拝啓夏よ、 | ナノ

▽ 1-8



とうとう蚕が実家に帰る日となった。
珍しく、朝早くから蚕はしっかりと起きていて、荷物のチェックをせっせとしていた。
それを見て僕は何とも言えない物悲しい気持ちになる。今すぐ荷物をめちゃめちゃにしてやりたい気分であった。
蚕は「すぐ終わらせるから待っててね」と僕の気持ちなど知らずに、いつものようにアッサリと言う。
それに対して「ゆっくりやればいいよ」と、少しでも残りの時間が長引くように言葉を返す。
しかし、「嫌よ、さっさと終わらせて最後の時間はミーシャとちょっとでも多く居るの」と珍しくも不機嫌そうに蚕は言った。

その言葉を受け、僕は嬉しさで口元をもにょもにょと形変える。しかし、同時に本当に最後なのだと実感してしまう。
今ここに居るのに、明日の朝には迎えに来たって居ないのだ。
こんなに楽しく鮮やかな時間を与えておいて、一人では無い喜びを覚えさせておいて、ミーシャ だなんて他の誰も呼ばないであろうあだ名までつけておいて、これから一緒にしたいことだって語ったのに。蚕は昼を過ぎたら電車に乗って遠くへ行ってしまうのだ。
子供じゃ簡単には行けない場所へ、そしてこの街には二度と帰ってはこないかもしれないと。
寂しくて、悔しくて、お腹の奥が冷たくなる。ただただ蚕の荷物が入った大きいリュックを見つめてしまう。最後なのに、何を話せばいいか分からない。

ジジジッとリュックのチャックを閉め切り、蚕は顔を上げた。
僕をしっかりと見て言う。


「最後になんてさせないわ」


絶対ね。と強気な笑みで、力強くそう言った。
そうすれば、ザワリッと蚕の影が波打ちあの影法師が姿を現す。
腕を組んでニヤリと笑うように口を開き目の無い瞳でこちらを見る。

「絶対よ、絶対また会えるわ。私には自慢の相棒が居るの、世界の何処にだって指先が届くのよ。」

「だからミーシャ、貴方はもう私の影の上なのよ。」

零れ落としなんてしないから安心して、と影法師とグータッチをする姿は 今までの蚕の印象をガラリと変える。こんなに頼もしそうな奴だったっけ?あれ?と考えつつも、すぐにその「絶対」に気分がグワリッと高揚する。
息を浅く吸い込む、絶対会える この世界に居る限り、蚕の影は僕に触れているのだ。

それは、あまりにも、本当に嬉しくって飛び跳ねてしまいそうだった。
誕生日の朝より、クリスマスより嬉しかった。
耳の奥がザワザワする、指先が溶けてしまうかのように熱い、胸の奥でパチパチと何かが爆ぜる音が聞こえてくる。

衝動のままに身体を動かす、もう制御なんて出来っこ無かった。
畳を蹴り、両の腕を蚕のか細い体に伸ばす。真正面には驚き目を見開く顔があった。そのまま背中に腕を回しギュウッ…と小さな身体を抱き締めた。抱き締めてしまった。
存外冷たい身体であった、柔らかそうだと思った身体はそこまで柔らかく無く、骨を感じてしまって こんな時なのにもっと食べて欲しいと思ってしまった。

蚕は「うわあ、ええ、なに?」と何故か微妙な声で混乱しているが構わず頬を柔い甘い香りがする髪にスリスリと擦り寄せる。
影法師がオーバーリアクションで「キャアッ!(/▽\)」とでも言うようなポーズをしてすぐさま影にとぷんっと潜り込む。

もう邪魔をする者は誰も居ない。

先ほどよりも強く抱き締めて、より大切に背中をなぞる。もう悲しくないのに、すっごくすっごく嬉しいのに涙が零れ出す。そう言えば、出会った時も泣いてしまったのだったっけと 泣き顔を見られないように薄い肩口に額を押し付けた。
ややあって、蚕もソロリソロリと僕の背中に小さな手を這わせる。むず痒い、だから「もっと強く」と我が儘を言えば 言葉通りに力を込めた。力を込めたところで弱いのだが、それでも確かにその手の平の感触を感じて胸の中が熱く、心が震えるように満たされていくのが分かる。

「嬉しい……」

そう溢せば、蚕は「私にここまでされて喜ばない人類は居ないわ」と何だかとてつもないことを言っていた。コイツ本当こういうとこ。

「まあここまでするのは君だけなんだけどね」と、ついでのように付け足すものだからさらに嬉しくなって堪えきれない笑みで口元がニヤける。
嬉しくって仕方がなくて、えへへ と声に出せば蚕も僕の肩に頭をグリグリ寄せてくる。


そのまま昼が来るまでずっとそうして話をしていた。

例え僕が外国に引っ越してもはてなに探しに行かせるだとか、大人になったら一緒に出掛けてみようとか、蚕は温泉に行きたいとか。
本当は置いて行くのが心配なこととか、これから自分がどうなるか分からないとか。
でもどうなっても必ずまた会うからと、絶対何がなんでも会うからと、何度も何度も約束を交わし、何度も名前を呼んだ。まあ蚕は僕を名前では呼んでくれないのだが、それでも他の誰も呼ばないこの愛称が今では特別な宝物のように眩しく愛しく感じてしまうのだ。


とうとう、好きだとは言わなかった。
可愛いとも、美しいとも綺麗だとも言わなかった。
心の中では何度も言っていたけれど、最後の最後までそれは言えなかった、僕にはまだハードルが高過ぎた。

しかし、これが最後じゃないのだと蚕は言う。
ならば、次の時こそ言葉にしようと心に誓った。


そうして蚕は最後に「またね、ミーシャ」と、軽やかに三つ編みを揺らし うっとりするほど可愛い笑顔を向けて僕にそう言い、祖母と共にタクシーに乗り込んで駅へと向かって行った。


こうして夏油傑の小学一年生の夏休みは閉幕となる。
忘れられない夏の思い出となって心の内に残る。


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拝啓君よ、夏が恋しい。


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