隣人証明 | ナノ

2-6


仕事終わりに窓の外を確認すれば、小降りだが雨が降っていた。
朝確認した天気予報では降水確率は70%と出ていたので、傘を持ってきていて正解だった。夏の終わりとは言え、日の落ちた夜に雨風に当たれば身体は冷える。

傘を広げて帰路に就けば、自分の他にも仕事終わりのサラリーマンが色味のない傘を差して疎らに歩いていた。
何事も無く駅まで歩き、電車に乗って家の近くの駅で降りる。
電車に乗っている間に雨脚は随分強まったらしく、本格的に酷くなって来た降りから逃げるように駅から出て家の方へと歩いていれば、前方から傘も差さずに歩いてくる黒い制服を着た子供に出会った。

思わず立ち止まってしまったのは、その制服の形に見覚えがあったからだ。
母校の制服、黒い詰め襟に渦巻きの金ボタン…そして、いつか見た…いや、共にあの少女と選び、買った靴を…子供は確かに履いている。
偶然の一致であるだろうに、私の足は雨脚の強まる中、まんまと止まってしまった。

顔を見ようとしたが俯いていたため分からなかった。しかし髪色は黒一色で、見知った特徴と一致しないことに止めていた思考を働かせる。
違う、彼女では無い。違う、別人だ。別の人間、彼女がここに存在している訳が無い。それはあり得ない。ありえないのだ、もう。
だが、不思議なくらいに背格好も歩き方も、髪色以外の全てが尽く似ていた。
私は歩き出せないまま、身体が固まる。思わず呼吸を忘れる程だった。

こんな姿で項垂れながら歩くあの子を、あの頃に何度も見た。
任務帰り、恐怖と戦いながら暗闇を恐れて歩む。救えなかった命を嘆いて俯く。その姿と重なって、一歩も動けない。

徐々に近付いてくるその人物に、思わず傘を差し出してしまったのは、きっと運命であった。

自分の身がしっとりと濡れていく。
ゆっくり、ゆっくりと上を向いたその顔を、鈍く燻る瞳の色を、小さな唇を、私が忘れるはずがなかった。


「………七海、くん?」



ふわふわとした、柔らかく甘い声が名前を呼ぶ。

気付けば差し出した傘を手放し、その華奢で、雨によって冷えきった身体を抱き締めていた。
息を吐き出すこともせずに、背中に腕を回して強く抱き締める。
ありすぎる身長差と体格差のせいで、雨に当たるのは私一人だけだった。
それで良かった、もうこの人が傷付くのも冷たくなるのも、耐えられないほどに嫌だった。二度とそんな目には合わせたく無かった。例えこれが夢だったとしても、冷たい貴女に触れたくないのだ。
自分の熱を分けるように、抱き込む。心に広がる感情に目を向けようとした所で………



ベチベチベチベチベチベチッ !!!

抗議のつもりか、思いっきり背中を叩かれた。怒濤の叩きっぷり。
一気に頭も心も冷えていく。私はこんな土砂降りの中で何をやっているのか。
…あの頃も思っていた感情が呼び起こされる、この女…ムードという言葉を何処かに捨てて来たのだろう、絶対に。
毎回そうだ、馬鹿なのだろうか、それともアホなのか。いや、どちらもか。

人違いだったら……という考えは消え失せた。絶対これは本人だ。遠慮無く背中を叩き、胸に押し付けた顔の口元がモゴモゴ動いて何かを呻いている。
そこで喋るな、いい加減にしろ。
感動的な再会は五秒も続かなかった。

「ンゴゴ〜〜〜!!!」
「叩かないで下さい、次に叩いたら力を更に込めます」
「ンピッ」

叩くのを止めて黙った彼女から少しだけ身を離す、腕の中から逃げ出さないように肩と腰を掴めば、上を向いた彼女がプハッと息をした。
どうやら私は存外焦っていたらしく、息が吸えないくらい抱き締めてしまっていたらしい。

「死ぬかと思った……七海くん?やけに窶れた…というか老けた?今幾つ?四十前半くらい?」
「全てが無礼」
「え、こわ……睨まないでくださいまし…」

腕は掴んだままに、意味を無くした傘を拾い上げて彼女に差し出す。と言っても、私も彼女もずぶ濡れ状態だ。今さら差しても大した意味は無いだろう。

「貴女は一体…」
「説明したいのは山々なんだけど…実は記憶喪失になっちゃって、色々と覚えていなくって」
「…もう既にこれ以上聞きたくない」
「七海くんの名前は覚えてたわね…なんでだろ?友情パワー?」

厄介事の気配が凄い。
疲れた身体にさらなる疲労が重なっていくのをひしひしと感じる。よりにもよって、どうして第一発見者になってしまったのか。
知っていた、分かっていた。この女の相手が自分一人では荷重なことなど、あの日々で十分に経験していた。

「…灰原を呼びます、いいですね?」
「……あ、灰原くん…名前だけは覚えてる!」
「私の家に行きますよ、傘を持って下さい」

眉間を揉みながら掴んでいた手を一度離し、手を握る。
最後に触れた温度を失った身体とは違う、雨で表面は濡れたがその下から熱を確かに感じる身体に息が詰まった。込み上がってくる思いを口に出さずに再び帰路へと足を運ぶ。

理解出来ない奇跡を引き連れ、私はやっと家に帰れた。
長い一日はまだもう少しだけ続く。



___



「本当に本物の灰原くんだ〜!」
「ああ、本物だよ!」
「凄い童顔、七海くんと本当に同い年?どこのエステ通ってるの?七海くんにも是非薦めてあげて」
「言わせておけば…」

何故か覚えていた七海くんと奇跡的に再会出来たので、保護して貰いましたとさ。
と言っても、彼について名前以外のことは正直あまり覚えてはいない。それは灰原くんに対しても右に同じだ。

私の面倒を一人じゃ見切れないと判断した七海くんは灰原くんを召喚し、やって来た灰原くんは私を見て「わあ、色違いになってる!」と驚いたり、私を一頻り抱き締めたり撫で回したり持ち上げてみたりとした後にソファに私を抱えて座った。忙しい奴である。
彼は私にひっついたまま七海くんと話を始めた。灰原くん体温高くてあたたかい…ポカポカで寝ちゃいそう…

「じゃあ、五条さんのことも覚えていないんだ」
「そうらしいです、未散さんの説明が曖昧なので全てを理解仕切れていませんが…」

灰原くんに体重を預けて目を閉じていると視線を感じたので、片目を開く。
一応、今説明出来る範囲はしたはずだ。彼等は門の内側に来た客人では無いので話せることは少ないけれど、私の魂と肉体が全くの別物であることや、肉体が死んだ場合に行き着く先があること、そこから色々あって戻って来たことは七海くんに伝えた。
あと、突然生えた叔父に捨てられたことも。

「その男の名前や特徴は分かりますか?」
「えー…名前は思い出せないわね。特徴は…ヒモ出来そう…黒髪…マッチョ……」
「筋肉なら僕もあるよ!」
「灰原くんだったかもしれない」

もう面倒臭い、灰原くんが叔父ってことにしておこうかな。いや、駄目だ。定義が不安定になれば私の存在もあやふやになる。うぅ……あんな、あんな名前も知らない、私を捨てた男が身内だなんて…悔しい!でも、顔が良い!

くぁっと欠伸をして、眠気を覚ましたくて目を擦ろうとすれば灰原くんに「擦っちゃ駄目だよ」と、手を握られてそのまま身体をユラユラさせられた。寝ちゃうじゃない、やめなさいよ。
堪えなさい私、今寝たら消えそうな気がするから。スゥーー……と消えてく気がするから!

「寝たら消える!」
「赤ちゃんも寝るの怖がる時あるよね」

フロイトの心理学かよ。赤ちゃんにとって眠るという行為が、自分の存在がこの世から消えてしまうことと同じ程の恐怖に値するってやつ。流石にそれとは違うわよ。
あの男が生まれてすぐの私を放置したせいで名前も聞けなかったから、自分が一体誰の姪か分からないせいで定義があやふやになっているのだ。
クソ、やっぱり今から探しに行くしかないか…と、思っていたその時、黙って考え込んでいた七海くんが口を開いた。

「定義付けが甘いなら、付け足せば良いのでは」
「それだ!!」

流石、御見逸れしました…困った時の物知り博士、七海くん。
眠気を飛ばすように灰原くんからぐいっと離れ、腕を組んで仁王立ちの姿勢を取る。
さあ、どこからでもかかってらっしゃい!これでもかと属性を盛ったヒロインにして頂戴!

「僕と七海の友達!」
「甘い!」
「僕達の味方!」
「まだまだァ!」
「えっと…ご近所さん?」
「おかしい…一気に他人になったわね…」

駄目だこりゃ、姪という微妙な立場があるせいで踏み込んだ関係を提示出来ないみたいだ。
うーん…と首を捻って悩んだ灰原くんが口を開く。

「七海、犬と猫どっちがいい?」
「……猫ですかね」

お待ちなって。何故そこで犬猫談義を始めるの?というか、何故こちらを見ながらそんな話をしているの?
え、もしかして私をネコチヤンとして飼おうとしてます?嘘でしょ、今友達って言ったのは何だったの?友情と言う名の関係を棒に振る気か?あまりに雑な扱い過ぎません?

「未散は……七海の飼ってる、猫!」
「はい、私の飼ってる猫です」

「あ!」と思った瞬間には遅かった。
耳が一瞬キンッと痛んだと思ったら、頭の先がムズムズし出して、そのまま意識を彼方へとふっ飛ばした。
身体が後ろに倒れていくのを感じながら、抗うことなく引っ張られる意識に誘われる。
二人が駆け寄る気配がしたが、そこまでだった。

私はこうして、七海くんが飼っている猫擬きになった。

なんじゃそりゃ、勘弁してくれ。
感動の再会じゃなかったのか。

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