまた左之さんと呑みに行ってるんじゃないですか?」 「……そうか、引き止めて悪かったな」 嫌みったらしく言葉を返したが、相手は幼い頃から知っている土方。 慣れた様子であっさりと会話が終了された。 それもなんだか軽くあしらわれたようで苛立たしい。 けれどこの場を早々に去ることができるのだからいいかと考え直し、軽い会釈をして歩を進める。 その自分の背を、土方がじっと見ていたことも知らずに。 市中を適当に歩き回って偶然目に入った茶屋へ入ると、人の密集していない隅の方を探して座った。 甘いものが嫌いという訳ではないが、今は甘味を食べるつもりはない。 純粋に茶を飲みに来た。 なので店の人間を呼びつけて注文したのは茶だけ。 団子やらなんやらを勧められたが、キッパリと断らせてもらった。 最近は食が細いから、夕餉の前にものを食べないようにもしている。 でないとまた過保護な人間が心配してくるから。 その時ふと、江戸へ隊士募集に行った藤堂のことを思い出す。 屯所を発ってからもうだいぶ経っている。 冬もそう遠くない。 もうそろそろ帰ってくる頃合だろうか。 続けて思い出せるのは亡くなった"ことになっている"山南のこと。 彼がまさか本当に変若水に手を出すとは思っていなかった。 あの時、失敗すれば自分が手をかけると言ったのは半分冗談だったのに。 (それだけ、山南さんが追いつめられてたってことなんだろうけど…) 出された茶を啜りつつ、心の中でため息をこぼす。 自分もずいぶん悩んだ時期があった。 変若水はその時期からすでに存在していたが。 あれに手を出そうという考えは微塵もなかったように思う。 それはそれほどまでに自分が追いつめられていなかったということなのか。 もしくは追いつめられている方向が、山南と違うのか。 考えてもわかるはずがない。 山南の思いは、彼自身にしかわからないのだから。 (――…やっぱり、僕らしくない) いつだか抱えた自分への評価を、今また感じる。 どうにも本調子でない気がして腹が立つ。 これも全て風間のせいだ、などと責任転嫁してみた。 そうしてからおかしなものだと思った。 まともに言葉を交わしたこともない、しかも敵である人間の風間を自分の心を乱す相手と定めているとは。 どうして、そこまで。 (…わからないことだらけだ) 頭を振って心の霧を払おうとする。 周囲の喧噪が煩わしくなって顔をあげた。 その、自分の視線の先に。 (風間千景――!!) 見間違うはずのない姿を茶屋の外で見つける。 長州征伐の際、土方率いる隊の行く手を阻んだという風間。 なぜか自分を惹きつけて放さない、男。 彼が冷えた眼差しを前に向けてすぐ目の前を歩いていく。 衝動的に追いかけたくなった。 あの背を追いかけて。 追いかけて…どうするのだろう。どうするつもりでいた? 無意識にきつく握りしめていた湯のみを離し、一度手元を見た後で再び頭をあげる。 けれどもう、風間の姿はなかった。 まるでそれまでの出来事が夢であったかのような心地。 そして自分はこの時、薄々と気づき始めていたのかも知れない。 胸の内に芽生え始めた、恋情に。 |