第3話 失墜のジャバウォック
「お兄ちゃんがナイトメア様の部下ですか?」
久し振りに会った兄と喫茶店でお茶をすれば、自然と話題はお互いの近況報告。
まあ、引っ越しが二回程、最後に兄に会ってからあったから『近況』にしては遠い。
ここの店は好き。入り口から右手はボックス席、左がマスターのいるカウンター席。
美味しい珈琲の楽しみを邪魔をせず、寧ろ引き立て役をしてくれるレコード音楽……曲名は私にはわからないが、緩やかなこの曲が好き。前回の国ではこの喫茶店がないのが、残念だったので今回の引っ越しは嬉しかった。
「その嫌に強調した“が”や“ナイトメア様”が気になるいい方だな……まあ、そうだ。お前は相変わらずか?」
「そうですよ。相変わらずです。仕事も順風満帆ですので心配しないでくださいね」
「……俺たちは兄妹なのに、どうしてその話し方が抜けない?」
私が今飲んでいるのも美味しいけど兄のが羨ましくなって次にそれを頼もうかと考えていると、視界に兄の苦虫を噛んだような顔が入ってきた。
「……相変わらず、ですから」
だが、その表情を見るよりも重要なのが兄の背景のドア。距離にして二メートル。
私が座っている二続きの椅子の、左手側には相棒。
その冷たい、でも頼りになる感触を確かめた。
磨り硝子越しに見える人影。
普通の動作でドアが開けられていくのを、私はゆっくりだと認識する。
そして、私は――――
カランッ、と趣のあるドアベルよりも、
ドンッ、と乾いた破裂音を、
「仕事が順調なのも相変わらずです」
店内に響かす。
嗚呼、なんて甘美な音。
失墜のジャバウォック
グレイが店内と外の境目に倒れた女よりも、目の前の妹を見る。
また、店の客が青ざめてクリアを見る。マスターに関しては迷惑そうにため息を吐いてから死体を片付けようとカウンター席の向こうから出て来た。
「俺に当たったらどうするつもりだったんだ」
「お兄ちゃんになんか当てませんよ」
火を噴いたのは椅子の上に置いたライフル。けれど、銃口はドアとは九十度違う窓の外に向いていた。
グレイですら反応が出来なかった速度で放たれた銃弾は、さながら蜜蜂の如くドアを開けた女に向かっていった。
その軌道は複雑に店内を飛び回ったのだが、標的以外に触れていない。
珈琲を口にしてから、未だに眉をひそめてクリアをまだ見ているグレイに微笑んだ。
洗練された笑顔はこのことを言うのだろう。
グレイにとっては、加工された原石の成れ果て。
「だってお兄ちゃん、私仕事中だったんですよ」
「……」
「昔みたいに接することが出来なくても、お兄ちゃんは私の大切なお兄ちゃんだから大丈夫ですって」
「おいっ、ジャバウォック」
不機嫌なマスターのややしわがれた声とともにテーブルに叩きつけたいのは伝票。
紙が厚いのがグレイには気になったが、今の仕事の内容を知らない彼は黙ってことの成り行きを見ていた。
「なんで、店の中で殺すんだ?客足が引いたらどうするんだ」
「半分だけしか店に入ってませんよ。そんな小さなことを言っているとまた頭が薄くなりますよ」
「ストレスだ!!お前の作ったストレスだ!!こっちを見るな。トカゲのガキ!!」
役持ちに怒鳴り、別の役持ちをガキ扱いしたマスターの頭は……やや薄かった。
だが、全体的な問題だから気にするものじゃないか。と心に飲み込ませるように珈琲を飲んだ。
「……お兄ちゃん、怒らないんですか?」
二回の引っ越し前にクリアが見たグレイならば――例え、クリアが贔屓にしている店でも――刺しているのだ。
「いや……何故だか、ナイトメア様よりマシだと思えて……」
新しい職場のことを思い出して胃が痛むのか、腹部を押さえた。
クリアがよく見れば、グレイの目の下に隈が出来ている。
仕事で、こんな風になる兄は珍しい。とクリアは首を傾げた。
「あの夢魔ならよくうちの店に来てるぞ。……最近は見ないが、入院か?」
腕を組んで二人を見下ろしているマスターの言葉にグレイはややうなだれて、
「入院……そんな言葉もあったな」
乾いた笑いをする。
「お兄ちゃん、大丈夫ですか?」
「連日徹夜の睡眠不足で大丈夫に思えるならば、な……はあ……」
今までの疲れがどっ、と溢れてきたかのように額に手を当ててため息を吐く。
「デートだったなら平気だったのに?」
「それと仕事を並べて比べるな……」
「………変わったね、お兄ちゃん」
クリアは手を伸ばして伝票を取ろうとする。しかし、下敷きの黒いプラスチックの板に指先が触れる前に手を捕まれた。
正面の兄ではなく、横から。
「マスター」
「ジャバウォック、お前は――――」
「そんなに私のことを愛しているんですね!!」
「っ……」
捕まれた左手とは違う手を頬に添えて照れたように言うクリアにマスターはずっこける。
「ジャバウォック!!俺をからかうな!!」
「いたっ」
右手でクリアの頭をはたいた。
「……」
グレイはそのマスターの動きにふと、違和感を覚えた。だが、その小さな違和感が何なのかわからずにいる。
じっ、と見ているとグレイの視線に気づいたのかマスターは右手を方の高さまで上げて言った。
「こっちは動かねえんだ」
ひらひら、と操り人形の手のように揺れる手。手の甲には銃痕があり、そこだけ肌の色が違った。
だから、力無くはたくことしかできなかったのだ。
「動かなくて正解ですよ。マスターの拳骨は凶器です」
手を捕まれていない方で裏返しの伝票を手にとってクリアは見る。
伝票には本来、あるはずだろう請求書の代わりには札束と写真付きの紙切れ。
「………」
ちらり、とクリアはマスターの方を見てから困ったようなため息をついた。
札束は先程の殺しの件。
理由はクリアには知らされていないが、マスター自身からの依頼だった。
「仕事か?」
「ええ……」
写真つきの紙は依頼書。
ポケットからマッチ箱を取り出し、一本擦る。
小さな火がクリアの指先で揺らめく。
「私はお兄ちゃんと会えて、幸せだった」
「………不吉にとれるタイミングで、昔の口調で言われても嬉しくはない。
ターゲットは誰だった?」
「――――秘密ですよ」
火を写真に与えて、存在を燃やす。
燃えやすい紙が燃え、写真がゆっくりと灰になっていく。
「それでは、これで失礼します」
微笑を浮かべ、立ち上がりながら燃えている途中のそれを手放した。
ひらひら、と落ちながら燃えて床に落ちた頃にはクリアは店を出ていった。
燃え残りをマスターが「ジャバウォックめっ」と悪態をつきながら箒とちりとりで灰ごと回収する。
写真の燃え残りには――――赤い色とハートのAが見えた。
「“我はジャバウォック”」
ハートの城に一番近くて、安いモーテルにクリアは一室取った。
通りに面した窓には古びた厚手のカーテン。そしてその下の壁にはクリアが――――ジャバウォックが長銃を抱えて体を預けていた。
男物の喪服は決して清潔とは言えない部屋と混ざり合い、不気味な空間を作り上げている。
「“恐怖そのものである”」
狙撃屋、レディ、マスカレードの影……様々な呼び方があるが彼女の二つ名は少ない。
銃弾と――――ジャバウォック。
遠い昔、クリアも役なしだった。
それが銃弾となり、そしてジャバウォックを世襲した。
命を奪い去る銃弾。
恐怖を与えるジャバウォック。
『よく覚えておけ、銃弾』
先代のジャバウォックの言葉が仕事前のクリアの頭を過ぎる。
今日の標的が標的だからだろうか。
集中しなくてはいけないのに雑音が入る。
『ジャバウォックってのはいつか恐怖を与えられ、絶望するか倒される』
己の心すら脅かす運命というなのルール。
何を馬鹿な。とルールを聞いたときにクリアは笑ったが、先代の手の傷を見たときに口をつぐんだ。
『だから、必ず獲物は喰らえ。
そうすればルールなど怖くねえ』
「“獲物を喰らう、一つの恐怖である”」
呼吸を落ち着かせてるために目を閉じ、雑音を消しにかかる。
先代の言葉も消え去った。なのに……。
『そして、ジャバウォックは名も無き騎士に倒されました』
兄が昔読んでくれた本の結末が蘇った。
それで今度こそ終わりにし、銃弾の軌道を心に描く。
「んー……なんで城に戻ってきたのかな?」
一四二時間帯前にエースはやっとのことでハートの城を抜け出せたのだが、彼にとっての何度別の道を通っても城に戻ってきてしまう。
「時計塔ないし、帽子屋屋敷もない。今回の引っ越しは暇を持て余すぜ」
エースは暇と言いながら城を背に向けてあるいているが、暇とは言えないほど城には仕事がある。彼がここにいるということは部下か一番上の上司に皺寄せが行っているはずだ。
「………」
ふと、エースは何か気付いた。だが、歩みは止めない。
周りにあるのは古びた店や宿、瓦礫の山ぐらいだ。
いかがわしい店もあり、治安は良いとは言えない通り。
「………刺客、かな。それにしては殺気がないけど」
殺気を冷たいと表現するならば、エースが感じたのは自分と同じ温度。寄り添っていてもわからないのだが、違和感が残る。そんな気配を感じた。
来たら応戦しようと、無意識に仕舞い込んだ剣の柄に手を添える。
刹那、風が空を切る音がした。
体を反らしながら、背後から飛んできた鉛玉を、後ろを振り返りざまに剣で凪払った。
左手を地面についてバランスを取り、体制を整える。
この間、エースは無意識で動いた。そうだったからこそ、エースは脳に銃弾を受けることなく立っていられる。
有意識では手放すことになっていた命。長年の経験と勘だけで反応した。
「――――……やっぱり、刺客か。俺は騎士だから狙撃とかじゃなくて直接攻撃の方が性に合うからそっちがいいぜ」
右頬が浅く切れていて、その傷から血が滲み出た。
ぐっ、と剣を持っていない方の手の甲でピリピリ、痛む頬を拭う。手袋について血を確認することもなく、辺りを見回す。
視線が合った。
「っ!!」
クリアは叫び声を出しそうになるのを堪えた。
まだ気配を溶け込ませているのだが、叫んでしまえば居場所がわかってしまうだろう。
否、エースにはわかってしまった。と、クリアの直感は警笛を鳴らしている。
厚手のカーテン越しに、しかも1メートル離れて銃弾を操ったのだ。わかるはずがない。
でも、視線が合った気がしたのだ。
カーテン越しに、空間越しに、体越しに……心というものがあるならば、その心という視線が合ってしまった。
なんて、陳腐な御伽噺。家にある本の影響だろうか。
クリアはそんなことを一瞬考えたが、直ぐに部屋を後にした。
失敗した。
きっと、いくら銃弾を浴びせてもエースには当たらない。
クリアは銃を抱きしめるようにしながら、屋上を目指した。
甘い鳴き声や歪な喘ぎ声にクリアの足音が合わさる。
まるで狼に怯える兎のようにクリアは階段を駆け上った。
三階の階段から一番遠い端の部屋の天井には、屋上に通じる窓がある。
一階から入り口で出られたらどれだけ楽だろうか。だが、玄関から出ればエースとはち合わせてしまう可能性がある。
二階から駆け始めたのに、クリアの息はあがっていた。
直接、対峙して戦うのを避けてクリアが駆けるのは恐怖からだ。
全身の血が巡り、ドクドクと脈を感じる。もし、心臓があるならば止まりそうなくらい早鐘を打っていたはずだ。
今まで獲物を逃したことなどない。それが今、一人の騎士によって打ち砕かれた。
部屋に入り、机を足場にして天窓に飛びつく。そのまま勢いを殺さずに足を蹴り上げて窓硝子を割り、通り抜ける。
硝子の破片が飛び散って服や肌を切ったがクリアは気にすることなく着地した。
どこへ向かうかクリアにもわからない。逃げ出すためにクリアは走った。
赤い騎士が見ていたことすら気付かないまま、ジャバウォックは疾走する――――。
マスターは店の2階に自宅を持っている。ここ2時間帯、店を閉めていたのでそろそろ開けようかと一階に降りてきた。
店と隔てるドアのノブに手をかけたところで中の気配に気付く。
「………はあ」
中にいる人物もマスターがいることに気付いているようなので、ため息を隠さずに零してドアを開けた。
「こんにちは」
「……てめえの迷子癖は噂に聞いているが、俺の店にまで迷い込むな」
カウンター席に座り、勝手に使用した珈琲メーカーで珈琲をエースは嗜んでいた。
「はははっ、今回は迷い込んだわけじゃないって」
「じゃあ、不法侵入だ」
「それも違う。開いているかな〜ってドアノブに手をかけたら開いたんだ」
マスターが目を店の入り口にちらり、と走らせる。
ドアは閉まっているが、あるべき場所にドアノブがなく風穴があいていた。
「このガキが……」
悪態をついてからカウンターの内側へ入る。
そうするとエースが持っているカップの中に目が行った。
珈琲にしてはやけにどす黒く、表面に固形物が浮き出ている。
「……ご注文は?」
「これ以外で」
「たくっ……最近の騎士は碌に珈琲すらいれられねえのか?」
エースからカップを奪い返すと、珈琲メーカーに入れて淹れ直し始める。
水に対して多すぎる上、温度が足りていなかったそれはマスターの手によってまともに仕上がっていく。
「騎士だからさ。……前の騎士は淹れられたの?元・ジャバウォックさん」
「……」
ピクッとエースに背を向けて作業をしていたマスターの体が一瞬だけ止まった。
横目でエースを見たが、嫌ににこにことした笑顔だけしかわからなかった。それと、僅かな殺気。
「前の前の奴は、な。それでカフェイン中毒持ちになっちまって、気違いな時が多かったがな」
顔なしの顔でニヤリと笑ってもエースにはわからないだろうと、淡々と答える。
「ふーん……」
「何しに来た?」
背を向けたまま、マスターは作業を続けた。
敵に近い存在だが役なしの彼には警戒した所で勝てない。
「ははっ、珈琲を飲みに決まっているじゃないか。それとちょっと、世間話をしに、ね」
「世間話?」
「そっ。今のジャバウォックのこととか」
背後で赤い色の闇が笑う。
動かない右手が疼く。銃を構えたくて、引き金を引きたくて疼く。
「……」
そして、ふいに過ぎる幻痛。
在るはずのない心臓の位置が痛む。
「彼はどこにいるんだい?
一応、刺客として送られてきたんだから倒しておかないと。騎士の名折れだ」
「彼、ね……彼は知らないな」
騎士の言葉よりも珈琲メーカーの音と香りに意識を置いた。
それは諦めたことであるがある意味、決意だった。
ゆっくり、と振り向いた。
「嘘は良くないぜ」
熱い……痛みよりもそれを感じた。
痛みは熱さだった。
視界の隅で珈琲の入った硝子容器がゆっくり、と床に落ちていくのが見える。
「嘘、じゃねえよ…クソガキっ」
硝子が飛び散る。
中の優しい黒い液体が床に広がって、その上から鮮やかな赤が足された。
左肺に―――綺麗に時計は避けて―――刺さった剣を左手で握る。
右手はだらりと下がったまま。
でも、全ての現実の痛みは熱だけで、痛みと呼べるものは駆け回る走馬灯と共に甦る痛みだけ。
― ああ……あの馬鹿弟子は……… ―
『え?ちょっ、まってーな。自分、ブレイクタイムに殺されるのは勘弁。勘弁。あと少しで飲み終わるさかい』
本の台詞を真似たら戻らなくなったという関西弁になっていない、おかしな口調の騎士と珈琲の香り。
― 俺と同じように、殺し損ねて…… ―
殺し損ねた騎士という友人。
『このマスカレードは“ “みたいな殺し屋達が仕事を集めるためやったんか……知らんかったわ。
“ “、自分を殺す依頼は受けへんといてな。お前にやったらもう、簡単に殺されてしまう』
色鮮やかな仮面の下、騎士は笑った。
『なあ、“ “。お前が助かるなら自分を殺せ。騎士つっても全部が全部、ジャバウォックを殺すわけなわけじゃないやろ?』
ジャバウォックという役を捨てて虚無を彷徨った。
一度手に入れてしまった、名前と顔は失ってからも残酷で。
ジャバウォックを捨てたのではなく、捨てられたのだと思い知らされた。
ジャバウォックという完璧主義な悪魔に捨てられた役なしカードは何も見いだせない。
『笑ってーな。自分は珈琲と笑顔で送り出されたいわ』
最期まで変な口調で、笑っていた友人を殺して、ジャバウォックは戻っても――――虚無だった。
そして、ジャバウォックは
時計までも壊し、
右手の痛みと共に
ジャバウォックから逃げ出した。
― 呪いがかかった弟子に幸こそあれ……それがお前をジャバウォックに差し出した俺の願いだ ―
「ハートの、騎士……エース」
ニヤリ、と笑った男の顔にエースは不愉快そうにして、剣の柄を握る手に力を込めた。
ズブズブ、とより深く突き刺さる。
男は右手で親指だけを伸ばし、下に向けた。
――――地獄へ堕ちろ。
「彼女のゲームへようこそっ……」
「なんや、もう来たんかい?」
珈琲をすすりながら、意外そうな顔をする。
「いや、随分長く生きたぜ。この気違い」
「まあ、ええわ。じゃあ、珈琲全種類制覇に付き合えや」
「……」
テーブルの周りにはカップと珈琲豆の入った瓶の山。
「時間は大量にあるから付き合ってやるぜ」
この世界に幻想かもしれないが、天国というもので繰り広げられる古い世代のお茶会。
「彼女、か……」
死体の前で、エースは剣の血振りをして呟いた。
「言われてみればそうだ。俺って目が悪くなったかな?嫌だな、眼鏡は……ペーターさんとお揃いみたいで」
いつの間にか夜になっていた。
窓から差し込む月明かりがエースの影を作り上げて。
赤い月が笑っていた。
エースはゆっくり、と目を閉じて海の方から聞こえる獣の遠吠えに耳を傾けた。
「面倒なことになりそうだぜ」
グレイが胸騒ぎを覚えて、町外れの海の近くにあるクリアの家に来た。
この国では海に殆ど囲まれていて、波間を文字通り獣が駆け回っている。
クリアのログハウスは海から少し離れて土台を高く作ってあるとはいえ、夜の満潮時には玄関のぎりぎりまで波が押し寄せる。
満潮時の唯一のログハウスまで行ける道はロープで繋がれた丸太。全てが繋がっているものの浮島のように不安定で間隔がかなり空いていた。
「クリア!!」
わざわざ不安定な道を行くよりもグレイは名前を呼ぶことを選んだ。が、海からの風にかき消されたのか、クリアから返答はない。
気配に敏感な妹ならば、グレイがここまで来たときにはもう気づいて出てくるはずだったが、出てこない。
グレイは助走なしの跳躍をすると丸太という足場に着地し、体重が加わったことにより沈みかける足場から次へ移動する。
常人には成し得ない業で不安定な足場から、しっかりとした玄関に着地する。
「クリア、いるだろ?」
ドアに鍵がかかっておらず、手をかければ簡単に開いた。
鍵をかけ忘れたとしたらかなりの不用心。
海水にやや浸かったお陰で水を含んだ裾や靴は気持ち悪かった上に玄関を汚した。
カーテンは閉められていて、電気もついていない。
暗闇だった。
「クリア?」
グレイの耳に押し殺してすすり泣く声が聞こえた。
「……」
手探りで壁のスイッチを探して点けた。
一瞬の間の後に灯りが部屋を照らしたがクリアの姿はない。
少しだけ辺りを見回す。
病的なほど片付いて統一されていた部屋は見る影もないほど無残だった。
何かを探し回ったというよりも、ただ感情的に荒らしたという感じだ。
グレイの足が真っ直ぐ、壁際のベッドへ向かう。そして、片膝をついてベッドの横に垂れ下がった毛布をまくり上げる。
「どうした?もう、ここには潜り込まないと思っていたんだかな……」
ベッドの下の奥にクリアが体を丸めていた。
時折、小さくしゃくりあげてすすり泣いているクリア。上着の袖を何度もかじっている姿はあまりにも小さかった。
重なるのは幼い頃の姿。昔はグレイもまだまだ子供で歳の離れた妹を面倒を見きれず、しようともしなかった。
そして、クリアはベッドの下で夜は家族が帰ってくるのを待っていた。怖いことがある度に潜り込んで泣いていた。
「いくら掃除をしていても床で寝るな。ほら、出てこい」
昔のように隙間に腕を入れて抱き寄せることは出来ないので、手を差し入れる。
「う……よ……」
唇を震わせて言った。が、かすれた声でよく聞こえない。
「どうしよ…お兄ちゃん」
顔をグレイに向けた。だが、実際は見つめたのかもしれない。
不安に泣いている目でグレイを見ていたのかもしれない。
「…ジャバウォックじゃ、なくなっちゃった」
顔がグレイには認識できなかった。
同時に役なしを初めて見たいとグレイは思った。強く願った。
……あんなに見ていた妹の顔が見えない。
グレイは腕をベッドの下に入れて、無理矢理クリアを引き吊り出した。
「大丈夫、だ。だから、泣くな」
「おに、いちゃん……?」
頭に手を添えて、体に腕を回してきつく、きつく抱き締める。
久し振りに抱きしめた体はあまりにも柔らかくて、そして震えていた。
「俺が何とかしよう……だから、泣かないでくれ」
「………」
返答は無かったが、クリアの震えは止まっていた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
表情のわからないクリアがどんな顔をしているかなんて、グレイにはわからないこと……。
……と、いう昔話もありました
え?続きは?
それはまた今度です
だって、エース様がそこにあと17秒で通るのですから!!
(エース様を一番に愛してますけど、お兄ちゃんも大好きです)
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