明日も君は正義の味方




墨を垂らしたような夜の底。
天下は隅から隅まで息を潜め、誰もが微睡み夢を見る子の刻、黒い衣服に身を包んだ若い女は術師になりたての日車に微笑みながらこう尋ねた。

「狩りはお好きですか?」

高い所でこちらを見下ろす月の光が冴えわたる夜の話だった。
青白い月明かりに照らされた白い顔は見事なまでに美しく、まるで夢のように秀麗だった。
日車は、この日人生ではじめて推しが出来たのだった。

人はそれを、勘違いと呼ぶのだが。

………

恋とはかくも不思議な現象で、本人もしらない合間に取り返しの付かない状況になっているものである。
いきなり術式が発現したり、30代も半ばになって突然色々なことがどうでも良くなったり、まあまあ理由あって高専所属の呪術師となった日車の教育係として任命されたのは、自分よりも一回りは年下の若干幼さを残す容姿をした女性だった。

人間の汚い所は見飽きたと言っても過言では無いほど見てきた日車にとって、その女性は何とも不思議な気持ちにさせる人間に思えた。
華奢な体格と頼りないほど細い首、小さな手の先に付くまあるい爪は見るたびに違う色をしており、たまに溢す笑い声は滑らかではなやかな物だった。

年齢のわりにはしゃんとしており、人に物事を教えることに慣れているのだろう性格は随分と気安い風で、きちんと着られた黒い衣服はいつも清潔な香りを纏っていた。
老若男女問わず大抵の人間に好かれ、自己犠牲と正義を持ち合わせる戦う者。

そんな女性に、日車はいつの間にやら恋をしていた。
いや、実際本人はこれっぽっちも恋をしているという自覚は無く、むしろ笑い掛けられた時にいきなり暴れ出す心臓を「加齢や体質、疲労やストレスの蓄積による不整脈だろう」ということで片付けていた。

しかし、そんな恋を知らない30代の男を面白がった特級術師やら何やらが助言という名の必要の無いことを言いまくった結果、彼は彼女への「恋」を「推しへの熱い想い」として認識してしまったのだった。

推しが出来るとね、人生が途端に楽しくなるんだよ…最近人生楽しいでしょ?それね、あの子のお陰だから。これが「推しが出来る」ってことなの。詳しくは東堂に聞きなね、アイツ詳しいから。知らんけど。特級術師談。

というわけで、30代半ばにして推しが出来た日車の人生はそこそこ楽しくなってしまった。
やはり人生に必要なのはお金でも宝石でも栄養でもない、「推し」である。
というか金なんてものは術師を続けていれば勝手に溜まっていくし、宝石は言い換えれば推しであるし、推しからは脳に効く栄養が採れるので推しは最早人生の全てである……と、日車は推し活においては先輩である東堂から学んでいた。こうして彼の認識は一つ、また一つと歪んでいった。可哀想なことである。しかしツッコミはいない、何故なら人の恋路を邪魔したい奴かそんな輩が集るコンテンツに身を寄せたくない奴等ばかりなので。労働環境の敗北。

そんなわけで実力は申し分無く、何なら書類業務も現場作業も何もかもが新人詐欺レベルで過不足無く行える、一応建前上駆け出し術師であった日車はめでたく今日で教育期間を終了とすることになった。
実際問題本人からすれば推しと会える時間が極端に減るため全くめでたくないわけではあるのだが、目の前で「これからは同僚として、よろしくお願いしますね」と嬉しそうに言う年下の先輩術師に、日車は「ああ、これからもよろしく頼む」と簡素な受け答えをするばかりだった。

しかし内心では、自分でも理由の付けられない程の寂しさや惜しい感情に苛まれていた。
けれど日車は事前に気を利かせた五条から「それは推しに会う機会が減って悲しくなるファンの心理だから、間違っても別の感情じゃないから。は?恋?何それ、パンダの餌?」と言われていたので、世の中の推しが三次元に居る人間はこうして別れを惜しみながら生きているのだな…と解釈していた。
彼が法律の解釈は天才的なのに恋愛の解釈が上手くいかないのは、全て環境の責任である。労働基準法などこの世には存在しなかったんだ。ついでに親切な恋のキューピットなんてのもいなかったんだ。不幸な話である。

「そうだ、研修終了記念に一緒にご飯しに行きませんか?和洋折衷…日車さんの好きな物で構いませんので」

小さく両手を合わせてパッと表情を明るくしながらそう言った女に、日車は少しだけ息を詰めた。
見上げる瞳は本当に嬉しそうにキラキラと輝いており、口元には愛らしい笑みが浮かんでいる。その姿は紛れもなく日車ただ一人に向けられたものであった。
本当ならばこの時大体の男は「さてはコイツ、俺のことが好きだな?」と気付くものであるが、残念なことに日車は可愛くて面倒見が良くて頼れる女性術師と新人陰気男がくっつくのが面白く無い輩共のせいで認識を歪められていたので、彼女の精一杯の「貴方のことを慕っています」というアピールを、推しからのファンサとして受け取ってしまった。

俺の推し、今日はファンサが凄いな。
新人研修とは名ばかりの一ヶ月毎日フルマラソン生活な日々が無事終わったことへのご褒美というやつなのかもしれん。
今日までは毎日のように会っていたが、明日からは会えなくなるのか…ならば、今日くらいは惜しみなく推しを堪能しておこう。あと、普通に腹は減っている。

「いや、世話になったのは俺の方だからな、君が食べたい物で構わない」
「じゃあパンケーキとか…」
「待て、パンケーキは三食の食事に含まれるのか?」
「あ、そっか…パンケーキはご飯になりませんよね、すみません」

推しがご飯にパンケーキを食べて満足出来る人種だと新たに情報を得た日車は少しだけ体温が上がった。首の裏がやけに熱く、飲み込んだ息は胸の内でいつまでも冷めてくれなかった。

「じゃあ、お祝いなのでお寿司にしましょうか」
「君が良いなら俺はそれで良いが、パンケーキじゃなくて本当に良いのか?」
「パンケーキはまた食べに行きましょう、一緒に!」

好意と信頼を前面に押し出された曇りの無い微笑みに釣られ、日車の口角も少しだけゆるりとほころぶ。
そんな日車にしては珍しい小さな笑みを受け取った女もまた、自然とふわりとした笑みを深める。
正しく二人は良い雰囲気の男女であった。本当に今時珍しいくらいに純情で純粋で順序正しい正統派な恋愛劇、りぼんもビックリな恋模様を健やかに描いていた。
けれどそれは第三者から見た意見であって、日車は周りの要らない気を効かせた先輩術師から仕込まれた通りに「これが…推しが尊いという感情か」と先人達の言葉を借りて感情を処理していた。
なまじ感情処理、情報処理、現在状況の把握…が上手いもので、きちんと与えられた知識を使って順序立てて処理された感情達は、日車の中では全て腑に落ちるものであった。
なので、日車は彼に懸命に好意を示す年下の女の子のアピールを全て無駄にしていた。この場には被害者しか居なかった。

二人は歩幅を合わせ、並んで歩く。
業務終わりで疲れの滲む身体は隣に居る人物のせいだろうか、確かに疲れてはいるのに妙に心地良く、夜がすぐそこまで来ているのに一日がもっと長く続けば良いのにと思ってしまうのだった。

人はそんな淡く柔らかな感情を恋と謳うのに、彼等はそんな言葉を知らないかの如くなだらかに時間を消費した。

誰かが言う、あの二人…どう妨害してもくっついちゃうと。
というかもう、この妨害意味無いじゃん。
だったらもういいよ、早くちゅーしろ、押し倒せイケイケイケイケ!!!

手のひらくるっくる。
やはり全ては労働環境が悪いのかもしれない。

………

年甲斐も無い感情だと持て余していたが、どうやらこの感情は「推しへの気持ち」だったらしい。
言い始めたのが誰だったかは忘れたが、周りに散々言われるうちに自分の不可解な感情に疑問を持たなくなり、上手い具合に落とし所を見付けられてしまったものだから深くは考えないようにした。
深堀したらきっと、自分も彼女も後悔するだろうと考えてのことだ。
俺はお世辞にも誰かに自慢出来るような良い人間とは言い難い、引く手数多の彼女に選ばれ好かれ続ける自信は端から無かった。そもそも、好かれる理由も持ち合わせていなかった。

…あれは、雲の掛からない月の冴えた夜だったことを覚えている。
得物を携え静かに雑木林の中を歩く彼女は名ばかり研修者の俺に「狩りはお好きですか?」と尋ねてきた。
好きも何も、したことが無い。一般的に存在する狩りと呼ばれる狩猟行為は狩猟法によって管理されていることは基より、そういったことを趣味とする時間など無い生活を送って来た。
だから彼女の質問に否と答えたのだ。
そんな俺に、彼女は「ですよね」と小さく笑って言った。

「呪術師の仕事は狩りと同じです、より強い大物を獲ったら称賛される…単純でしょう?」
「だが、この仕事にはその狩りの対象に時々人間も含まれるだろう。君は人間を対象にした任務もそう捉えるのか、だとしたら些か問題に感じるが」
「でも、私が歩いている道は正しいわ」

そう言った彼女の目はこちらを向いていなかった。
何処か遠く、俺には見えない物を見つめながら背筋を伸ばして、当たり前のように揺るがない思いを抱いていたのを確かに感じ取る。

「私達が戦った先に、誰かの明日と幸せが一瞬でも約束されるなら…それはきっと良いことなのだと私は思うのです」

だからどうか挫けないで、これから頑張りましょう。

彼女からしてみれば、きっと他の後輩や新人にも言う叱咤激励の中の一つだったのだろう。
けれど俺にとっては脳が理解を拒みたがる程に眩しくて真っ直ぐで、嫌になるくらい高潔な存在に思えてしまったのだった。

「さあ、夜が明けるまで楽しみましょうか」

深夜手当ても出るかどうか分からない職場の真夜中の任務でも、彼女にとっては楽しい狩りの時間らしい。

間違っても隣になど立てない。
彼女が見ている景色を永遠に俺は見ることは出来ない。
あの眩い精神の傷になることも、汚れになることも、過去になることも嫌だった。そんなこと、許せなかった。

「推し」という便利な言葉と枠組みの中でしか、彼女を想うことなど不可能だ。
それくらいに、あの星影が霞む程に鮮やかな月の下に、俺は不釣り合いだった。

これは恋ではない、誰がなんと言おうと。
便利な言葉が増えた時代になったものだと、俺は先人達に感謝をしたのだった。



短編


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