『バイブルさん』
「梓月か?」
手元にあった携帯になんとなく触れて、画面をスライドすることなく現れたのは、白石部長の名前。何度か指がいったりきたりして、23:59と右上に表示していた時計が変わった瞬間惜し気もなく通話ボタンを押した。呼び出し音がなる。しかしそれは1回きりで、すぐさま私の耳に白石部長のもしもしという声が聞こえた。
『バイブルさん』
「梓月やろ?どうかしたんか?っていうかバイブルさんて」
『白石部長』
「なんや」
『何してたんですか』
「別になんも。本読んでただけやで」
最近買ったミステリーでおもしろいで、なんて言って、おすすめされた。執筆活動もしている白石部長のおすすめだからきっとおもしろいこと間違いないだろう。私は目の前をちらつく濡れた前髪を撫でた。
『白石部長』
「さっきからどないしてん?」
『白石部長は』
「ん?」
『……やっぱなんもないです』
「なんやそれ」
くっと喉の奥で白石部長は笑った。そんな様子を容易に想像でき、想像してはため息をつきたくなった。
「梓月」
『なんですか』
「梓月ありがとな」
『何がですか』
「いーや、別に」
電話の向こう側でかさりと本のページをめくる音が聞こえた。こんな私とのつまらない会話よりも小説のほうがおもしろいことは明確で、明確であるがゆえに、少し胸が痛くなった。しょせんはその程度なんだ。白石部長の中の私の存在はしょせんその程度。言葉で直接言われたわけではないけれど、言葉で言われる以上に伝わってきてしまった気がする。あえての今日、言おうと思っていた言葉をすべて喉の奥底に飲み込んだ。ああ、息苦しい。
『白石部長』
「ん」
『誕生日おめでとうございます』
そう言って、白石部長の返事を待たずに、電話をきった。数度画面をスライドさせたけれど、白石部長からの電話はこなかった。ああ、くだらない。望めない電話など待っていても無駄だ。無駄が多いなんて白石部長の嫌いそうなことだ。バカみたい。もう関係ないのに、白石部長に好かれることを考えてる。ありえないのに。私は椅子からなだれ込むようにしてベッドに寝そべった。と、その時、机においてあった携帯が私を呼んだ。画面をスライドさせれば、驚きの名前が浮かんでいて、暫く呆然としていると切れてしまった。なんで、なんで電話なんか。私のことなんか興味ないくせに。再び呼ばれた携帯の通話ボタンを恐る恐る押せば、白石部長のもしもしという声が聞こえた。
「自分なんやねん」
『……』
「だんまりはあんまりやで」
『……つまんないです』
うるさいわ、と言って白石部長は小さく笑った。再び私と白石部長の間に沈黙が落ちる。だが、先ほどの本をめくる音はまったくといっていいほど聞こえず、ただ、白石部長の息をする小さな音しか聞こえない。