胡蝶の夢
――…思えば、数日前から政宗の様子がおかしかったような気がする。 武田軍との戦で、いつもよりも政宗が張りきることはわかっていた。 だから出陣してすぐ、後を追うこちらの身にもならず突っ走るのも当然なのだと思ってしまった。 どうして気づけなかったのだろう。右目ともあろうこの自分が。 姿が見えなくなってしまうほど離されてしまい、焦りを感じていた頃。 味方兵の一人が一つの情報を知らせた。 ――政宗が重傷である、と。 知らせを聞いた瞬間、息がつまるかと思った。 表情を険しくしてひたすら走る。どれだけ我が主は敵の中へ突っ込んでいったのだろうか。 気づけば、走りながら名前を呼んでいた。 「政宗様…っ」 必死に名を呼ぶ。けれど返事はない。 姿すらも捉えられないことに、苛立ちも覚え。 次第に不安ばかりが心を支配していく。 柄にもなく、その不安に押し潰されそうだと思った。 「政宗様!!」 無我夢中に名前を叫び続けて走る。 かろうじて生きていた敵兵を何度か見つけたが、彼らがこちらに刀を向けることはなかった。 一様に「た、助けてくれ…!」と繰り返すものばかり。 それが政宗の狂気に触れたものたちだとは知らずに、敵意がないなら構わないと無視していく。 すでに戦が終わっていたというのもあったが、頭の中には政宗のことしかない。 死んだ、という知らせは聞いていない。だが自分を支配する不安が最悪な事態ばかりを予想する。 そんなことはない、と自分の予想を否定しながらもまだ足を止めなかった。 「政宗さ…」 何度目かの名前を呼びかけ、目の前に現れた光景に口を閉ざしてようやく足を止める。 広範囲に敵兵や味方兵が無惨な姿で倒れており、土が血で真っ赤に染まっていたのだ。 数えきれないほど人が死んでいる。 言葉を失いその光景を見つめている時、死体たちの中で仰向けに倒れた政宗と、傍にしゃがみ込んでいる武田軍の忍を見つけた。 「――政宗様…!!」 一度止めた足を再び動かして政宗の元へと駆けよる。 武田軍の忍――佐助とは反対側の位置に座りこんだ。 佐助は悲しみや悔しさ、苛立ちをまぜたような表情でじっと政宗を見つめている。戸惑っているようにも見えた。 …ふと、佐助が意を決したように呟く。 「…勝手にやって悪いけど、旦那の命令もあったし…できるだけの手当てはした」 当然、その言葉が耳に届かなかった訳ではない。 だがすぐに反応を示すことはしなかった。 …いや、できなかったのかも知れない。言葉の続きがわかってしまっていたから。 「――でも…手遅れ、だった」 無理矢理絞りだしたかのような佐助の低い声。 遠回しに政宗の死を知らせるものだったが、言われなくてもわかっている。 だが事実を聞いたところで認めることなどできない。 優しく政宗を抱きかかえる。 己の服が血で染まるのも構わずに。 それから自分は、ひたすら心の中で政宗に呼びかけた。 聞こえない鼓動が、再び動きだすのを信じて。 ――…神というものがあるなら、自分は初めて奇跡を願う。 ………とくん。 それは、ほんのわずかな鼓動だった。 最初、気でも狂って幻聴が耳に届いたのだと考えた。 だが違う。そうじゃない。 一瞬だけ顔をあげて佐助を一瞥し、すぐに政宗の心臓へと耳を近づける。 佐助は怪訝そうにこちらを見ていたが、すぐに行動の意味がわかったらしい。 目を見開き、何か身構えていた。 …とくん。 耳を澄ませば、またもや小さな心臓の音。 聞き間違えじゃない。 非常にゆっくりとではあるが、政宗は確かに心臓の鼓動を再開し始めた。 わずかに、そして確実に、一度消えた命の炎を強めようとする政宗。 佐助が、失笑を浮かべる。 「――…嘘だろ……」 信じられないと言いたげな佐助を尻目に、政宗をそっと抱き上げる。 急いで引き返そうと、来た道の方を向いた。 「ま、待った!右目の旦那!」 慌てて佐助が呼びとめてきた。 一刻も早く引き上げたかったが、応急措置をしてもらったことを思い出して立ち止まる。 背中を向けたままで呟く。 「…世話になったな、忍」 返事をもらう前に、また歩きだした。 翌日。 政宗はまだ、目を開けようとしていなかった。 ただ、奥州に戻ってからも政宗の心臓は動き続けており、速度も次第に戻りつつある。 あとは意識を取り戻すだけなのだ。 政宗の部屋の前。 そこで自分は黙ったままじっと正座していた。 自らの名前が部屋の中から聞こえてくるのを待っているのだ。 予感でしかないが、今日中には目を覚ますだろう。 だから――… 「………ろ…」 嗚呼、神よ。 俺は一体どんな夢を見ているのだろう。 - - - - - - - - - - 初出:2009/06/12 |