初めまして謙也さん

隣の部屋の忍足さんはフリーターらしい。

今日も朝早くから、あわただしくドアを軋ませて、鍵を閉める音が聞こえる。ばたばたと走り去る音が遠くなっていくと共に、パソコンの画面へと向き直ってため息を吐く。講義から何も得られなかったのに何を書けというのだろうか。
週に2日の学校、それ以外にここ3か月ほど家から出ていない。就活なんてのもやってない。私は忍足さんのようにこのままフリーターになるのだろうか。いや、フリーターにすらなれないかもしれない。ニートだニート。もうそれでいいや。徹夜で書いていた中途半端なレポートには統一感の無い文字がバラバラと散らばっていて、目をこすりながら上書き保存をする。
ご飯にしよう。そう思って冷蔵庫を開けたけれど何も無かった。今日も朝飯抜きだな。こりゃあ。
結論なんて出ちゃいないけれど、学校に行って印刷してしまえば終わり。そういうことにしよう。だって今日が締切だもん。はぁ。やっぱり眠いなぁ。全部終わったし。
ちょっとだけ寝ちゃおう。


私は隣の忍足さんを見たことがない。
かれこれ3年強ほどここにいるわけだけど、忍足さんはその前からずっといるらしいというのに、姿は一度も見たことない。ただ、朝早くに出て行って、夜遅くに帰ってくる。洗濯機が回るうるさい音と共にうっすらシャワーの音が聞こえてくるが、シャワーが止まったと思ったらすぐにシーンとなってしまう。寝てしまったのだろうか。壁薄すぎだろと思ったけど引っ越すのもめんどくさくなってそのまま。今日もきっと同じサイクルなのだろう。


いつの間にかぐっすり寝ていたらしい。何度も何度もなるインターホンに驚いて、私は電気錠の受話器を取った。なんなんだ誰なんだ。親から仕送りなんて聞いてないし、Amazonesも何も通販なんてしてないし。不機嫌丸出しの声で応答すれば、聞きなれない男の声がした。


「あの」

『はぁ』

「俺となりの部屋のもんなんやけど」

『はぁ』

「……起きてます?」

『はぁ』


何この人。隣の部屋の人?誰だっけ。永友さん?いやあれは女性だしな。男……あ、あー、もしかして。


『忍足さんですか』

「せ、せや!じゃない、そうです!」

『あー……忍足さんって関西人なんですね』

「おん……いや、っていうか、そんな雑談したいんやなくて」

『何ですか』

「俺の鍵、俺の部屋の前に落ちてません?」

『いや知りませんけど』

「知りませんけどじゃなくって!かーくーにーん!確認してくれませんか!?」

『あー……はい、まぁ、いいですよ』

「え、なんでそんなに嫌そうなん……」

『実際そうですし』


私は受話器をだらりとほっぽって(壁に当たっちゃった)、私はのそりのそりと玄関へ向かう。めんどくさいなぁ。小さく開いたドアの隙間から、隣の部屋のドア前を見ると、ああ確かに大ぶりなぬいぐるみみたいなのがついた鍵がある。


『ありましたけど』

「お、おお!ほんまですか!よかった……」

『それじゃあこれで』


切ろうとすれば、いやいやいやいやという声。何、まだ何かあるの。


「びっくりしたわ!何で切ろうとしとんねん!」

『いやだってもう用事終わりましたし』

「俺入れへんやん!」

『はぁ』

「オートロックの鍵もついとるんです!」

『はぁ……』

「はぁ、やなくてやな……とりあえずその鍵、下まで持って来てくれません?」


なんで私……という考えを見透かしたように、忍足さんは、他の人たちは寝とるかしらんけどでらんかったなんて言う。野宿でもなんでもすれば、なんて今のご時世じゃ言えないし、しょうがないなぁ。再び重たい足を引きずって、久しぶりに玄関を出た。
鍵をのっそり拾って、三階から一階までありえない遅さで下れば、オートロックの前で、つま先をトントンとしながら腕組みして立っている男の人がいた。
へえ。この人が忍足さんなんだ。
意外と背も高いし、髪の毛は無駄に明るいけど、顔、かっこいいかもしんない。


「遅い!」

『あー……ごめんなさい……』

「あ、あーちゃうねん、そもそも俺が悪かったんやしな、堪忍、おおきに」


おかげさまでただいまマイホームや。なんて言いながらにかっと笑う。笑った顔も、まぁ、うん、かっこいい。私のおかげで無事アパートに入れた忍足さんの横に並んで、階段をのぼる。ぶうんとどこからともなく飛んできたかなぶんが私の目の前を横切った。


『今日は帰り早かったんですね』

「は?」

『え、だって、いつも夜遅いじゃないですか』

「今も十分遅いっちゅーかいつもと変わらんけど」

『は?』

「いや……は?」

『いやいやいや、今午前中じゃ』

「はぁ?真っ暗やん?」

『は、めっちゃ明るいですけ……ど……あ、これ蛍光灯か』

「いやいやいやいやいやいや」

『え、ちょっと待って、忍足さん、今って何時』

「2時やけど」

『昼過ぎじゃないですか』

「ちゃうって、夜中の2時やって」


なんだそっか、2時か。うんうん、そう、夜中の2時ね。余裕余裕。……は?2時……?夜中の?2時?


『えっ、ええええええええもごもがっっ』

「ちょ、近所迷惑やって」

『は、離し、てっ』

「ちょちょっ、そないな声出すな!俺が襲ってるみたいやん!」

『2時!?はぁ!?夜中の!?2時!?』

「だから、しーっ!声小さく!」

『レポートの締切……』

「れ、レポート?」

『ああ……終わった……徹夜の意味とは……』

「……」

『……』

「心中察したわ……」


私どんだけ寝てたのよ。丸一日じゃないのよ。ここ数日かけて、徹夜で頑張ったレポートはパァ。これまでしっかり受けてきた授業の単位もパァ。
もうホントあり得ない
しかも今日あったばっかりの人に心中察っされて、気の毒そうに見つめられるし。
先ほど以上に重たい足を引きずって、私はなんとか自分の部屋の扉の前に立った。その時に、ひやり。首元に冷たくて固い何かがあたった。びっくりして、変な声が出て、くっと喉の奥で笑う声が聞こえる。


「これ、スポドリ、やるわ。ホントおおきに、助かった」

『え、ああ……はい』

「ここ」


ふと伸びてきた指が、私の目の下をなぞる。また、変な声が出そうになるのを、ペットボトルを持っていない方の手でふさぐ。


「女の子なんやから、きぃつけや」


ほな、また。
そういって、隣のドアの向こうに忍足さんは消えようとする。
あ、何か言わなきゃ。
そんな気持ちにかられて、口を開けば、出てきたのは、初めまして、なんていうこ場にはあまりにも似つかわしくないもの。忍足さんは、一瞬きょとんとした後、またにかっと笑った。


「こちらこそ。よろしゅう、てんさん」



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