忘れ去られた出会いの日
天然理心流の道場へ連れてこられてから半年ほどがすぎた頃。 気分転換などと言われ、朝から近藤に外へほぼ無理矢理に連れ出されたのはいいが。 どうやらいつの間にかはぐれてしまったらしい。 苛立ちを募らせてあれこれと考えを巡らせ、ふと我に返ればもう一人きりだった。 とはいえ焦ってはおらず、どうしようか決めかねている状態だ。 道場まで戻るのは難しいことではない。 だが、まっすぐ帰ろうという気になれない。 どうせあの道場に帰ったところで、雑用をするか兄弟子たちに稽古と称して折檻されるだけ。 両親がいる訳でも、姉がいる訳でもない。 楽しいことも嬉しいこともないのだ。 そんなところへ進んで帰るのは馬鹿のすること。 近藤を捜すのも面倒で、僅かでも与えられた自由を好きにさせてもらうことにした。 しかし親しい友人もいないために、すぐ途方に暮れた。 同い年の子供がする遊びも知らない。 ため息をついて重い足取りで行く先も考えずに歩く。 しばらくして人里から少し離れた森の前に来ていた。 小さな広場のようになっている場所があり、薄汚れた地蔵がポツンと立っている。 日はまだ高い。 地蔵の隣に腰かけて身体を丸めた。 膝を囲うように腕を回して組み、いわゆる体育座りの形を取る。 俯くように顔を埋めた。 (あ…辻斬りでも現れたらどうしようかな) 後になってそう思い、少し後悔する。 世の中というものは物騒だから、見境なく人を斬りたがる人間がこの場に現れないとも限らない。 もしも仮に現れてしまったとして、応戦することもできない自分は殺されるだけだ。 けれどしまったとは思うものの、動く気になれず。 顔を埋めたまま、現れた時はその時考えようと呑気なことを思った。 少しは日が傾き、お昼時になってやっと顔をあげる。 常にまともな食事をしているとは言えないため、いつもお腹が空いてはいるが…それよりも空腹を感じる。 ほんの僅かでも何かが食べたい。 そう思って立ち上がろうかと思った頃だ。 がさり、と草と草が動かされてぶつかる音が背中の方から耳に届く。 まさか辻斬りだろうかと、内心焦って振り返る。 確かな足音が感じ取れた。 しかもこちらへ向かってきている。 息を呑んでそっと立ち上がり、音のした方を向いてじりじりと後退していく。 辻斬りでなくても熊が出てきたら死ぬだろうとやけに冷静な判断をしたところで、草むらから何かが現れた。 「――…ん?」 それは熊ではなく、人。 さらに辻斬りでもなさそうだ。 とはいえ信用もできないが。 年齢の推し量れない金髪で赤眼の男。 腰に刀を一本しか差していないところを見ると、武士ではないらしい。 白を基調とした着物に黒の羽織を着た男は、自分の姿を品定めするように頭から爪先まで眺めた。 「小僧…貴様、この近所に住んでいる人間か?」 がさがさと身体を草むらから出してきながら無遠慮に問われる。 ムッとしながらも警戒を解かずに小さく頷き返した。 近所という程近くもないが、さして遠くもないのだから間違いではないはず。 「……どこの方ですか」 武士であろうとなかろうと、相手は帯刀している。 下手な真似はしない方がいいだろうと考えながら、おそるおそる問い返す。 男は着物の至るところについてしまった葉などを取り払いつつ、ほとんど顔に表情を映さず。 刀に左手を置き、鋭い視線をこちらに向けた。 「教えてやる義理はない」 突き放すようにそう告げられる。 聞く必要もないか、と自分でも納得した。 そしてそのまま、お互いに黙り込んで微かな風に揺れる葉の音だけが鼓膜を刺激する。 自分はまだ道場に帰る気がないのだから、別に構わないのだが。 この男はいつまでここにじっと突っ立っているのだろう。 もういっそのこと帰ってしまおうかと少し考えた瞬間。 今まさに動きだそうとしたところに男が口を開いた。 「――動くな」 低い声が響くように聞こえ、やっと男が歩き出す。 一歩、そしてまた一歩とこちらに近づいてきた。 なぜだか男の雰囲気に気圧されて動けなくなる。 「身体中怪我だらけだな…貴様、どこかで折檻を受けているのだろう?」 「…!?」 男の言葉を聞いて咄嗟に一番見えやすい傷跡を隠した。 いつ見えてしまったのだろう。 いや、そんなことよりどうして男は身体中とわかったのだろうか。 自分の反応を見て、やれやれというように男がため息をつく。 隠していた傷跡を見るつもりなのか――腕をぐいっと力強く掴んで引いた。 しかし大人の力には抗えない。 抵抗は無に等しかった。 袖が捲られて痛々しい数多くの傷が日に照らされる。 「身体中、と言ったのはハッタリだが…本当のようだな」 まじまじと傷を眺められて頭に血が上る。 叫び声と共に思いきり手を振り払った。 すると容易に手が解放されて些か驚く。 顔をあげるとにやりとした笑みを浮かべた男と目が合う。 「貴様はいずれいい剣士になりそうだ。死なせるには惜しい」 「…何が言いたいんですか」 「己が信念のために修羅にすらなる覚悟を持て」 「なんであんたなんかに、そんなこと言われなくちゃならないのさ…!」 淡々と話を続ける相手に腹が立ってきて、思わず頭に浮かんだ言葉のまま言い放つ。 正直、男の言ういい剣士になる前に兄弟子たちからの折檻で死ぬ気がしている。 そもそも剣術を学びたくて学んでいる訳でもない。 姉に捨てられて、たまたまあの道場へ――近藤の元へ預けられただけのこと。 兄弟子たちに打ち勝つには剣術しかないというのはわかっているが、あまり身体は丈夫な方ではない。 だから不可能とさえ思って諦めていたのに。 初対面の男にこうとまで言われるとは思わなかった。 「なんなのさ、あんた…」 「――…」 眉間に深く皺を刻んで訝しむように聞いてみる。 返事がくるとはあまり思っていない。 だが。 「俺の名は風間だ。……覚えておけ」 何かを企んでいるように意味深な笑みをし続け、少しずつ離れながら男は名乗った。 判断をする前に「貴様の名は」と聞かれて戸惑う。 素直に名乗るべきではないような気がする。 ああでも自分はまだ幼名。 元服を済ませれば名でわかることはないだろうかと考え直す。 「……宗次郎」 「宗次郎、か。――…では、いずれ会えることを楽しみにしている」 そう言って男――風間は姿を消した。 しばらく呆然としたのち、空を見上げれば日がだいぶ傾いている。 深く考えることはやめ、慌てて道場へ戻った。 この日から十年と少し後に再び出会うことになるとは、自分も…おそらく風間も知らない。 |