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栗の木へ寄り掛かるように身を隠していた黒い物体を視界の端に捉えた七海は、進行方向をそちらに変えて、足音を消しながら近付いて行く。

だが、未だ渇き切らない海水で出来た水溜まりを踏んでしまい、水が小さく跳ねる音が静かな夜の果物園に響いた。

しかし距離にすれば50mも無い、焦らずとも走れば簡単に手が届く距離に相手は居る。
そのことを確認しながら、慎重に距離を縮めていった。


少女が七海に気付き、丸めていた身体を起こしてゆるりと立ち上がる。


そのまま逃げ出すかと思った予想は裏切られ、ケープ付きのコートをヒラリと揺らしながら七海の方へと振り返り、栗の木の影から姿を表すように一歩、二歩、踏み出した。


七海は、覚悟を秘めた瞳と対峙する。


戦う意思を見せるように、少女の足元から水が沸き上がるかの如く出現した獅子のような見た目をした式神が、構えるように身を低くする。

それに合わせて七海も自身の得物を取り出しながら、少女に向けて和解のための言葉を発した。

「どうか大人しく、君の安全は必ず約束しますので」

なるだけ優しく、しかし有無を言わせぬ声色で。
拘束のために歩みを再開させた七海であったが、しかし、それを拒むようにザワザワと呪力の揺れを肌で感じ取った。

水の気配、潮の香り。
嵐の前触れ。
虫すら声を潜ませる。

黄道十二宮の三番目、双児宮の輝きを伴って、その獅子の形を取った式神は低い唸り声を挙げた。

少女は胸の前で指を組み、印を刻む。


「水面の獅子、水天の伯爵…」


「夜に 嵐を」


静かに、涼やかに、粛然と呟くように紡がれた声に次いで、獅子の轟く猛々しい咆哮が闇を裂くように、高く高く空を超え、月まで響き渡った。

駆け出したのは同時。

荒れ狂う大波と共に七海へと襲い掛かった式神は、牙を剥いて彼へと攻撃を開始した。

七海の剣が波を切り裂き、獅子の叫びと共に発生した突風が、豪快に海水を巻き上げうねりをあげる。
鋭い爪が七海の胸元目掛け振り下ろされる、それを受け流し獅子の横っ腹に容赦の無い蹴りを入れるが、全く気にした素振り無く獅子は水煙をあげる波浪と共に次から次へと攻撃を繰り出し続けた。

風波(かざなみ)が七海の髪を濡らす。
地面が抉れ、泥を巻き上げる。
肌を震わす咆哮と、強靭な牙。

拳が嵐を突き抜ける、獅子の前肢が剣を凪ぎ払う。

交わして攻撃をするも、変動である波は中々に対処がし辛いものであった。
縦波、横波、竜巻、高波、津波、水飛沫、水煙……さらには潜水からの浮上攻撃、中々にバリエーションに富んだ戦法に時間がどんどんと過ぎていく。

だがしかし、所詮は戦いも呪力操作も録に知らない素人と歴戦練磨のプロの戦い、徐々に呪力が追い付かなくなって来た式神による攻撃は、どんどんとおざなりになり、やがては形を保てなくなり、ただの海水へと戻っていく。

それでも意地だろうか、少女の前に立ち塞がり七海を行かせまいとする獅子は、己が主人を守るために怨みを込めて唸り続ける。

そんな式神の後ろ、静かに凪ぎいた瞳で何処か遠くを見つめていた少女は、「ヴィヌ……ありがとう、もういいわ」と呟き式神に下がるよう命じた。


少女の一声で、一気に夜の静けさが戻ってくる。
ベタついた潮風は消え去り、冷たく湿った ただの風が吹く。

一度周囲を見渡した少女は、息を小さく吐き出すと、「疲れました…」と七海へ向けて言葉を発した。

「戦うって大変なんですね、まあ私突っ立ってただけなんですけど」
「……海水を撒いて身を隠す作戦は中々のものでしたよ」
「他には?」
「他に…とは?」

「褒められるとこ、褒めてみて下さい」と、湿っぽさの無いスッキリとした笑顔で言う少女があまりにも"普通"であったため、日夜 非日常に身を浸す七海は少しばかり絆されそうになり、気が緩んだ。
今しがたまでの戦いは何だったのだと言いたくなるような、平々凡々とした空気に思わず流されるがまま、七海は喋る。

「そうですね…最初の海水での不意打ちは少し驚きました」
「ほうほう」
「それから、思ったよりも冷静に逃げていたことにも」
「ふむふむ」
「あとは、式神任せとは言え、中々に良い戦いでしたよ」

大人として子供を褒める。
乞われるがままに、七海はツラツラと平淡な声で褒め言葉を送った。
それを「なるほど……」と呟いて聞き終えた少女は、「ありがとうございます」と一つお礼を言ってから、一度瞳を閉じて考えるような悩むような素振りをし、やおらに口を開き直した。


「ああ、しかし……どうしてでしょう」
「………どうして、とは」

遠くで、虫の鳴く声が一つ聞こえた。

静かな闇に響く疑問がぽつり、と発される。

「同じ顔、同じ声、同じ語り口なのに………貴方の世辞には全く、微塵も…興味が湧かない」


つまらないことを聞いてしまった、無駄な時間を過ごしたな。
少女は淡々とそう言い捨て目を細めると、七海へ…否、その背後に向けて指を一本突き出し「ところで、」と話題を変える素振りを見せた。

「ここでクエスチョンタイム」
「何を、」

指の差し示す先、黒く暗い闇の中、下ろしたはずの帳が割れ、消えていく。

空が晴れる、何の遮りも無い月の光が差し照らす。

七海の警戒を他所に、少女は微笑みこう言った。



「うしろの正面、だぁれだ」



少女から見て正面、七海にとっては後ろ、そこに現れた"ソレ"を振り返り見た七海は目を見開き、呼吸を一瞬止め、動きを停止させた。

鏡写しの敵対者。
自分と同じ顔、同じ背丈。
見紛うこと無き、自分。
だがしかし、明らかに己とは異なる何か。

一瞬の隙。
だが、その"何か"と少女にとっては、一瞬あれば全てが解決出来る問題であった。


信じ合う者を救うために振り下ろされた一太刀は、風圧を伴って七海にダメージを与えんとする。
咄嗟に不意討ちの一撃を正面から受け止め、それにより体勢を崩した七海を振り払うように押し退け、少女の元へ一瞬で駆けたソレは、ソレに向けて目一杯伸ばされた手を掴み、小さな身を掻き抱くとさらに速度を上げて果物園の外へと走り逃げ去って行く。

追うために足を踏み出した七海であったが、しかし、行く手を阻むように出現した強い雨と暴風を伴う大波…すなわち嵐のせいで身動きが取れなくなった。

「クソッ」

目もまともに開くことの出来ない強制的に引き起こされた自然現象の中、七海は逃げ去る存在に頭を悩ませるのであった。
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