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「俺、転勤かもしれんって」


家に帰ってきて暗い顔をした謙也は、ぼそりと呟いた。謙也とはもう中学時代からの仲で、大学在学中から同居し始めたが、まだ結婚も何もしていなかったし、するつもりもあるのかどうかすらわからない。恋人だった時代もあった気がするけれど、なんかもうお互いそこにいるのが当たり前みたいな熟年夫婦並の空気感を醸し出しつつ、私は冷蔵庫から目に入ったビールを二つ取り出した。ぷしゅり、と私たちの間の空間を埋めるようにビール缶が叫ぶ。


『どこに?』
「東京」
『ふうん』


東京か、東京だったら侑士がいるやん。侑士もう実家暮らしじゃないでしょ?今も仲いいんだし、シェアさせてもらえばいいんじゃないの。お金もうくし、侑士なら料理下手な謙也のフォローしてもらえるし、健康の面でもいいし。侑士に今から電話してみたらいいじゃない。


「てん」
『何』
「ついて来ん気なんか」
『なんで謙也についてかなきゃなの?』


私だって自分の仕事あるし、やっと軌道に乗って来たばかりで、仕事が楽しく感じるようになったところだと言うのに。ちゃんとした夫婦じゃあるまいし、ただの恋人のために仕事辞めてついてくバカがいるわけないでしょ。
あまりおいしさがわからないビールを全部飲み干して、私は缶をゴミ箱に投げた。でも、それは角に当たって床に落ちた。謙也は頭をかいて、乱暴にネクタイをほどいた。


「は、もう、意味わからん。何でついてこんの」
『結婚してるわけでもあるまいし』
「せ、せやけど!ついてきて欲しいんが男心っちゅー話や!」
『私女だもん、男心とか知らないし。何なの?私だって仕事があるんだよ?』
「わかっとるけど、でも」
『何?そんなに自信無いの?遠距離が』
「別に……」
『遠く離れててもずっと愛される自信無い?それともそんなに私を信用してないの?』
「……」
『……だったらもう、謙也ともおしまいだね。』


そう言って、口を噤んで謙也を真っ直ぐに見つめていると、謙也はしばらく目を泳がせて、言葉にならない声をもらしていたが、しばらくすると小さな掠れた声で、すまんと、一言言って机に突っ伏した。
机の上に置かれた缶ビールは、もうぬるいだろうか。


「感情的になってしもた……すまんてん」
『……』
「……俺が東京に行くことで一人になるのはお前も一緒やし、住み慣れたここにずっとおりたいってのが本音やろうし。っていうか俺がそうやし。てんは俺を信じてくれとるのにな、ほんまごめん」
『……まぁ、ここでじゃあ結婚しようって言ってくれると本当は嬉しかったんだけどさ』
「う」
『でも今余裕無いのわかってるから』
「ほんま……堪忍」


一応二人とも社会人だけれど、まだ大学卒業して数年しか立っていない私たちは、ようやく仕事に慣れて来たところだったし、今はもうそれでいっぱいいっぱいだ。結婚はいつでもできるわけじゃないけれど、でも今は金銭的にも気持ち的にもそんな余裕が無いのは明らかだ。


『あのね、謙也』
「ん?」
『私はあなたについて東京に行くことは選ばなかったけど、これだけは確か。私はあなた以外の選択肢なんて選ぶつもりはないから』
「え」
『一緒についていっても私は謙也の邪魔になる。きっと私の存在に甘えてしまう。それは絶対謙也のためにならないと思う。だから、私は、あなたの住み慣れたこの場所でずっと待ってるから。転勤って言っても、本当は謙也、東京で勉強したかったんでしょう?』
「なんで知って」
『なんとなく、ね。私もこっちで頑張るよ』
「てん……」
『頑張って、あなたにふさわしい女になって、また振り向かせるね』
「……あほ……もう、十分やっちゅー話や……」


女ってorな人生なんだって。
いつも選択を迫られる人生だから損してるっていうけれど。それでもきっと、andにしたって、orにしたって、どちらも私たちが作り上げた人生なのだから、結局苦楽だとか損得だとか関係ないのかもしれない。
謙也がぬるくなってしまったであろう缶ビールを飲んで、やっぱりまずいと言って顔を顰めたから笑えば、お前も飲めと言わんばかりに近くにあったグラスに注がれた。持ち上げた缶ビールとグラスを静かに合わせて、一気に飲み干す。私たち二人が、ビールをおいしいと思えるようになる未来がいつか来ることを願いながら。
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