Happy Birthday Levi 25/12/2019
13 午前0時のジムノペディ
人はなぜ数字を知りたがるのだろう。
例えば、手術の成功率。
失敗する確率がどれほどわすがな数字であっても、私は知りたくない。
人間は完璧ではないから、どんな手術にも失敗する可能性がある。
成功したら生きていくし、失敗したらいつの間にか死ぬことになる、以上。
私はこれがシンプルで好き。
ちなみに今回の成功率は、家族が先生にわざわざ聞いて私に伝言してくれた。
お陰で私は、一日のうちの半分を成功したその後を考えることに使い、もう半分を失敗したその後を考えることに使わなければならなくなった。
どんなにわずかな数字であっても、その存在に頭は引っ張られてしまうのだ。
お節介だと思う、本当に。
私のためとのことだろう。
もしくは、彼ら自身のためかもしれない。
今ではもう、どっちでもいいことだけれど。
目を閉じると、頭の中をピアノの音の粒が流れていく。
まるでたゆたうような、静かな波に乗って。
その波をたどっていくと、今度は細く白い糸に裂け、五線譜となる。
さらに五線譜をなぞっていけば、音の粒を生み出す指先が見えてくる。
すらっとしていて、しかし関節はしっかりとした指だ。
その10本の指が、薄暗闇でゆるやかに踊っている。
「リヴァイ。」
教室用の部屋のドアを開けて入り、ピアノの隣に立つ。
彼は弾きながら私を目だけで見上げ、再び視線を鍵盤に落とした。
「またその曲?」
彼の座る椅子に、無理やりお尻をねじ込む。
演奏中にちょっかいをかけられることを嫌う彼。
迷惑そうにこっちを睨んできた。
しかし演奏は意地でも止めないらしい。
「お前、病院は。」
「行ってきた。」
渋々といった様子で、彼は長方形の椅子のやや向こうに寄ってくれた。
なぞる鍵盤が遠くなってちょっと弾きづらそう。
スペースを作ってもらえたので、私のお尻は安定感を得る。
並んで座ることができたから、鍵盤の上を撫でるように動く指を眺めた。
一つ音を出すごとに手の甲の骨が浮き沈みする。
指の付け根の皮膚が張ったりしわになったりする。
テンポが四分の三拍子のゆったりした曲だから、その変化がつぶさに観察できた。
やがて一番を弾き終えた指が、余韻を残しながら、そっと白い鍵盤を離れる。
「この曲、うちに来ると必ず弾いてるね。」
「どうだろうな。」
「しらばっくれて。雑誌の記事にも書かれてたよ。“ジムノペディばかり弾く変わり者の若手奏者”って。」
「そうか、興味ねぇな。」
弾き終わったから帰ってしまうのではないかと思ったが、彼は譜面台の横に置いていた携帯を取って、メールか何かの返信をしている。
ピアニストだった母の、自慢の教え子、リヴァイ。
私より一回り年上で、お兄ちゃんみたいな存在でもあり、誰よりも心を通じ合わせた相手だ。
彼はオーストリアにある有名な音楽大学を卒業し、国内外で精力的に演奏を行っている。
たまにうちへ顔を出しては母親に近況報告をし、軽くピアノを弾いて帰るのだ。
「ねぇ、今度はアメリカでコンサートなんでしょ?いいなぁ、私もアメリカ行ってみたいなぁ。」
「お前はちゃんと高校を卒業して、ちゃんと体を治せ。」
ちゃんと体を治せ。
何度言われたか分からない、その台詞。
顔を会わせれば、いつも私の体調を気にしている。
四六時中むすりとしているくせにやさしいのだ、彼は。
ぬくもりが恋しくなって、私は悪戯に、リヴァイの肩へ頭をゆだねる。
ややあって、こちらを覗き込むような仕草を感じたから、顔を上げた。
すると、すくい上げるように、キスをされた。
首筋に手が触れて、下唇をやわらかく食まれる。
お互いの淡い吐息でしっとりと湿った唇が気持ちいい。
温度の高い彼の粘膜は、低体温の私を内側から火照らせていく。
「悪い。体に障るな。」
リヴァイはやんわり唇を離した。
そして、短く笑って私の額や目元を撫でた。
「顔、赤くなっちまってる。」
親でもないのに過保護だ。
それに、大人っぽいキスをしても顔色を変えないところが年の差を感じて悔しい。
せめてもの反抗として、ちょうど頬を下りてきていた親指をカプリと噛んでやった。
ついでに口の中で指の腹を舌でなぞってやれば、リヴァイは眉を寄せて身じろぎする。
「おい、なまえ。」
大事な指を噛まれた苛立ち、そして不健全な光景と舌の感触に焚き付けられた情欲。
その二つを表情に滲ませ、目を細める。
ざまあみろ、だ。
「なまえさん、そろそろお時間ですよ。」
17の頃の記憶をたゆたっていた意識は、看護師の声によって引き戻された。
今ではピアニストとして成功し、世界を飛び回る彼。
24日の今日はロンドンにいる。
大きなクリスマスコンサートで弾くそうだ。
今年もプレゼントを買いに行くことができなかった。
直接「おめでとう」を言うこともできない。
だから手術が終わって、もし生きてたら電話で伝えよう。
出し抜けに「会いたい」なんて言ったら、きっといつも通り「早く体を治せ」とやさしくたしなめられるに違いない。
そんな甘やかな想像をしながら、オペ室に私は運ばれていく。
待ち受けているのは、人生で経験した中で一番大きな手術だ。
これから全身麻酔をされて、次いつ目覚めるか分からない眠りにつく。
できれば成功してほしい。
できれば25日までに目を覚ましたい。
……できれば長く生きていたい。
あぁ、油断するとすぐこれだ。
欲を出せばきりがない。
でも私は神様には祈らない。
ご先祖様にも頼まない。
私は粛々と、まぶたを閉じる。
そう努めるのだ。
***
病気がちな幼少期、大人になってからは病院とお友達。
一度治っても再発して、の繰り返し。
そんな生活が当たり前で、期待することにも疲れてきた。
祈ることすら、気が進まなくなった。
神様や仏様だって、無茶なお願いを何十回も押し付けられたら疲れてしまうだろう。
淡々と、痛みに忍ぶ。
それが私の人生だと、自分に言い聞かせてきた。
ねえ。
私ね、あなたが何故あのピアノ独奏曲ばかり弾くのか知ってるんだ。
親指を噛んだ日の帰り際、母親とリビングで話している内容を立ち聞きしちゃったの。
一つの曲にこだわる理由を訪ねる母に、少し黙ってからあなたは打ち明けた。
大学を卒業して間もない頃、風邪を引いてかかった病院の待ち合い室で、サティの有名な独奏曲が流れていたこと。
診察の時、“あの曲の旋律には癒しの効果がある”と医師に教えてもらったこと。
そして、
「俺の演奏を、なまえが聞くので。」
静かに、それでいてはっきりとした声色で、そう言った。
すごく驚いた。
あなたの出演するテレビやコンサートを私がくまなくチェックしていること、母親が撮ってきてくれた録画を何度も観ていること、あなたは知ってるんだよね。
私の耳に入るものが、なるべく良いものであるようにと。
直接聞かせてやれなくても、音は画面を越えられるからと。
彼は、ジムノペディを弾く。
なんて子ども染みていて、健気。
他の曲を弾けば、もっと仕事が来るかもしれないのに。
私のためだけに、彼は同じメロディを奏でる。
変わり者と呼ばれても、気にも留めずに。
呆れて、愛しくて、廊下で一人で泣いた。
やさしいよね、リヴァイは。
本当にやさしい。
でも、実はね。
あのときから、あなたのピアノを聞くと理由もなく涙が出ることがあった。
パソコンを投げ出したいほどの衝動に駆られたことがあった。
その反動で襲ってくる自己嫌悪に、吐きそうになった。
あなたの想いは真っ直ぐ過ぎて。
この弱い体は、卑屈な心は、そっぽを向きたくなってしまう。
そういう不安定な時期と、淡々と日々を過ごす時期を、長いこと繰り返してきた。
薬、病院、病院の先生、家族……毎日何かに助けられ、どうにかこうにか生きてきた。
ふと、自分が今、真っ暗な場所に立っていることに気付く。
何故ここはこんなにも暗いのだろう。
どっちへ進めばいいのか分からない。
それに、なんだか、疲れた。
ここはあたたかいし、眠い。
このまま寝てしまおうか。
私、十分頑張ったもの。
暗闇に浸かりながら、ぼんやりと思う。
するとふいに、ピアノの音が聞こえた。
辺りを見回すと、どこからか音の粒が流れてきいた。
まるでたゆたうような、静かな波に乗って。
落ちそうなまぶたをこじ開け、その波をたどっていくと、今度は細く白い糸に裂け、五線譜となる。
さらに五線譜をなぞっていけば、音の粒を生み出す指先が見えてくる。
すらっとしていて、しかし関節はしっかりした指だ。
その10本の指が、薄暗闇でゆるやかに踊っている。
私はそれを遠くから眺めている。
でも、あぁ、嫌だな。
あの音を聞けなくなるのも。
鍵盤を叩く指を眺められなくなるのも。
彼の想いに応えられないのも。
嫌だな。
指先に触れたくなって、手を伸ばそうとする。
うまくいかない。
周りの黒が、まるで水中にいるような重さを持つ。
痛くて重たくて、ままならない。
まるで私の人生みたい。
それでも、もがくように、力を振り絞った。
「──……!」
黒が開け、そこにあったのは、紺色に染まった天井だった。
お腹の辺りがズキズキする。
体からいくつものチューブが延びている。
頭の回りも鈍い。
酸素マスクが窮屈だ。
徐々に肉体へ馴染んできた、生きている、億劫な感覚。
病室に寝ているのだと、理解もし始めた。
「!」
ふいに、伸ばした手が、あたたかいものに包まれた。
それは手のひらだった。
すらっとしていて、それでいて間接はしっかりしていて、一目見ただけで分かる、それが母親のものではないことは。
重い頭を、腕が伸びてきているほうへ傾けた。
なんで病院にいるの?とか。
まだロンドンでしょ?とか。
いろんな言葉が喉まで押し寄せる。
言いたいことがあり過ぎて、言葉にできない。
大好きな指先が、額にかかる髪をやさしく払ってくれた。
「ちょうど午前0時。奇跡みたいなタイミングだな、なまえ。」
大好きな声が鼓膜を震わせる。
「メリークリスマス。手術は無事に終わった。俺にはこれ以上ないほどのプレゼントだ。」
大好きな青灰色の瞳がこっちを見つめてきている。
「……なんでいるんだって顔してるな。先生に頼んで付き添いを代わってもらったんだよ。サプライズってやつだ。それとも俺じゃ不満か?」
不満なわけがない。
まさか目が覚めたら最愛の人がそばにいるなんて、思ってもみなかったから。
もう二度と会えない可能性もあるとすら、思っていたから。
目頭から熱いものがこみ上げてきて、下まぶたのふちを溢れていった。
ねえ。
今まで、あなたのジムノペディと喧嘩する日もあった、でもね。
あなたの想いを聞き、あなたに想いを馳せるときは、やっぱり体がピリッと引き締まる感じがした。
未来を望むことにへとへとになっていても、どんなに現実に冷めていても、私の心の最も近くに寄り添ってくれたのは、あなたの演奏だった。
さっきだって、暗闇の中にいた私を導いてくれた。
いつかのように、また鍵盤をなぞるあなたの横に座れたら、そんな幸せなイメージもできた。
クリスマスプレゼントをもらったのは、私のほうなんだよ。
かすれる喉から息を吸って、吐いた。
「誕生日、おめでと、リヴァイ。」
あぁ、震えていて、小さくて、なんて情けない声。
でもこの大切な日に、一番最初に伝えることができた。
「あと、ありがとうね。」
きれいな青灰色が、揺らめく。
顔を上げて、リヴァイ。
だって今日はあなたの誕生日。
在りしこの日にあなたは生を受け、そして今ここにいる。
その事実以上に尊いことはない。
ねえ。
今ね、ちょっと分かったことがあるの。
たぶん私、あなたに「おめでとう」と「ありがとう」を言うために生きているんだと思う。
そのために生まれてきたんだと思う。
空から降ってきたみたいに、そう感じたの。
だから、きっと元気になる。
元気になって、これから伝えていくね。
受け取った旋律のぶん、へそ曲がりなせいで言えなかったぶん、そして、人生を共に歩みながら。
心からの「おめでとう」、そして、ありったけの「ありがとう」を、あなたへ。
けれどもう少し甘えていいのなら、どうか今は、この手を握っていて。
帰ったら、隣であなたのピアノを聞かせて。
end.
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