「犬」と「約束」

犬と約束するべからず。
犬と約束違えるべからず。
犬は忠義ものだ。主人の命に背きはしない。だが、一度約束を違えたならば、途端に噛みつかれ、大切なものを奪い取ってしまうよ。

どこかの迷信なのか、物語なのか、はたまた作り話なのか、その日、本好きの祖父はやけに神妙な面持ちで幼い私にそう語って聞かせた。
いつも穏やかで優しい顔だった祖父の顔が見たこともないほど強張っていて、それだけでも子供ながらに怖くなってしまったし、祖父の様子がいつもと違ったのもあって、私は、その夜悪夢を見てしまった。
どこかすら分からないほど真っ暗な空間に、禍々しいなんとも形容しがたい物体が有象無象に群がり続け、その複数が冷たく燃え上がる刀のようなものの切先を首に突きつけた時、一陣の風とともに、私の前に一匹の犬が立ち塞がっていた。
まるで私を守るように威嚇するその犬に怯んだのかなんなのか、瞬く間に禍々しい異形は暗闇と共に霧散し、なにもない真っ白な空間に私と犬だけが残されていた。
犬はしばらくなにもなくなった空間を見つめ、私へと向き直ると、何事か静かに吠えて、私は思わず、犬の身体を抱きしめながら、それに返事をする。
犬は私に身体を預け、されるがままに撫でられ続けていた。やわらかく、ふわふわで、毛色の美しい犬だった気がする。
見たこともない珍しい毛色、そう、確か紫陽花のような色の、


「主、少しいいかな」


障子の向こうから聞こえた声に、はっとして腕時計を見れば、どれくらいの間物思いにふけっていたのか、夜の九時にさしかかるところだった。
疲れていたのだろうか、こんな昔の記憶なんて、とっくに忘れていたはずなのに。
未だざわざわとする心を落ち着かせながら、慌てて机の上の書類を整理していれば、再び心配そうな私を呼ぶ声が聞こえて漸く、障子を開けた。


『長義、どうしたの?なにかあった?』
「ああ、いやこれを届けにきたんだ」


少し渡しづらそうにするその手紙は、政府からの通達だ。
政府の監査官だった男士たちから幾度となく受け取ってきたが、彼の様子を見るに今日はそれとは違うようで、だけどなんとなく察しながら、文章に目を通せば、案の定。


『本丸解散命令か……』


ついに、来たか。
最近任務も少なくなり、出陣回数も減ってきていたのは事実だ。
単にそれだけ平和になったのだと思えば、嬉しいことではあるのだが、風の噂で、あちらこちらで本丸解散命令の指示がきていると聞いたことがある。
演練で顔をよく合わせていた他本丸の審神者も最近はとんと見かけなくなった。
あの噂は本当だったのだ。


『持ってきてくれてありがとう、長義』
「構わないよ、それで、……主はどうするつもりかな?」
『みんなに伝えてくるよ』
「……俺が伝えようか」
『ううん、私が言わなきゃ』
「大丈夫かい?」
『うん、大丈夫だよ、気合入れてく。大事なことだもの』
「そうだね、……いっておいで」


優しい言葉に背中を押され、ぐっと堪えていたものが、どっと噴き出しそうになってしまった。
別れは覚悟していたはずなのに、いざ直面すると、いろんな気持ちがまぜこぜになって、こんなにも動揺してしまうんだな。
いつも通り振舞いたかったのに、きっと声が震えていただろうから、長義にも気づかれてしまったはず。
最初に来た頃は見定めるような冷たい態度だった長義の声が、今は私を気遣うようにあたたかくて、それだけの積み重ねを感じてしまい泣き出したくなってくる。
しばらくひとりになって、じっくりゆっくり考えたいのに、おそらくこの命令が発令されて数日後にはこの本丸ともみんなともお別れだ。ぐずぐずしている暇はきっと、ない。
息を大きく吸って、吐き出して、ぐっとお腹に力を込めて、意を決して彼らひとりひとり訪ねることにした。
庭に、畑に、厩舎に、道場に、厨に、大広間に、各々の部屋に。
そこにはいつもと変わらない彼らの生活があって、明日も明後日もずっと続くと信じて疑わない音や匂いや感触があった。
私だってこれがすべて消えてしまうだなんて、信じられない。
信じられないけれど、ひとりひとり伝えていく度に、どこかで聞こえる泣き声のような寂しさが、隙間風のように肌をなぞっていくので、じわじわと実感が伴ってきてしまった。
あと、ひとり。
あとひとりで伝え終わってしまう。
ずっと握りしめていたらしい手紙が、手の中でしわくちゃに折れ曲がっている。
漸くたどり着くことができたこの部屋は、五月雨江の部屋だった。
景色がいいからと奥の部屋を欲しがった彼の元へ行くのが、日々業務に走り回る私の憩いの時間だったし、彼とぽつりぽつりととりとめのないことを語りながらぼんやりと花や草木を眺めているのが大好きだったのに、今は彼の部屋を訪ねるのがこんなにも嫌だなんて。


『五月雨江、……いるかな?』


きゅっと喉がつまる感覚がして、気づかれないように深呼吸をする。
返事がないので、いないのかと思えば、静かに障子が開いて、五月雨江が顔を出した。


「頭……」
『入ってもいい?』


ゆっくりと頷いた五月雨江は私の手を引いて誘ってくれて、部屋の中へと足を踏み入れれば、庭に臨む縁側の向こうには、季節外れの紫陽花が咲いていた。
どうしてこの時期に、とも思ったけれど、解散する本丸にまで政府の手が回っていないのかもしれない。
特に深く考えずに、やけにふかふかの座布団に腰かけると、同じように五月雨江も向かいに座った。
私の言葉を待つ五月雨江の表情は、前髪に隠れていて何を考えているのか分からない。
彼もみんなと同じように寂しがってくれるだろうか、惜しんでくれるだろうか。
私の犬だと言うのだから、少しくらいその表情を変えてくれたらいいのに。


『大事な話があります』
「なんでしょうか」
『この本丸は近日中になくなることになりました』
「そうですか」
『今まで力になってくれてありがとう』
「……」


頭を下げてみたものの、彼から返ってくる言葉はなにひとつなく、顔を上げるタイミングを失いつつ、沈黙に耐える。
それでもなにも反応がないので、漸く顔を上げれば、今度は言葉を失ってしまった。
確かに少しでも寂し気な表情を見せてくれれば、審神者冥利に尽きるとは思っていた。
だけれど、これは違う。
この、恍惚とした表情は、違う。
ぞわり、肌が粟立って、恐怖に近い感覚が襲ってくる。


「嗚呼、約束が果たされる時が来たのですね」


頭が割れそうなほどのひどい頭痛がする。
遠のきそうになる意識を食い止めたくて、太腿に爪を立てるが、五月雨江は優しい手つきで引きはがして、その指先に唇で触れた。


「あなたは約束してくださいましたよね」
『約束……?』
「はい」
『約束なんて、した覚えは、』
「あるはずですよ」


彼の紫色の瞳は私を捉えて離さない。
ああ、どこかで、同じような色を、見たことがある気がする。
そう、そうだ、あの夢の中で見た、あの犬と同じ、美しい、紫陽花色。


「犬と約束違えるべからず」
『あ、』
「犬と約束するべからず。犬と約束違えるべからず。犬は忠義ものだ。主人の命に背きはしない。だが、一度約束を違えたならば、途端に噛みつかれ、大切なものを奪い取ってしまう」
『あ、ああ、なんで、五月雨江がどうして、それを、』
「あなたのお爺様がそうご忠告されていたのに」


約束をしてしまいましたね。
左手指のひとつひとつの感触を確かめるように、ゆっくりと指を絡めてきた五月雨江は、そのまま腕を引いて距離を縮めてくる。振りほどこうとしても、彼の力にかなうわけもなく、耳元で、あの時のように抱きしめてくださらないのですか、と揶揄うように笑うその息に身体が痺れてしまう。


「ひとつ、良いことを」
『……』
「私はあなたの力で生まれた刀ではありません」


ひどい眩暈まで襲ってきて、ぐるぐるとまわる視界の中で、考えたくても考えられない。
五月雨江は何を言っているのだろう。
秘宝の里で刀を見つけた後、まぎれもなく私の力で顕現させたはずだ。
当時の近侍である一文字則宗もその場で見守ってくれていたから間違いない。それなのに、どうして。


「あの日、私は刀の姿に戻り、あなたの前へわざと現れたのです」
『なんのために……?』
「それはもちろんあなたに約束を守っていただくために」
『っ、』
「私は政府所属の五月雨江、数年前審神者選定の儀にて、先代審神者の元へ赴いた折、あなたに初めてお会いしたのです」
『先代……』
「あなたのお爺様です」
『……私、聞いてない……』
「お優しい方でしたから、巻き込まないようお伝えしていなかったのでしょう」
『そんな……』
「ですが、結果、あなたと私は出会ってしまった」
『だから私を審神者に……?』
「時間遡行軍があなたを狙ったのが何よりの証拠です」


あの禍々しい異形は、今思えば確かに時間遡行軍だったのだと思う。
審神者として初めて見たそれに既視感があったのは、夢の中の異形と思えば納得ができた。
優しい祖父のことだ、こんなものと生死をかけて戦うなんて、出来ればさせたくなかったのだろう。
選定の儀が行われることを知りながら、きっと巻き込まないために忠告だけをして、何も告げなかったのだ。
しかし次代審神者を選定するくらいだ。祖父も高齢で力が失われつつあったのだろう。それ故に狙われることとなり、審神者としての力があることを証明してしまった。
それに飽き足らず、祖父に言われた言葉を守らずに、「犬」とも約束をしてしまった。
視界の隅で、庭に咲く紫陽花を、雨が打つ。


「一目見て、私にはあなたしかいないと思いました」


切なげな吐息と共に静かに告げる彼の腕の中に、いつの間にか閉じ込められていて、逃げられない。
それでも時折頭を撫でる彼の手が、大事なもののように触れるので混乱してしまう。


「少々強引な手も使いましたが、それもあなたの傍に居るため」


夢の中の約束。私と一匹の犬が交わした約束。それが一体なんだったのか。
頭痛がよりいっそうひどくなるにつれ、逆に靄がかかっていたものが晴れて、夢の記憶が鮮明になっていく。


「私をあなただけの犬に、そして、あなたを私だけのひとに」


約束を違えてしまったら、噛みついてしまいますよ。
夢の中の言葉を一言一句そのままに、私に笑みを向ける。
薄れゆく意識の中で、さあ北へ、嬉しそうな声でそう五月雨江がつぶやいた気がした。


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