「あれ?」
 ぼろぼろぼろ。突然涙腺が壊れたように溢れる雫が頬を濡らしていく。
(どうして?)
 アレンはきょとんとしてしまった。哀しいと思うことはなかった。前触れもなく堰が消えたように零れ続ける生温い水滴のその理由がなにも思いつかない。

121026
◆◆◆
ノア神田

 何もない荒野で天を仰ぐようにえもいわれぬ虚無感に心は満たされ、渇きを覚えた喉を潤す術も知らず、零れ落ちる涙の理由さえ解らなくて、喘ぐように上げた声は音になることはなく、吐き出された息が凍てつくような冷気に触れて白く濁った。
「これで、解ったか?」
 鼓膜を打つ言葉に必死で首を振って、全てを拒絶するかのように自らの身体をかき抱いた。

 助けてと呼ぶ声は誰にも届かない。

120911
◆◆◆
ノア神田

 叫んだはずの声は酷く掠れ自分自身でさえも聞き取れず、吐息は凍てついた空気に触れて白く、流れる涙の跡が痛いほど冷たくて、これが夢ではないことを無情に突きつける。零れ落ちたものは二度と元には戻らない。胸に巣食うのはもう絶望ですらなく。彼の去って行く姿さえも滲んだ視界では捉えることができなかった。手元に散乱する瓦礫に爪を立てるとじわりと赤色が広がる。崩れ落ちた膝に、押し寄せる虚無に身を任せられればよかったのに。

120911
◆◆◆

アレンは小さく息を吐いた。吐息は白く宙に漂い、その軌跡を目で追う。その鼻先や頬は赤く染まっている。
けれど、アレンには冷たさも寒さも隔たったように朧気にしか感じられなかった。
大した上着も着ず、白い景色の中で立ち尽くす。黒いベストに雪が積もる。
ティムキャンピーが心配そうに傍を飛ぶ。度々アレンの服を引っ張ったが、アレンはそれに大丈夫だよと一度答えたきりで、ただぼんやりと立っていた。
「モヤシ」
背後から腕を掴まれる。
振り返ると複雑で単純な関係の同僚が顔をしかめていて。アレンは思わずきょとんとしてしまった。
「何ですか」
あまりに意外な相手にぱちぱちと瞼を瞬かせる。
その様子に神田は白いため息を吐いた。
「来い」
そう言って踵をかえす。掴まれた手は解放されず、アレンは後を付いていく。
痛いぐらい強く握られた手首。その温かさを自覚した途端、感覚がはっきりと輪郭を持った。
「神田ー、寒いです」
「馬鹿だろ」

101111
◆◆◆
好きじゃない、なんて言っても

 神田が黒の教団本部に着いたのは夜も暮れた頃だった。眠気も相まって普段以上に不機嫌な神田は報告書をコムイに押し付けて、科学班の羨ましそうな視線を背に浴びながら早々にそこを後にした。
 廊下は静まり返っていて神田の足音だけが響いている。誰とも会うことなく自室のドアの前まで来、そこで神田は顔をしかめた。部屋の中から感じる気配に既視感を覚える。
 がちゃりとドアを開ける。
 神田が部屋へ入ると不自然に膨らんだ布団が視界へと入った。その端から白い糸のようなものが覗いている。
 自分の意思とは関係なく幾度か見ることになった光景に神田は舌打ちをした。
「勝手に入んじゃねえ」
 布団に投げつけた言葉に答えはなく、寝ているならば廊下に放り出せばいいと神田は結論付ける。
「おい、モヤシ」
「アレンです」
 ごそっと布団の山が僅かに動く。
 神田は再び舌打ちした。起きているならば易々とは放り出せない。
「出ていけ」
「ケチケチしてんじゃないですよ」
 返ってきた声はいつもよりも幾分か低い。加えて、微妙に怪しい呂律と完全なる鼻声。
「モヤシ」
「モヤシなんて人はいません」
 返答の速度は変わらないが、その口調にいつもの鋭さはなく、後にくぐもった咳が続く。
 山がごそごそと動くが、アレンにそこから出る気は欠片もないようで、僅かに覗いていた髪すらも見えなくなった。
 神田は布団に手を掛け一気に捲り上げた。
 丸まったアレンの姿が現れる。その頬は仄かに赤く染まっている。
 ベッドに手を付き身体を持ち上げたアレンは不機嫌そうに神田を睨み付けた。
「何すんですか」
 ジトッとした視線を鼻であしらう。
「ここは俺の部屋だ。俺が自分のものをどうしようとテメェは関係ねえ」
 その言葉はアレンの感情を逆撫でしたらしくアレンは険悪な空気を漂わせはじめる。アレンと寄ると触ると喧嘩になるのは完全に生まれもったものからして合わないのだと神田は思っている。けれど、弱っているのを隠そうと虚勢を張って攻撃的になっているアレンには何故か苛立ちが湧かなかった。
 噛み付くように口を開いたアレンが言葉を発するよりも早く神田は手を伸ばしアレンの額に触れた。そこから熱がじわりと神田の指先に移る。
「熱あんじゃねえか」
 予想していたよりも高い体温に眉をひそめる。
「風邪引きは自分の部屋でおとなしく寝てろ。体調管理も仕事の中だろうが」
 黙ったまま予想していた攻撃もないアレンを怪訝に思う。
「聞いてんのか」
「だって、」
 そこまで言ってアレンは手で口を押さえた。その思わずという様に神田は毒気を抜かれる。行動を停止したままどこかぼんやりとしているアレンを眺める。
 意識せずにため息が一つ漏れた。
 それに反応してアレンが顔を上げた。その目が捨てられるのを怖がる子どものものをしているのに気付き、ある感情が湧き上がった。それは今まで感じていたものとは正反対の優しさとかそういう甘ったるものに近く、自然と神田の眉が寄る。
 神田は引くのを忘れてアレンの額に当てたままだった手に力を込めた。無防備な状態だったアレンは簡単にベッドに転がる。ぽかんとしていたその顔が状況を飲み込んで徐々に鋭さを持つ。
「寝ろ」
 アレンが目を見開いた。神田は苦虫を噛み潰した顔で舌打ちする。
 自分でもらしくない行動だと自覚していた。だが、言葉を撤回するつもりはない。
「俺の場所は空けとけ」
 そう言って睨み付ければ、アレンはとろりと微笑んだ。そして、ゆっくりと瞼を閉じる。
「おやすみなさい」
 吐息で呟いたアレンはそのまま眠りに落ちた。
 その様を確認して神田はもう一度ため息を吐いた。規則正しい呼吸が聞こえる。アレンは信じられないほどあどけない寝顔を見せていた。まだ充分子どもと言える年齢だったと改めて思う。アレンは時に悲しいほど大人びている。神田は年相応の顔をして突っ掛かってくるアレンはそれほど嫌いではなかった。最も腹立たしいのは笑うときだ。悲しみも痛みも全て飲み込んで泣くのではなく笑ってみせる。そんなアレンに苛立ちを感じたのはいつからだっただろうか。
 熱のせいかアレンは苦しそうに息を吐き出した。
 神田はそっとアレンの頬をなぞる。熱がさっきよりも高くなっているようだった。
 アレンが神田の手に顔を寄せた。険しかった眉が弛んで再び寝息を立てはじめる。
 神田は眉間に皺を寄せて、けれどそれを振りほどくことはしなかった。

無関心には程遠い。タイトルは微妙な19のお題(http://www.geocities.jp/hidari_no/fr.html)さまから。
「やさしい時間」加筆修正、改題
120416
◆◆◆
そして世界を見失った
ノア神田

暗い水路に浮かんだ舟に一人の青年が乗り込もうとしていた。
「やっぱり、君でしたか」
青年の背後に硬い声が投げかけられる。
その声の持ち主の白髪の少年がコトリと足音を立てて現れた。
「気付いてたのか」
振り返った神田が薄く笑う。どこか軽薄なその笑みは決して『エクソシストの神田ユウ』が浮かべる種類のものではなく。
アレンは苦味を噛み潰したようにきつく眉を寄せた。
アレンは神田とは対照的に酷い有り様だった。服はぼろぼろに破れ、至る所に傷がある。額から流れた血が頬を伝い、肩で息を繰り返していた。
幾多のAKUMAを連れたノアの襲撃。それは速やかに行われた。まるで内通者がいたかのように。
AKUMAは破壊され、ノアは消えるように去った。それでも数多くの死傷者が出、建物も甚大な被害を受けた。教団内は混乱状態が続いている。今なら人一人消えようがおそらく誰も気付かない。
「確証はありませんでしたけどね」
アレンはそう笑ってイノセンスを発動させた。白いマントを纏う。
その様子を神田は目を細めて観察していた。
そして嘲う。
「お前じゃ俺は殺せない」
アレンは言葉に詰まった。
擦り傷程度の神田と既に立ってるのすらやっとのアレン。両者の差は歴然としていた。アレンが神田と同程度の負傷だったとしても、恐らく神田の言葉通りとなるだろう。それは力量の差ではなく、神田がアレンの仲間だったということが大きい。
唇を噛み締めたアレンはけれど不敵に笑って見せた。
何本ものクラウン・ベルトが伸ばされる。それは六幻によって無惨に刻まれた。その間に退魔の険クラウン・クラウンを片手にアレンが斬り込む。それも弾かれ、その衝撃で飛ばされたアレンの体は壁に叩きつけられた。背中を打ちつけられ息が詰まる。
アレンの体は壁沿いに滑り落ちる。気管に一気に空気が流れ込み呼吸が正しくできない。アレンは立ち上がることすらできず、ただ神田を睨み付けた。
神田はアレンに六幻を投げつけた。避けれずにアレンは息を飲む。鋭い刃がアレンの皮膚を貫き肉を絶つ。それはアレンの肩を貫通し、壁にアレンを縫い止めた。激痛が神田が仲間であったはずのアレンを躊躇なく攻撃したという事実と共にアレンを襲う。アレンはただ言葉にならない叫び声を上げた。
神田は無感動にそれを見つめた。
荒い吐息のみがアレンの開かれた唇から漏れる。虚ろなアレンに神田は小さく口角を上げた。
「またな、アレン」
その声にアレンは顔を上げた。その顔は泣きそうな子どものそれによく似ていて。
神田はもう振り返りもせず舟に乗り込んだ。


舟の姿が見えなくなったころ、遠ざかる舟を見つめていたアレンは重力に従って俯いた。
「名前覚えてるんじゃないですか」
悪態は吐息と同化してしまう。
肩に刺さったままの六幻を引き抜く。傷から血が溢れ出た。血を流し過ぎたせいか、目眩がした。
彼が大切にしていた六幻を置いて行ったということ。それは『彼』はもういないことをアレンに突きつけた。
視界が白くなる。アレンの体が傾ぎ、床へ崩れ落ちた。ゆっくりと意識が遠くなる。
気を失ったアレンの右目から一滴の液体が転がり落ちた。

タイトルは群青三メートル手前(http://uzu.egoism.jp/azurite/)さまより。
120323
◆◆◆
傍にいるだけで満足できたら

 アレンは天井を見上げるようにしてベッドに寝転がっていた。ティムキャンピーがその上をふよふよと漂っている。
 つまらない。
「神田ー」
 アレンは神田のベッドを占領して暇を持て余していた。その持ち主はベッドから少し離れたところにある椅子に腰掛けている。
 視界の隅に映る神田にアレンはふとこの部屋に訪れるようになったのはいつからだったかということが頭を掠めた。ここに訪れた回数は片手では足りない。だが、その一番初めとなると記憶が曖昧になっている。アレンは虚空を睨んでいたが、暫くして霧の中に埋もれたそれを探ることを放棄した。
 アレンが自ら訪れると、神田は嫌そうな顔をする。喧嘩になったのも一度や二度ではない。それでもここに来るのを止めなかったのは居心地が良かったからだ。ここの空気は決して温かいものではなかったけれど、ある種の気安さがあった。彼に対しては笑顔を作る必要がない。それは無意識にアレンの呼吸を楽にしていた。
 アレンはごろりと転がり身体の向きを変えた。肘を付き上半身を持ち上げる。
 視線の先には読書に没頭する神田の姿がある。
 改めて綺麗な容姿をしていると思う。彼に言うと確実に六幻の切っ先を突き付けられるのがわかっているので挑発するとき以外に口にしたことはない。彼が掛けている黒い縁の眼鏡が知的な雰囲気を漂わせていて、詐欺だとアレンは小さく笑った。
 神田が本を読む姿は決して珍しいものではないとアレンは知っていた。どちらかと言えば身体を動かすことを主としているが、時たま気まぐれに本を開くことがあった。それはこの部屋で知ったことだ。
 神田はちらりともアレンを見ない。完全に意識を本に向けているが、気付いていないはずがない。
 その様子にアレンは唇を尖らせた。
「そこまで酷い馬鹿は勉強しても治りませんよー」
 神田が本から顔を上げた。冷たい視線がアレンに突き刺さる。
「今すぐ死ぬか」
 アレンは神田が反応したことににんまりした。
「ヤです」
 神田は呆れたように目を細め、再び視線を本に戻した。
 あっさりとしたそれにアレンは頬を膨らませる。足を膝から下、音が鳴るようにバタバタとさせるが、神田の反応はない。アレンはぼふんと音を立てて枕に突っ伏した。
 つまんない。
 アレンは仰向けになり、上目遣いで神田をじっと睨む。
「さっきから鬱陶しい」
 神田が顔も上げず低い声を出した。だが、神田の纏う空気は決して鋭いものではない。アレンは頬を弛めた。
「暇なんですよ。ね、鍛練行きません?」
「一人で行けばいいだろ」
「えー」
 アレンが不満の声を上げると、神田がアレンに視線を向けた。
 神田の口角が僅かに上がる。ふっと鼻で笑った神田に嫌な予感を感じてアレンは身構えた。
「素直に相手してほしいって言えば構ってやるよ」
 アレンは言葉に詰まった。白い頬に朱が散る。
 アレンはじっとりとした目で神田を睨んだ。
「……分かってんなら構ってよ」
 耳まで赤く染めたアレンに神田は僅かに口元を弛め、本を閉じた。

本当はそれで充分なんだけど。タイトルは群青三メートル手前(http://uzu.egoism.jp/azurite/)さまより。
120424

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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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