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■崖

「…………」
 目を覚ますと背中が痛い。身体を起こすと、エースのコートが床に落ちた。
 窓の外は夜で、星がきれいだ。そしてたき火をしている野郎がいる。
「おーい、リン! ご飯が出来たぜ!」
 私を見、手を振るエース。赤いコートの下は、黒い詰め襟なので、夜目に見づらい。
 私はコートを小脇に抱え、あくびをしながら『汽車』から出た。
 エースの隣、たき火の前の倒木に腰掛けた。
「はい、どうぞ」
「ども……」
 木の枝に刺さった何かのお肉を受け取る。
 噛んでみると焼き加減が絶妙で、塩とコショウというシンプルなスパイスも利いている。
「ほら、寒いから風邪を引くぜ」
 肩にさっきの赤いコートをかけられた。
 そのまま肩を抱きよせられる。
 特に抵抗せず従っていると、
「うん。食べ物はあるし、寝る場所もある、恋人もいる。最高の旅だぜ!」
 そのまま顎を持ち上げられ、キスをされる。
 う。焼き肉の味!
「というか、なんで森の中に汽車があるんですかね?」
 首を傾げる。

 あの後。生け垣の中でコトを終え、ちょっと休んでからまた城を目指して旅に出た。
 途中、メイドさんやら兵士さんに見つかり、かなりの勢いで道案内を申し出られたが
……奴はことごとく拒否。
 結局、城の敷地を出てしまい、気がつくと森にいた。
 あと会話ついでに、エースが城の軍事責任者であることも判明。
 始終出歩いてて本気で大丈夫なのか。
 ともあれ、そのまま夜の時間帯になった。
 どこでテントを張ろうかと思っていたら、なんと汽車の車両を発見。
 廃車両というやつだろうか。
 赤い蒸気機関車の車両が一車両だけ、木々の途切れた草地に放置されていた。
 煙突のついてる最前部ではなく、途中の一車両のみ。
 不思議な光景だった。
 車両は何十年も経ったかのように、苔むし、木が根を張り、窓ガラスも
あちこちひび割れ、森の一部になりかけている。
 しかし廃線跡と言う感じでもなく、他の車両や線路跡は見つからなかった。

「多分、この辺りで事故を起こした汽車なんじゃないかな。
 テントを張る必要がないから、助かるぜ」
 エースにはその程度の認識らしい。
 何の警戒もせず扉を開け、廃車両に乗り込んだ。
「事故って言われても……」
 だから線路も何もないのに。
「まあ汽車自体があいまいなものだからね。
 あーあ、ここにユリウスがいたらなあ。
 あいつ時計屋だから、こういうの詳しいと思うんだけど」
 そう言われ、ギョッとする。
「と、時計屋!?」
 しかしエースは平然と、
「うん、時計屋ユリウス。今は他の国にいるけど、俺の親友なんだ」
「――え、ご存命!?」
「え、唐突にどうしたの?」
 てっきりこの世にいらっしゃらないかと思ったから。
「い、いえそのですね、別に、あの……」
 身体が震える。
「ユリウスのこと、誰から聞いたんだ?」
 エースはきょとんとした顔で聞いてきた。
 しかしその顔は、話すことを強要している。
 そして私は……話すしかなかった。


「あ……あはははは! あ、あははは!!」
 抱腹絶倒とは言うが、実際にそうなってる現場は初めて見た。
「ユ、ユリウスが女で、俺の恋人で、しかも死んでると思ってた!?」
 エースは文字通り腹を抱え、地面にのたうち回って爆笑している。
 私はもう全身真っ赤で、腹いせに焚き火の焼き肉を片づけまくっている。
「だって、グレイが……!!」
 うん。グレイが悪い。彼の説明をするのに髪が長いとか言うから!
「もちろん俺とユリウスは、そんな気色悪い関係じゃないぜ。
 親友で、ただの上司と部下だ」
「あー、安心しました!!」
 ヤケになって怒鳴る。
「は、はははは! だから二股なんかかけてない。俺の恋人は、君だけだって!」
 安心させるようにキスをされた。
 まあ確かに時計屋なる人が、男性で安心したけど。

 ……なら、何であんなに……。

 扉を見つめるエースの姿が脳裏に思い出される。

 エースにそんな趣味がないのは、本人から断言されてる。
 同性が好きだという素振りも見たことがない。
 ――なら、いいじゃないですか。二股でも××でもないんなら。
「ユリウスはいい奴だよ。君も会ったら絶対に気に入るって」
 私の隣に座り、エースが肩を抱いてきた。
「そうですね」
 私もエースを抱きしめ、彼に唇を重ねた。

 …………

 よく晴れた昼間だった。
 私はバケツに浸した水で雑巾を絞り、汽車の外壁を拭く。
 古い廃車両はちょっと拭いたらすぐ雑巾が真っ黒になる。
 でも汚れをちょっと落とせた気がして、気分が良い。
 え? 雑巾やバケツはどこから出したって?
 いや、何かそこらへんにありました。水はすぐ近くの川からくんできて。
 いい加減、私も不思議の国のご都合主義に染まった気がする。
「リン〜、精が出るよな」
 汽車の中から、あくびをしながらエースが出てきた。
「放っておけばいいのに、こんな古い汽車」
「そうはいきませんよ。お世話になってるんだから」
 そう言うと、
「リンは強いよなあ」
「は?」
 苦笑され、エースを見る。なんですか、唐突に。
「強いって。だって自分が今いる場所を家にしてしまう」
「はあ?」
「掃除はさ。君なりのマーキングだろ? 
 掃除をしながら、ここは自分の居場所だと周囲に宣言してるんだ」
「…………」
 どんな妄想ですか。呆れ顔をして否定すれば良かった。
 でも心の奥深い部分を刺された気がして、手が止まる。
「……そんなわけないでしょう。馬鹿馬鹿しい」
「自分の場所がなくても自分の場所を作れる。居座れる。
 君は強いよ。俺よりずっとね」
 エースはたまに、こんな風に核心をつくことがあるから怖い。 
「考えすぎですよ」
 しかもエースの言い分を鵜呑みにするなら、私は相当に図々しいキャラ
ということになる。
「俺じゃ、まだ君を落ち着かせられないかな」
 エースは空を見上げ、首をかしげている。
「……ちっとも安定してないじゃないですか、エースは」
 私はもう掃除する気になれず、川に向かいながら小さく吐き捨てる。
 やっぱり嫌な人だ。別れたい。
 今度は帽子屋屋敷のお世話にでも――
「リンっ!」
 そのときエースの鋭い声がして、突き飛ばされた。
 持っていたバケツが転がり、汚水が地面にこぼれ、染み込んでいく。
 自分の発言がエースの逆鱗に触れたかと錯覚しそうになったが、違うらしい。
 エースが剣を抜き、私を守るように立ちはだかっていた。
「な、何!? 何ですか?」
 いや、すぐに分かった。
 無言で銃や剣をかまえる男性たちの姿があったからだ。 
 この前のように、倒された後の姿ではない。
 エースを狙った新たな刺客だ。
「送ってきたのはペーターさんかな? 
 城の生け垣でイチャついてたらから、キレちゃったとか?」
 え。ちょっと待て、エース。
 もしかして、生け垣でのアレ、見られはしなくとも気づかれてた?
 羞恥にわめきそうになったのも一瞬。
 エースが鋭く私に指示をする。
「リン。俺が奴らの気を引くから、汽車に入って扉を閉ざして。
 後は身体を伏せて絶対に動かないでくれよ!」
「は、はい!」
 けど相手の数がただ事じゃない。花畑のときより人数が多くないか。
「エース、この人数を一人で……」
 どうにかして逃げた方が良くないだろうか。
「この程度の人数なら、トカゲさん一人の方がまだ大変だ。大丈夫。俺を――信じろ!」
「っ!!」
 エースが斬り込み、敵の銃が一斉に火を噴く。
 なのに騎士は……ありえない。
 神がかった動きでそれらを避け、残った銃弾は剣で跳ね返す。
「リンっ!!」
 ハッとして私は転がるように汽車に走り、どうにか中に飛び込んだ。
 そして扉を……うう、ガタが来て、閉まらない!
 わっ! 扉の中に銃弾が! 
 私の手をかすめたそれに、全身が総毛立つ。
「……!」
 刺客の一人が乗り口から、車内に入ってこようとした。
「わ! こ、来ないで!!」
 車両の一部とおぼしき鉄パイプを床から拾い、乗り込みかけた男の顔面に叩きつける。
 もんどり打って、鉄パイプごと外に転げる刺客その1。
「ナイス! リン!」
 外で待ちかまえていたエースが、後ろから彼に斬りかかる。
 赤いのが車体の床に飛び散るのが見えた。
「リン! 扉を閉めてくれ!」
「はい!!」
 エースは汽車を背にし、刺客を切り裂いていく。
 相変わらず銃弾まで弾く光景は、現実とは思えない。
「動け……この……っ!」
 私は使っていない筋肉まで総動員した。
 その甲斐あってか少しずつ扉は動き――閉められた!
 鍵をかけ、一息つく。そして扉の向こうから疲れを感じさせないエースの声。
「リン。すぐに片づけるから、中で伏せててくれよ!」
「はい!」
 エースが走り去る音がする。続いて銃弾と剣の音。
 だけど敵の数はまだまだいたはず。
 本当に大丈夫なんだろうか。
「きゃっ!」
 汽車の窓ガラスが銃弾を受けて砕ける。
 私は慌てて床に伏せ、飛び散るガラスの破片から身を守り、ただ震えた。
 外を確認しようにも、流れ弾にやられるかもと思うとできない。
 実際、扉付近にも銃弾がたたき込まれ、慌てて離れた。
 剣の音と、エース自身が挑発する声で彼の存命が確認できるだけ。
 でも次第に余裕がなくなってきたのか、声も聞こえなくなる。さらに重なる、銃声と剣の轟音。
 ――エース……!
 そして最後に静かになった。

「エースっ!!」
 扉を開けようとするが、元々ガタが来ていたものを無理やり閉めた上、銃弾が撃ち込まれて変形している。
 こうなると開けるのは不可能だった。
「そうだ、窓から……」
 慌てて見るが……銃弾で破壊された窓は……超危険です。
 蜘蛛の巣ヒビは入ってるけど、完全破壊には至ってない。
 けど、窓の向こうに傷だらけのエースが立っているのは見えた。
「エース!」
 片膝をついて呼吸を整えている。笑顔はない。
 さすがに無傷とは行かなかったのか、赤いのが頬を流れるのが見えた。
「エースっ!!」
 窓ガラスをガンガン叩くと、彼は笑顔になり、こちらに手を振る。
「リンー! 無事で良かったぜ。俺、騎士らしかっただろう? あははは!……あれ?」
 そして私が出てこないことに気づいたらしい。
 剣の汚れを草で軽く拭うと鞘に収め、こちらに駆け寄ってきた。
「あー、なるほど。これは開けにくいか」
 外から汽車の扉を開けようとし、
「うーん。ちょっと難しいなあ。あ、そうだ」
 手をポンと打ち、
「俺がご飯を持ってきてあげるから、これからずっとここに住んだら?
 そうすれば君は迷子にならないし、俺は君を失う心配をしなくてすむ」
 ……斜め上にもほどがある発言をされた。
「何、アホなこと仰ってるんです」
 餌係が迷子癖の時点で、死亡フラグ直行だ。
 愛する者を監禁、みたいな陶酔の響きはゼロである。
 私は窓をコンコンと叩き、困り顔の恋人に、
「窓ガラスを割ってもらえませんか? さっき掃除をしたせいで、中に石とか何も落ちてなくて」
「うーん……」
 エースは困っているようだった。
 開ける方法を探して、ではなく何か悩んでいる風だった。
 銃弾を剣で弾く男が本気を出せば、私を出すことは可能だろうに。

 ――いや、このまま私に背を向けて行っちゃうんじゃ……。

 まただ。ヒヤっとしたものが背中を這う。
 エースは私を守ってくれた。
 守る気があったことは疑いようがない。
 なのに、次もそうしてくれるんだろうかと、不安を隠せないでいる自分がいる。

 時間帯が変わる。夕方になり、長い影が車両に差し込む。
 エースの表情は影になって分からない。
 

 激しくきしむ音がして、外の光が車内にさしこむ。
 どうにか扉は外れた。
「さあ、お手をどうぞ」
 さび付いた上に、変形した扉を無理やり開けた化け物は、うやうやしく私に手を差し出す。
「どうもありがとう……」
 引き気味な私は、彼に手を取られ、どうにか汽車から出られた。
 地面の草の感触が懐かしい。
「君が無事で良かったよ」
 ギュッと抱きしめ、額にキスをしてくる。
「……ありがとうございます」
 顔の傷に手を伸ばし、言ってみる。
 もう赤いのは乾いていた。
「うん? お礼なら、いつもより少し濃厚な××××で応えてほしいなあ」
 セクハラすぎることを言われ、腰のあたりを意味ありげに撫でられた。
「ふざけたことを言わないで下さいよ。こんな場所で……あ、あれ?」
 周囲を見るが、あれだけ倒れていた人たちは、どこにもいない。
 この前の刺客と同じだ。
 彼らの身体はどこに消えたんだろう。
「どうしたの?」
 エースは笑顔で私を見下ろしている。
 聞けば、何か答えてくれる。そんな気がしたが、
「い、いえ……何も……」
 私が聞く以上のことも語るのではないか。そんな嫌な予感がした。
「それじゃ、行こうか!」
 エースはさっさと私の手を引っ張り、歩いていく。
「え? どこへ?」
 するとエースは振り向き、最高の笑顔で、
「どこへでも。俺たちの歩いていく先が、俺たちの目的地だ!」
 ……RPGのエンディングか。いや、今時ここまで投げっぱ……失礼、ベタな台詞もあるまい。
「何アホなことをほざいてるんです。ハートの城に行くんでしょう? お城で治療もしないと」
「あー、冷たい! それにさっきより物言いがひどくなってないか?
 君を守った正義の騎士に向かって!」
「はいはいはい。姫君役を期待されてるなら、頭の傷くらい見せて下さい。
 元々アレだったのが、もっとアレになりますよ?
 あ、そうだ。確か私、応急処置セットを……」
「リン〜」
「……あ。処置セット、落とした」
「あはははは!」
 なぜ勝ち誇ったような笑みになる。
「放っておけば治るって、こんなの」
「ならせめて、川の水で洗いましょうよ」
 ……いや、迷子同士でたどりつけやしねえ。
「ああもう!」
 キレて頭を抱えていると、エースは上機嫌で、
「楽しいなあ。君はいつまでもずっと迷ってそうだ」
 頭を撫でられムッとする。
「とにかく行きましょう。ここにいたら水も食料もつきちゃいます」
「うん! 俺を導いてくれよ、リン!」
 迷子呼ばわりされた後じゃ、嫌みにしか聞こえないわ。
「さあ、ハートの城へ行こう。ハッピーエンドだよな!」


 ハッピーエンドかあ……。

 ハートの騎士様と手をつなぎ、森を歩く。木漏れ日は気持ちいい。
 迷ったままでも大丈夫。時間帯が経てば、服や身体の汚れは勝手にきれいになる。
 食料はエースが狩ってきてくれるし、なんだかんだで水場も見つかる。
 たまーに騎士様の気まぐれで身体を重ねさせられたりするけども、最近はあまり嫌でもない。
 ハートの城に行き、女王様や宰相の人と挨拶し、お城でいつまでも幸せに暮らしました。
 でも本当にそうなるんだろうか。
 こうしてエースと手をつないで笑顔で会話をしながら――なぜか、そんな未来が
全く想像できないと気づく。
 何が足りないんだろうか。そして思いつく。
 会話の途中、時折遠くを見つめ、言葉を途切れさせる彼に。
「ねえ、エース。ユリウスっていう人に会いに行きませんか?」
 言ってはいけないかもしれないことを、口にしていた。
「は?」
 いきなりそんなことを言った私に、エースはきょとんとした目を向ける。
「ハートのお城の方は、多少留守にしても問題ないみたいだし、なら少し
足を伸ばして他の国に行ってみましょうよ」
 この世界の交通機関はよく分からない。
 彼の親友が、どのくらい遠くの国にいるかも分からない。
 けど汽車があるのなら、他の国に行ってすぐ帰ってくることも出来るはず。
「リン。ユリウスはただの友達だぜ? 他の国に行くほど大層な奴じゃないよ」
「ただの友達なんだから、ちょっと会ってすぐ帰ってくればいいじゃないですか。
 何もお友達の国に引っ越すわけじゃないんだし」
「ええ〜? 簡単に言うなあ。やっぱり余所者は理解出来ないぜ」
 何か微妙に会話がかみ合わない気がするけど……相当遠くに住んでるのかな。
 それとも日本みたく、気軽に海外旅行出来ない土地柄とか?
 首を傾げていたら、いいことを考えついた。
「そうだ、エース! あの『扉』ですよ!」
「あの扉? あれは、自分が望む場所に連れて行ってくれる扉だぜ?」
「だから、あなたが使えばいいんですよ!」
 私にとって、落ち着かない気持ちにさせるものだけど、どこで●ドアだと思えば便利な道具に思えてくる。
 あれなら交通費もいらないし、移動時間もゼロだ。
 あれ? なら、なんで皆、あんな便利なものを使ってないんだろう。
「二人でユリウスさんに会いに行きましょうよ」
「ちょっと待ってくれよリン。どうしていきなり、そんなことを言い出すんだ?」
「え、だって……」
 
 何か、寂しそうだったから。

 ……なんて男の人に言えるわけないか。
 でも考えに考え、その結論に至った。
 彼が扉の前に佇んでさえいなければ、分からなかったかもしれない。
 出会った当初からの様子、私を好きだか傷つけたいんだか、どうでもいいんだか分からない態度。
 時計屋が不在だから不調、という複数の証言。
 エースの問題のいくつかは、彼の親友の不在が関わっているのでは?、と思えてきたのだ。
 なら会ってみればいい。簡単じゃないか。
 顔を見て安否を確認出来れば、エースも落ち着く。
「いえ何となくですよ。たまには気分を変えて、お友達のところに足を伸ばしてみましょうよ!」
「本当、気軽に行ってくれるよなあ……」
 彼にしては珍しく、困り果てた顔だった。
「エース? わっ!」
 振りむきかけ、慌ててエースにつかまる。
「あ、危ない!」

 目の前に唐突に崖である。さすが不思議の国。ふつうに足を踏み外すところだった。

「本当だ。俺たちって運が悪いよなあ」
 私を片腕で抱きしめながらエースが言う。
 熊に襲われたり、蜂の巣をつついたり、崖につきあたったり。
「で、ですね」
 そう言って、安全な方へ行こうとした。
 けど動けない。
 一歩後ろに下がれば崖の下なのに。
「あ。エース。もしかして落ちる気ですか?」
 恐ろしいことに、彼と崖を落ちたことは何度もある。
 ただ、いずれの場合も途中でなぜか落下速度がゆるみ、大事には至らなかった。
「慣れると楽しいですよね。ドキドキしますし」
 やや危険なバンジー気分。でも安全だと分かれば、それなりに楽しい。
「ああ。あれはね、俺が落下する――をのばしているからなんだ」
 風が吹いて一部が聞き取れなかったが、エースが何かした、というのは分かった。
「え? すごい! エース、魔法が使えたんですか!?」
 さすが不思議の国。夢魔は飛ぶし、騎士は魔法を使う! ザッツ・ファンタジー!
「うん? 厳密には違うんだけど、まあそれでもいいかな? あははは!」
 そう言って私の腕をつかみ、ドンッと私を――
「っ!!」

 足が地面につかない。
 全体重が手首にかかり、直後に激痛が走る。

 一瞬何が起こったか分からなかった。
 エースが、私を崖から押し、右手首だけつかんで私を支えていると気づいた。
 崖っぷちで女一人分の体重を片手で支え、彼にとっても楽な体勢ではないだろう。
 けど彼は笑っている。
「え、エース! 痛い、痛い痛い痛い!! 悪ふざけは止めて下さいっ!!」
 頑丈なあなたと違って、私は普通の小娘なんだから。
 冗談抜きで手首が外れる!! 折れる!!
 浮遊感への混乱もあり、涙がこぼれた。
「……本当に……早くあげて……」
 エースを見る。
 何でこんなことを――と言い掛け、止めた。

 あ。

 この顔は知っている。何度も何度も見た顔だ。
 迷っている。今、この瞬間に。
 ずっと、ずーっと、エースは迷っていたのだ。
 私を殺そうか殺すまいか。私に笑いかけながら。
 
 あー、ダメだ。心底から理解不能だ、この人。

 たった一瞬であきらめる。
 私が更生させるとか支えてみせるとか、誓えるレベルじゃあない。
 もっと深いところに重大な歪みを抱えている。
 私みたいに迷いたくて迷っているのではない。
 まあ、簡単に言ってワケ分からん。
 
 痛みではない涙がこぼれる。
 胸が切り裂かれそうになる。
 可哀想な人だなあ、と思って。

「離して……下さい……」

 それだけ言えた。

「愛しているよ、リン」
 
 エースは私の手を離す。

 減速することのない猛烈な落下感。
 私は最後までエースを見ていた。
 彼は、出会ったときと寸分違わぬ笑顔だった。

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