愛しく苦しいこの夜に 「彼のしていることを止めさせたい。そして私の気持ちをちゃんと伝えたいです」 今の私の思っていることすべてを奥さんに伝えると私はバッグを手に持って店から出ようとした。すると今まで黙っていたマスターが「待つんだ」と私を呼び止めた。 「行くなら出来るだけ安全な方法を考えよう。コガネまで俺も一緒に行く」 出し尽くしたと思っていた涙がまたこぼれる。 さっきまでこぼしていた涙とは違う、嬉しくて出る涙が。 11:00 マスターがコガネに住む知り合いからいろいろ情報を集めてくれている間、私はぼっと店内を眺めていた。 見慣れたはずのこの風景。でも何か足りない、この感じ。 ふと視界に歪な形をした花瓶が目に入る。 一時期、陶芸にはまっていたマスターの自信作だ。 少し前、この花瓶にはある花が生けてあった。 . . . 「今日もありがとうな、イチコちゃん。おつかれ」 「おつかれさまです!」 「イチコちゃん、ちょっといい?」 「はい。なんですか?」 「少し早いが、当日はイチコちゃんもいろいろ予定あるだろうから…」 そう言いながらマスターがカウンターに出したのは「誕生日おめでとう」のプレートがのったショートケーキだった。1ホールにしてはけっこう大きめで3人では食べきれなさそうな大きさだ。 「これって…」 「お誕生日おめでとう」 「あ、ありがとうございます!」 誕生日は数日後だったけれどお祝いしてくれたことがとても嬉しかった。 アルバイト先でこんな風に祝ってもらえるなんて思いもしなかったから。 そしてもっと想定外なことに、 「イチコさん」 バラの花束を持って現れたアポロさんを見た時は心臓が止まるかと思った。 やはりバラを持った彼は様になっている。 綺麗な顔立ち、スーツにバラ。 王子様という表現も大袈裟じゃないほどに彼の姿は私の目に輝いて映った。 「アポロさん?え、あの…」 「これは私から貴方に」 止まりそうになった心臓が今度はせわしなく動きめる。 なんて言葉を返せばいいのか分からない。…いや。 「ありがとう」だけで済むはずなのに、私は何を考え込んでいるんだろう? 本当はだいぶ前から気付いていたけれど気付かないフリをしていた。 「あ、ありがとうございます…!」 私の、彼に対するこの気持ちは絶対に憧れで恋心なんかじゃない。 歳は10くらいは離れているし、こんなに素敵な人だから恋人ぐらいいるはず、ずっとそうやって気持ちを誤魔化し続けて来たのに。 おめでとうございます、なんて。優しい笑顔を見せられた瞬間、 もうどうしようもないくらいこの人を好きになってしまったんだと思った。 . . . 「…アポロ、さん」 無意識に口から出てしまった、彼の名前。 今となってはこの名前すら本当なのかどうかも分からないけれど。 これから起こることすべて想像すら出来ない。 …けれど一つだけ分かっていることは。 私は彼に会うことが出来るまで諦めない、ということ。 |