水鏡




元々今日は朝から雨が降っていたから、気分はよくなかった。
さらには仕事が長引いてしまって定時にあがれず、怒りをどこへぶつければいいのかわからない。
気づけば、いつもよりも力強く歩いていた。

朝から降っていた雨が強くなっていたことにため息をつき、帰るために愛車へと向かう。
確か今日は一番端に停めておいたはずだ、と心の中で呟く。
その記憶に間違いはなく、愛車は雨にうたれながらもひっそりとそこにいた。
少しでも濡れないように急いで乗りこむ。

「…ふぅ」

運転席に落ち着いて再びため息。
容赦なく降り続けている雨を恨めしそうに見つめた。
早く帰ってしまおう、と考えて車の鍵を取り出す。
そのまま流れるようにエンジンをかけた。待ちわびていたかのように、愛車が音を立てて目を覚ます。
ワイパーを作動させ、ライトを点灯し、アクセルを踏む。
ゆっくりと愛車が動きはじめた。問題なく門を抜ける。
ハンドルから片手を離して腕時計を見る。
時刻は夜の八時を少しすぎた頃。
いつもとたいして変わらない街中を、また変わらないように決まった道を走る。
そうしながら、家に帰って何をするかを考える。
――とりあえず飯だ。それからすぐに風呂に入って、あとはゆっくりテレビでも見ていよう。
明日は休みだから、焦って寝る必要もない。
一週間の疲れを確実にとりたい。










――…だが、そう簡単にはいかなかった。



問題なく自宅のマンションまで辿りつき、エレベーターで数階上がった後、玄関の鍵を開けようとしてふと気がつく。
扉の近くにある小窓から、明かりが見えた。…誰かがいる。
表情を険しくして鍵を持つ手を止めた。
自分は一人暮らしだから、明かりがついているのはおかしい。
消し忘れというのも考えたが、戸締まり等は徹底する方だからほとんどありえない。
だとしたら、中にいるのは誰なのか。
思いつくのは自分の中でトップ3に入るほど大嫌いな泥棒くらいだ。

硬直したまま考えをめぐらせたが、とりあえず中へ入ってみることにした。
鍵を持った手の反対には、万が一のための携帯が握られている。すぐに警察へ連絡を入れられるようにだ。
息を静かに大きく吸ってゆっくりと扉を開ける。
なるべく音を立てないようにした。
靴を脱ぐために足元を見て――気づく。
明らかに自分のものではない誰かの靴。しかし、どこかで見たことがあるような気が――…

「――…あ…?」





まさか。
一つの予想が頭に浮かび、泥棒のことも忘れてリビングへの扉に手をかける。
迷わずに思いきり開けると、想像していた通りの人物が目に入った。


「――Good evening」

あぁ、すっかり忘れていた。
そういえば唯一合い鍵を渡した人物がいたのだった。
自分を出迎えた男の姿を見て思わずため息をつく。最近よくため息をついている気がするのは、たぶん気のせいじゃない。
そんな自分を見て男が不満そうな表情をする。

「なんだよ、待ってやってたのに」

「…泥棒かと思ったぜ。ったく、来るなら連絡くらい入れろ」

口調にまで不満を表す男に、やれやれと言わんばかりに返す。
持っていた鞄を男のいる方向へ放り投げた。もちろんその鞄が彼に命中することはない。
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめる。
それも鞄と同じ場所へ投げた。
ふと、男の視線に気づく。どうやらずっと見ていたらしい。

「――…わざと無視してんのか?」

何かに耐えかねたように男が問いかけてきた。
その言葉が何を示しているのか、当然わかっている。
おそらく…というよりもほぼ間違いないと思うのだが――テーブルに並べられた料理のことを指して言っているのだろう。
意図を察して薄く笑みを浮かべる。
男はそれを見て手にしていた雑誌を閉じ、顔をわずかに紅潮させた。
こちらがあえて何も言わなかったのを、彼も悟ったらしい。

「てめ…!……Shit、もう二度とこんなことしてやるか…!!」

必死に悪態をついている男だが、こちらから見ればもうかわいくて仕方がない。
――だなんて、彼には絶対言わないのだが。

「まぁ、そう言うな。俺のためにしてくれたんだろう?」

「…うるせぇ、俺の夕飯ついでに作っただけだ!」

「……それを『俺のため』と言わずして何と言うんだ」

「――……っ…!!!」

照れを隠そうとする彼だが、追いうちをかけるとみるみる顔を真っ赤にした。
面白い男だ、と心の中で呟く。
不適な笑顔を浮かべたままで男の反対側に座り、両手をあわせる。
耳までも真っ赤な男を尻目に、箸を手にとった。
そのまま料理に手をつけ始めると男は無言で立ち上がり、

「――風呂借りるっ!!」

…と半ば叫んでリビングから出ていった。
魚の煮つけを食べながら思わずククク、と密かに笑う。




















彼の料理は丁度いい味つけで、なかなか美味しかった。





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初出:2009/06/22





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