隣人証明 | ナノ

2-1


血塗れの妹をこの手に抱いて、叫ぶように何度も何度も名前を呼んだ日のことを、僕は生涯忘れはしないだろう。

あの日、燻る火種を思わせる消炭色の瞳が開くことは二度と無かった。
弾むような柔らかな声が響くことは二度と無かった。
同色の絹の髪が風に揺蕩い遊ぶ姿は二度と見れなかった。

温度を失っていく柔い身体。体内から止め処なく溢れ出ていく赤い血。最後に聞こえた、小さな声。
必死に声を掛け揺さぶった、動かなくなった心臓に涙を溢した。

それでも、白い身体を赤く染めた少女が微笑む日は二度と来なかった。



五条悟に妹が出来て、そのよく似た妹が世界に存在していた期間は2年にも満たない月日であった。

あの日任務に出て行った自分の写しの如き白く、柔らかく、壊れやすい女の子は簡単に帰らぬ人となり、無色透明の灰になって空へと煙と共に昇っていった。

誰もが口を閉ざし、彼女について何一つ語ることはしなかった。
この世界で初めて彼女を見付けて存在することを許してやった五条ですら何も言わずに、葬式が終わり席を立って早々に帰路に就くべく帰り支度をする。
祭壇に飾られた菊の花がわざとらしく咲いて、生きている者を見送る。
少女の如き白い菊が、生者を嗜め嘲笑い、罪悪感を煽っていた。


五条悟には妹が居た。
白く、柔らかく、脆く、必死に生き抜いた妹が確かに存在した。
その存在を、彼は無闇に思い出して汚さぬようにと心の深く深くに沈めた。


もう二度と、妹などいらないと自らに言い聞かせる。
妹じゃなければ、妹でさえなければもっと大切に出来た存在。
五条悟の妹だから戦えと、背中を押してしまったから…未散は戦場に立って死んだのだ。

「兄さんの誇れる妹だった?」

そんなものに成らなくて良いと、言ってやれたならばどれ程良かったか。
ただただ愛して、可愛がって、寄り添うことを許し、大切に仕舞ってやりたかったのに。
自分が最初に間違えてしまったから、妹であることを押し付けたせいで、彼女は五条悟の妹を全うして再び透明になってしまった。

遺品として預かった、彼女にあげたピアスを雑にポケットに突っ込んだまま五条は高専へと帰宅の足を向ける。
参列した友人や後輩は皆バラバラに帰っていき、あとは最後まで残っていた身内の自分だけであった。

空を一度見上げて、息を止めて首を垂れた。サングラスをかけ直し、足を前へと進める。
靴底を磨り減らすような歩き方で敷居を跨ぎ外へと出た。

その時、ほんの一瞬。
刹那の瞬間に、今しがた出て来た敷地の内からピアノの音が聞こえた気がして五条は振りかえる。

その時にはもう何も聞こえなかったが、確かに五条はピアノの音色を聞いた。
こちらとそちらを分け隔てる何かの向こう、きっと彼女は透明のままで居る。
天の庭の真実と、彼女の元の名を五条悟だけが知っていた。

その真実を、たったの一度も誰にも言うことは無かった。




___





『☆五条悟の妹死んじゃった記念開催中!☆』

と、カラフルな丸い文字で書かれた看板が雑に立っている、他にはこれといって何も無い場所に伏黒甚爾は気付くと立っていた。
空を見上げれば太陽の光は見えず、重苦しい灰色の雲が世界を包んでいる。足元は赤土の大地が何処までも果てなく続き、何台ものテレビが置かれ、その画面は常に砂嵐を映し出していた。
「一体ここは何処だ、地獄か何かか?」首を傾げながらもとりあえず足を進め始めた甚爾は、ふと生命の気配を感じ取りそちらへ向かうことにした。

赤い大地をひたすらに歩く。
暑さも寒さも感じない、音も刺激も無い世界は何処までも、何処までも続いて行く。
時折、気味の悪い子供が描いたかのような花がポツリポツリと咲いており、やがて果ての無い道の先にソレは存在していた。

陽気に鼻歌を奏でながら、グランドピアノの前に置かれた椅子に腰を掛けて片膝を立て、前屈みになり足先を弄る女。
……女?こんな所に?


話が通じるかどうか不安な相手であったが、人型をしているので意思の疎通くらいはどうにかなるだろうと考えた甚爾は、場違いな女に「おい」と声を掛ける。

「だめ。待って、今凄く忙しいの」

驚くほど普通に返事を返した女は、身を曲げて真剣に足の指先に何かを塗っていた。

「……忙しいって何してんだ、ソレ」
「ネイルのお手入れだけど?」

あ、これは話掛けない方が良かったタイプの人間かもしれない。甚爾は数秒前の己の判断へ責任を押し付けた。
曇天が広がる空の下、赤い大地と砂嵐を映し出すテレビ達、奇妙な花とグランドピアノ。そんな中で爪の手入れをする女なんて絶対まともじゃ無いに決まっていたのに、どうして話掛けてしまったのか。
しかし、他に現状を知っていそうな住人も居ないため、仕方無く作業が終わるのを黙って待った。

綺麗に両足の爪が色鮮やかに塗り終れば、さらに身を一生懸命曲げてフゥフゥと息を吹き掛けている。
しかし、あの距離で果たして息は当たっているのか。
待つことにも飽々して来た甚爾は、女が座る椅子の前にしゃがみ込むと、足をむんずと掴み片手で扇いでやった。
「まあ」と声を漏らした女は甚爾の旋毛を眺めながら、彼女の中ではお決まりになった歓迎の言葉を口にした。

「…ようこそ、地の果て星の果て、呪いと祝福の狭間、天の庭へ。ここは世界と世界、道と道を繋ぐ中間地点」
「は?」
「それで、貴方は何処へ行きたいの?」

扇ぐのを止め見上げれば、女は甚爾を見下ろしながら笑みを浮かべていた。

行きたい居場所。

そう言われて真っ先に、愛した人と暮らした小さな部屋を思いだす。
世界と世界を繋ぐターニングポイント、途方も無い場所で奇跡を掴む権利を手に入れたかと思った。
だが、思った矢先に感動をぶち壊すような猫なで声で女が「お客様ぁ〜」と声を掛ける。

「なんとねぇ、現在セール中に付き代償三割引セールを行っておりまして」
「は?」
「今なら何とその場で代償値引き!さらに初回限定その場で使えるクーポンも付いて来る!」
「は?」
「この機会をお見逃し無く、よ!」

バチコーンッと、星を飛ばす勢いで華麗にウィンクを決めて、急に始まったセールストークが締めくくられる。
なんだコイツ。甚爾は先程から続く理解仕切れない現状に逃げ出したくなって来た。
しかしそうは行かない。甚爾の肩を小さな両手がガシッと掴む。否、勢いとしてはガシッであったが、甚爾からしてみたら「ふにょっ」 くらいの力加減であった。おい、コイツ押しの割りに力が弱いぞ。

「いやあ、最近どうにもこうにも供物…ゴホンゴホンッ、失礼。"売上"が伸び悩んでいたのよね」
「今、供物っつったよな?」
「嫌だわそんな、聞き間違いよ。生け贄だなんて一言も言っておりませんわ」
「生け贄の方が尚更酷いだろ」

来てはいけない場所に来てしまった。
地獄への入り口か、それともここが地獄そのものか。
ならば目の前の女は亡者の運命を決める冥府の女主人か。
……いや、待て。来た時に確か妙な看板があったような…。

「お前、五条悟の妹…なのか?」
「ええ、そういう時もあったわね。あ、今実は五条悟の妹死んじゃった記念キャンペーンを実施しておりまして」
「俺が調べた時はそんな奴いなかったと思ったんだがな」
「後から生えた設定なのよ」

もうめちゃくちゃだ。
仮に、目の前の女が五条悟の妹だったとして、ではここはコイツの領域か何かだろうか?死んだ人間に作用する術式ってことなのか?魂の契約、肉体への定着、死者を仮初めに甦らせる術、降霊術…。頭の中で可能性を探る。どれだ、何が目的だ。
探るように女を見据えれば、ビクッと身を一度震わせ視線を反らした。おい、やっぱコイツ絶対弱いだろ。睨んだつもりでは無かったが、確実に怯えられた。
明後日の方へと視線を投げ、身を縮こませた相手は「だって…」と小さな声をまごまごと出す。

「私は貴方が居た世界には存在し得るはずの無い命だったから、誰かに定義付けられないと存在を保て無くて…だから五条悟に妹だってことにして貰って…」
「いや、お前の事情とか別に聞いてねぇよ」
「本当は今すぐ戻りたいけど、門を開くための代償が足りないから…」
「だから聞いてねぇって」
「あ、お兄さん魂貸して?」
「流石に金借りるノリで言うことじゃねえだろ」

しかも絶対返すつもり無いだろ。
俺には分かるぞ、何故なら同じノリで何度も女から金を借りたからだ。なのでその手は通じない。

「絶対貸さねえし、妙な契約もしねえ」
「そんな……ちょ、ちょこっとだけ!」
「ちょこっともしねえ」
「先っちょだけ!」
「そう言う奴は大体最後までするんだよ」
「え、魂の先っちょをどうするの…?最後までって…?」

立ち上がった甚爾に縋りつき、お願いお願い!と喚く女を適当に担ぎ上げる。よく分かってはいないが、先程門がどうたら…と言っていたので出入口はあるのだろう。
本当に代償を支払わなければ開かないと言うのなら、最悪コイツを贄にすれば良い、と考えた。

「私に何をする気なの!ま、まさか…年齢制限R-18に該当すると言われるあんなことやこんなことを…!」
「あんなことってどんなことだよ」
「えっと、あの……なんか、ウロボロスマークみたいになる…?」
「お前絶対処女だろ」
「いいでしょう処女だって!もっと誠意を持って!!」

誠意って何だよ、宗教用語か?

「そもそも何処に向かっているの?ここ、田舎の無人駅より何も無いのよ?」
「門があるって言ってただろ」
「門ならここにあるけど」
「は?どこに…」

ここ、と己に指を差す女に会話を止めた。二人の間に沈黙がやって来る、甚爾は一気に気が遠くなり女を担ぐのをやめ地面に転がした。受け身を取った女は、そのまま甚爾を見上げて「ピアノの場所まで帰りましょう」とだけ言って立ち上がり、来た道を戻って行く。

「お兄さん、行きたい場所は無いの?」

後ろを振り返らずに歩む女が語り掛ける。甚爾はそれに無言で返す。

「天国でも地獄でも、麗しの楽園でも醜い現実でも、対価を支払えば何処へだって道を繋いであげる」

甘く、囁くように。生命を冒涜せんとする、意識をまろい声で包み隠そうとしながら女は招き謳う。先に待つものは一体何か。何を支払えば良いのか、支払ったとして正しい道を歩めるのか。
何もかもを曖昧にしたまま、しかし耳障りの良い内容の契約を目の前にちらつかせる。

「一応聞いといてやる。対価の内容は」
「それは……私にも謎。運が良ければ記憶の一部とか、運が悪ければ存在権利丸ごと全部とか」
「質の悪いギャンブルじゃねえか」
「ランダム性があって楽しいでしょ?ちなみに私は初回で存在権利+肉体も持っていかれちゃった」

ドンドン、パフパフ、大当たり〜!と、何が当たりなのか全く分からないが、女は一人ではしゃいでいる。ちょっと感情が理解出来ない。なんだコイツ。

「ああ、だからさっき定義がうんたらってベラベラと‥」
「そう、今の私はまさに寄生虫…誰かに存在権利を委ねないと色の灯らぬ透明の美少女……」
「依存体質の処女ってことか、最悪じゃねぇか」
「最悪解釈やめて貰えます???」
「相手すんのめんどくせぇ、とっとと帰らせろ」

言ってみただけだ、帰り道など期待はしていなかった。
女も、帰せるのなら帰していると首を振って不可能を示す。
そりゃそうだろう、コイツも他に行く場所も道も無いからここにいるに違いない。

「私は悪徳業者では無いのですぐに決めろとは言わないけれど、働かざる者食うべからず…ここに居る間はキッチリ労働して貰いますので」
「食うもんあんのか」
「魚肉ソーセージだってあるわよ」
「魚肉ソーセージは別に求めてねえな」

会話が成り立つのが不思議なくらい、脈絡の無い舵の切り方をする女に段々慣れて来た。
コイツ、あんまり考えて喋ってねえな。

「ちなみに、いつまでも居座るのは無しよ。何処にも行かないのならアレになるから気をつけてね」

指差す先には例の奇妙な花。
……アレって、アレか?あのグロテスクで悪趣味な花になる?
花を見て、女を見て、花をもう一度見る。
ニコリとまろく微笑んだ女が「大丈夫、可愛がってあげるから心配しないで」と馬鹿げたことを口にした。

「じゃあ、精々…悔いのないよう、よーく考えるように」

そう言って、女はピアノのペダルに片足を乗せて、鍵盤を叩き始める。軽やかな旋律を奏でながら、モーツァルトのレクイエムを唄い出した。



「喜べよ、その喜びをあらわせよ、祝福された魂よ」



天の庭に客人を持て成す歓迎の歌声とピアノの音色が響き渡る。
甘く柔らかな音達は、門の外へと時折零れ出す。

いつか貴方に届くようにと願って奏でている。
大丈夫、きっと何処かに私を必要としてくれる人は必ず居る。

門が開かれるまで、もう少しだけ待っていて。
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