夏の夜の

「ほれ」

「おっと…」



障子を開けるなり放られたものをあわてて受け止めた。紅杯だ。月明かりにきらりと艶めく器は一目見ただけで上物だとすぐに分かる。

放った本人は窓際で大胆に胡座をかいており、手の甲に顎をのせたまま此方に首を傾げるとにんまりと笑った。


「飲まぬか」

「明日ガッコなんだけど」

「若いもんがなぁにをいっとるんじゃ」

「俺は良いけど昼が困るんだよ」

「リクオ」




涼やかな声は月夜によく通る。
若かりし姿の祖父の声音は月明かりの中で悲しげに自分の名を呼んだ。



「……わかったよ」









誰に急かされるわけでもないのに銚子は瞬く間に空いていった。さすがはぬらりひょんの孫というべきか、リクオは顔色ひとつ変えることなく杯を空けていく。


爺、何考えてやがる―――



紅杯を傾けながらこそりと祖父の顔を伺う。 くぅっと喉を鳴らし酒をあおり目を細め、杯を置いたかと思えばキセルに口をつけ紫煙を漂わせる。
説教か、ただ酌をする相手が欲しかっただけなのか。



「最近の奴良組の調子はどうじゃ」

「変わりねぇよ、皆よくやってくれてる」

「そうかい………ワシの百鬼もすっかりお前の色に染まっちまったのう」

「んなことねーよ。古参の奴らは…特に一つ目とか牛鬼なんかはまだ爺を追ってる気がする」

「悔しいか?」

「……さぁな」



ふ、と笑みを浮かべて酒をあおる。
今日のぬらりひょんは調子が狂う。
否、常に狂わされてはいるのだが今日は特に、歯車がうまく噛み合わないような、別人と会話をしているような違和感を覚える。

悲しげかと思えば挑戦的な言葉を投げてくる。
虚ろかと思えば張りつめる。
夢か現か。
その目は何処を見つめているのか。




「爺…」

「……季節は移ろうもんじゃ、」


ふいに言葉を遮られ、金無垢が此方を向く。



「近頃とみにそう感じる。狐に肝を抜かれ寿命が縮もうと何のことはなかったんじゃが。……隣がおらんだけでこんなにも虚しくなるとはのう」

「……寂しいのか」

「わからん、もう涙も流れん。枯れ果てたか、はたまたワシの体が泣くことを拒んどるのか」



親父…
小さく声に出してみてから、ふいに緩んだ涙腺に歯を噛み締めた。
鯉伴との思い出はそう多くはない。亡くしたのが早すぎたせいもあるが、思い出にする必要が無かったというのが一番の理由だろう。

記憶に残さなければいけないほどすぐに居なくなるとは思わなかったから。
手を繋いで歩いた、抱き上げてもらった、頭を撫でられた、笑いあった。
それらがこんなにも遠くて曖昧で、どう足掻いても二度と得られなくなるだなんで思わなかったから。

数えきれない"思い出"になるはずだったものは今では微かな記憶でしかない。それが時々堪らなく寂しくなるのだ。



「泣いてもいいぞ、リクオ」

「冗談。爺の前でなんか泣かねぇよ」

「くくっ、小せぇ頃は何かと儂にひっついてわんわん泣いておったくせに」

「なっ…んなわけねーだろ」

「おとうさんんんー」

「…………なんだよそれ」

「お前の泣き声じゃ」




その場面を思い出したのか、ぬらりひょんは微笑からいつの間にか盛大に笑い声をあげていた。
べつに覚えているわけでもないのに、リクオの頬は恥ずかしさで真っ赤に色づく。



「ぶははっ…もうたまらんな。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔をすりつけるんじゃからなお前…くくっ、」

「覚えてねーよ」

「イタズラ小僧に泣かれるとうちの奴らはよわいからのぅ、儂に子守りが回ってきおる」




苦しそうに呼吸する祖父。まるでそこにリクオの涙や鼻水がついているかのように膝の辺りを手で払った。
渇いた喉を酒で潤したぬらりひょんがまた少し笑う。銚子はもう残りわずかだ。




「もうお前もこんなに大きくなっちまった。それでも儂の記憶はまだあの頃のまま、季節一巡りもしてはおらん…」



カンッと叩かれた煙管からほろりと灰が落ちる。




「いつから季節なんぞに目を向けるようになったのか…花の香を嗅いだ、紅葉の葉を摘まんだ。ちいせぇ変化にいちいち足を止める。けどそれが不思議と嫌じゃない。のう、リクオ…」


すぅ、とぬらりひょんは息を吸い、苦笑と共に呼吸した。




「ワシの季節はまだ移ろわぬままじゃ」



一瞬。目の前の祖父の姿が歪んだ気がしてリクオは瞬きを繰り返した。
麗しく若々しい姿がぶれて老いた姿に変わる。顔全部のシワをくしゃっと寄せたような不格好な笑顔は百鬼を統べる総大将ではなく、幼い頃から見慣れた祖父の顔だった。








『お父さんは?』

『出入りじゃよ』

『今日も帰ってこないの…?』

『そうじゃな……なぁにちょっと苦戦しとるだけじゃ、今日はこの爺と遊ぼうなリクオ』




何度こんな会話をしたのだろう。
無垢な瞳で尋ねられれば、側近までもが胸を締め付けられる思いを隠せず押し黙ってしまった。
そのタイミングを見計らったように現れるぬらりひょんが子守りじゃ子守りじゃとリクオをさらっていく。

ただの予想でしかないけれど、きっと幼い自分は執拗に父の居場所をあちこちで質問していたと思う。
唯一上手く切り返せるのは祖父だけだったのではないか。

移ろわない季節そのままに、亡き妻と息子に思いを馳せながら。








「爺」

「なんじゃ」

「泣いてもいいんだぜ」

「たわけ」




祖父の杯を酒で満たす。
リリリリ…と響く声は鈴虫だろうか。
季節は眩しい夏から涼やかな秋へと移ろおうとしている。

仄かに輝く満月はぬらりひょんの杯と頬を淡く照らしていた。












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