▽ 2
灰色の雲からぽつぽつと雨粒が落ちて来た頃、小さなノックの音が静かな室内に響いた。
「入っておいで」
声を掛ければゆっくりと扉が開く。顔を覗かせたのはもちろん葵。制服から部屋着に着替えた葵の髪は、シャワーを浴び終えてすぐにやってきたことを示すようにしっとりと濡れていた。
葵をソファに座らせた馨が部屋を出ると、そこにはドライヤーを手にした使用人が待機していた。
「本当に気が利くね」
労うと彼は頭を下げ、そして静かに立ち去っていった。ニコラスといい彼といい、馨の行動を先読みして動いてくれるのはありがたい。
葵の身支度を整えさせる行為を面倒だと思ったことはない。時間が許す限り、自らの手で世話を焼いてやる。だから今も濡れた葵の髪を乾かしてやるのは馨の役目。
葵もそれをよく理解しているからやってきたのだ。
温かな風を当てると、一瞬葵は眉をひそめる。熱かったわけではなく、これは怯えだ。幼い頃、馨の目の届かぬところで葵は母親に虐げられていた。この反応は、その名残だ。
馨の妻でもあったその女性を遠ざけるのは簡単だった。大切な葵を傷つける存在は誰であっても許しはしない。けれど、馨はしばらくの間、生活を共にしそれを放置した。葵が馨だけに依存するきっかけになると考えたからだ。
馨の思惑は外れ、葵は自分を虐げる母親のことも恋しがり続けたけれど、結果的にはこうして二人きりの生活を得たのだから問題はない。
それに、葵の色素の薄さは彼女の血筋によるところが大きい。その点では大いに感謝している。元々、それを目当てにしてはいたのだけれど。
「少し伸びたね。今度整えようか」
さらさらと指通りのいい柔らかな髪。帰国してから一度切り揃えたけれど、そろそろ頃合いかもしれない。
「それとも、ドレスに合うようにこのまま伸ばしてみる?」
乾いた髪を一房掬い、口付けながら問い掛ける。当然のように返事はない。
今だって決して短いわけではない。丸みを帯びたカットのおかげで十分に可愛らしい印象を与える。でももう少し長ければ凝ったアレンジも出来るかもしれない。
今はまだ決断をせず、衣装のフィッティング時に考えるべきだろう。一人納得した馨は、ドライヤーの風を止めた。
「それで?柾とどんな話をしたの?」
葵の隣に座り、唇に触れる。喋るよう促す仕草だ。だから葵は戸惑いながらも、ゆっくりと口を開いた。
「試験の結果と、部活のこと」
「そう、どこに入るか決めさせられた?」
あの柾なら強引な手段に出かねないが、葵は首を横に振って否定した。大方、ニコラスがうまくコントロールしてくれたのだろう。
だがその場凌ぎに過ぎない。何かしらに所属させなければ柾の気が収まらないことは予測できる。葵に馨以外の刺激を与えるような環境も交友関係も築かせたくはないけれど、ひとまずは流れに身を任せるしかないだろう。
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