愛しく苦しいこの夜に

もう遅い、というマスターの言葉を聞いて私は我慢していた涙をいっきに流してしまった。

どれくらい泣いていたんだろう。
マスターの淹れてくれたコーヒーはまったく減っておらず、おまけに冷めている。何もいれずに一口、そのまま口に含むとみるみるうちにコーヒー独特の香りと苦味が口に広がった。彼はこれをそのまま飲んでいたのかと思うと、やっぱり大人の男性(ひと)だったなあと強く感じた。

大人だというだけでもじゅうぶん距離を感じていたというのに、今ではもう、



10:00



「イチコちゃん。落ち着いた?」


いつの間にか隣の席に腰掛けていた奥さんは、泣き腫らした真っ赤な目を気にしながら私に問いかけた。


「はい、すみません」
「私なんかよりイチコちゃんの方が辛いのにごめんなさいね。ほら、年を取ると涙腺が緩むとか言うじゃない」


マスターと奥さんの夫婦には子供がいなかった。だから奥さんはよく、彼みたいな息子が欲しかったという話をしていていた気がする。

傷付いたのは私だけじゃなくて、マスターと奥さんも同じだ。


「あービックリしちゃった。…ねえ、イチコちゃんはいま何を考えてる?」
「え…」
「私は騙されたとは思っていないわ。今がどうであれ、ここで一緒に笑っていた彼を信じているから」


奥さんのその言葉で思い出した、最後に会った彼の言葉。


「嘘を吐く人間をどう思いますか」


「私は嫌いです」と何の気なしに応えてしまったけれど、もしかして。彼はこのことを私に伝えようとしたのかも、なんて。あのとき知っていたらきっと私は全力で彼を止めたに違いない。それを分かっていたから言わなかったのだと、彼の性格を考えれば分かる。


「…私、は」
「うちの人はもう遅いなんて言ってるけど、私はそんなことないと思うわ。イチコちゃん。貴方が行けばきっと彼……」


分かってくれるはずよ、と言いながら奥さんは下を向いて震えていた。泣くのを我慢しているのが分かる。


「私、朝のニュースを見てすぐにコガネに向かおうとしました。家でじっとしていることが出来なかったんです。マスターの言うようにすべてがもう遅いということも分かっていたつもりでした」
「イチコちゃん…」


「けど、彼のしていることを止めさせたい。そして私の気持ちをちゃんと伝えたいです」


彼は私に嘘を吐いた。
けれどすべてが嘘だったわけじゃない。
彼が私にくれたものは嘘を消してしまえるくらい素敵なものだった。





―――アポロさん。貴方は今何を思っていますか?



 


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