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「もう行くんですか」
『ごめんね、これから約束で』
そう言って眉を下げて笑った先輩は、床に散らばった自分の服をかき集め、何事もなかったようにきちんと身にまとった。少し汗ばんだ肌にきらりと輝くリングは、とても眩しく見えた。
先輩のいなくなってしまったベッドの上はなんだかとても広くて、冷たくて、彼女のぬくもりを求めて、そっと布団を抱き寄せる。そんなことをしたところで、先輩が戻ってくるわけでもない。ただの自己満足にすぎないが、少しだけ残る温度に安心感を得ずにはいられなかった。
「梓月先輩」
『ん?』
「好きです」
『……』
「愛してます」
『……ありがとう』
玄関先で幾度となくやってきたやり取りを今日も繰り返し、それでも先輩はいつものように、私も、とは言わずに背を向ける。届きそうで届かない、この距離がもどかしくて、手を伸ばしてみたが、結局空を切るだけだった。
『また、ね、若』
静かに玄関が閉まって、もう彼女の息の音すら聞こえなくなってしまった。この小さな部屋から抜け出てしまえば、彼女はもう別の世界の人間となってしまう。またね、ではなく、いっそ、さようなら、と言ってくれたらどんなに楽になるのだろうか。別れてしまえと言ったならば、きっとあの寂しそうな笑顔で、わかったと言うであろう。
下剋上なんてできないほどに、先輩は優しい人だから。
そうやって、彼女の残した温度にすがりながら、俺はまた、この小さな世界で、彼女を想い続けるのである。
(小さな世界、それはとても滑稽めいて)