セールスマンは夜歩く

この仕事について3年程経ったのだと思う。
朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる、そんなことを繰り返していたら日にちが分からなくなってしまった。週に二日休みはあるけれど、それは必ずしも土日じゃないから、曜日感覚もなくなった。

セールスマンには、別に憧れてなったわけではない。
なんとなく就活をして、なんとなく試験が進んで、内定した先が、今いる会社だっただけ。社長命令でセールスマンにさせられただけ。
毎日課されるノルマは、8時間程度で終わらせられるわけもなく、新人の時は怒られてばっかだった。
残業しても達成できない、達成できないから外に出たまま会社にも戻れない。そんな毎日は、私の心を失くすには充分だった。


『サエキさん?』


先輩から急に渡された資料を見て、首を傾げていると、先輩はただよろしくね、と言って退勤していった。
何がよろしくね、だ。どうせまた合コンかなんかだろう。飽きないな。でも、こんな会社だ。それが先輩のストレス発散なのかもしれないし、早くいい人見つけて退社したいのが本音。仕方ないこと、だと思う。
でもだからと言って、仕事押し付けるとか、無い。


会社から4駅程離れたアパートに、サエキさんというお客さんは住んでいるらしい。
きっと仕事をしているとかで、先輩はこのサエキさんに会えなかったのだろう。
3階分の階段をのぼって、一番奥のドアの前に立つ。荒くなった息を宥めて、インターホンを押す。応答なし。ドアの横の窓からも光りは漏れていない。
まだ、帰ってきていないんだ。なんだ、私の残業もこれで終わったじゃない。さっさと帰って寝よう。
そう思って踵を返した時。


「俺に何か用ですか」


家主が帰ってきてしまったのだ。


『あ、あの、インターネット回線のことでお伺いしに……えっと、それで今よりお安くなるプランがあるのですが』


鞄から取り出した資料を手渡すと、受け取ったサエキさんは私をじっと見て、まぁ上がっていきなよ、と言った。
別に男の人の部屋なんてものは何度だって入った事があるし、目新しいものではないけれど、私が周ってきたどの男たちよりも、綺麗に部屋が片付いていた。もしかしたらこの人はちゃんと契約してくれるかもしれない。
ベッドの近くに置かれたテーブルの上にぽつんとパソコンが置いてあった。サエキさんに促されるままに、その近くに座ると、サエキさんは私に麦茶を差し出した。少しだけ口にして、資料を並べていると、サエキさんは私の前に座った。


「俺、家ではインターネットしない主義なんだ」


失敗した。
そんなデータどこにも載っていなかった。いや、見逃したのかもしれない。分からない。てっきりインターネット利用者だと思って、その切り替え変更用の資料しか持って来ていなかった。心臓がぎゅっと掴まれた気がしたけれど、ここでひるんだままでいてもしょうがない。
私は、つまりながら、新規契約の説明を始める。
ああ、でも、うまくいかない。
つまらなそうにサエキさんは私を見つめている。
ああ、本当に、どうしよう。


「ねえ」


肩を押されて、背中にカーペットのふわふわとした感触がある。目の前には、変わらずサエキさんがいて、わけがわからなくなる。


「君の体をくれたら、契約してもいいよ」


ああ、この男も……。
シャツのボタンを外す指に、冷静になった。
なんだ。
どうせかさばるだけだったし、資料これだけしか持って来てなくて正解だったじゃない。
さっきの失敗は撤回。大成功。


『契約してくれるなら』


別に珍しい話じゃなかった。
先輩だって、その上司だって、こんなこといくらでも経験していた。私だって。
反抗したところで、それはただのクレームとなって、自分達に跳ね返ってくるだけだ。
だから私たちは、夜中でも出歩いて仕事をする。
ノルマが達成できるなら、だから、私たちは心を失くしていく。
この人は他の男と違うと期待していたけれど、そんな期待をしてしまった私がバカだった。
どうせ一緒。
いっそのこと、この人に孕まされて、仕事辞めざるを負えなくなればいいのに。


「君はバカだ」


何が起こったのかわからなかった。
あたたかいぬくもりと、優しい匂い。しっかりとした腕が、私の背中にある。


「今までもこんなことしてきたのなら、本当に、君はバカだ」


何が起こったのか分からない。ただ、私の目からはとめどなく涙があふれ出してきた。
サエキさんは、そばに置いてあったカーディガンを私にかけて、資料を片付け始めた。
私はサエキさんに追いやられて、玄関の外に出る。


「また来て」


私はただ黙ってその言葉に頷く。
サエキさんは最後に少しだけ笑んで、扉を閉めた。


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