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「知っていましたか?」
何を、と聞かずとも分かるその男が言わんとする言葉を飲み込む。
嫌だ、嫌だ。絶対に口に出したくない。どうせなら一生気づかないままでいたかった。
待ち伏せされた人気のない路地に二人。頭に持って行った手をするりと下におろす。
「知って、いましたか?」
もう一度ゆっくり言った男はそのまま口の端を上げて笑った。
崩れ落ちた私を見下ろす目は鋭くて、冷たい瞳かと思いきやどことなく愛おしいものでも見つめるような優しさを含んでいた。
「私は、柳生なんですよ」
絶望というのはきっとこのことなんだろう。目の前が真っ暗で、もがいてももがいても助かる余地もなにもなくて、ただただ苦しい。
「あなたが追いかけていたのは、仁王くんではなく、この私だったんですよ」
私との距離を縮めた男は私の頬をするりと撫でた。背中を撫でられるような気持ち悪さが全身に伝わる。
「あなたの心も体もすべて、私のものとなってしまったのですよ」
好きだった。仁王先輩が。ずっとずっと追いかけていた。お弁当を作ったり、差し入れを持っていったり、陰でいろんなことを言われながらも、諦めることなんてしなかった。告白もした。そして、ようやく先輩とつながれた。幸せそのものだったのに。ずっとひたっていたかったのに。なのにどうして今頃。
「もう、私も限界なんです」
そう言った男は目を伏せた。一瞬だけ悲しい瞳を私に向けて。
なんとなく気づいていた。彼が本物の仁王先輩じゃないことを。ずっと、ずっと前から。でもそれでも、錯覚していたかった。先輩に愛されていると。それでもう十分に満たされていたのに。幸せだったのに。
「幸せそうなあなたを見ているのがずっとつらかった」
本当の意味であなたを抱きしめたかった。そう言った男は私から少し離れる。なんだかそのまま消えてしまいそうで、怖くて。私は必死になって男にしがみついた。
「私はここにいるんですよ」
私をそっと大事に包んだその腕はいつもと同じで、それでいて、まったく違う腕だった。